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石川県金沢裏千日町に生まれる。本名照道。俳号は魚眠洞。
旧加賀藩の足軽組頭を務めた父とその家の女中であった母の間に生まれ、不義の子として生後一週間ほどで養子に出される。継母は雨宝院という寺の内縁の妻であった赤井ハツという女性。この寺には他にも兄、真道や姉、おてい、犀星の後より貰われてきた妹、おきんなど数人の貰い子がいた。
気性の荒い継母のもと、血の繋がらぬ兄弟と時には折檻に耐え乍ら少年時代を過ごすことになる。このことは後に著する自伝的小説『弄獅子(らぬ きい)』や『幼年時代』などに詳しい。
母の不注意のため小学校には半年遅れで入学。劣等生で反抗的、喧嘩っ早いと当時の級友が語っている。9才の時に実父が73才で死去。実母は家を追われ、以後の消息は不明となる。
後年「作家というものはいくら書いても自伝だけは書ききれないほど材料があるらしい」と述べている。
7才の時雨宝院の嗣子となるが貧窮のため高等小学校を中退し、12才で兄、真道の勤める金沢地方裁判所の給仕となり7年間働く。端的に言えば彼の学歴は小学校までであり、以後は全て独学である。昭和初期までの人物で、小学校卒業で学歴を終えた人物はそう少なくもないし、現在でも学歴と才能は全くの別 物であるが、文学というごまかしの効かない世界で大成するには並々ならぬ努力と天性の才能があってこそだと思われる。
明治40年7月、犀星18才の時に『新声』に投稿した『さくら石斑魚にそへて』が児玉 花外に認められ、文学で身を立てようと思い始める。42年9月、裁判所勤めを辞して地方紙の記者を転々とし、44年22才で上京、貧窮と放浪の生活をしながら詩作に励む。
俳諧は初め藤井紫影や大谷繞石に学び、更に松下紫人、北川洗耳洞に教えを請う。北声会に入会して新傾向運動に参加し、注目される。
20代半ば、萩原朔太郎を知り大正3年に『卓上噴水』(全3号)、次いで大正5年『感情』(全32号)を創刊。『感情』には後に山村暮鳥なども加わることになる。
大正7年1月、処女集『愛の詩集』次いで9月『叙情小曲集』を自費出版というかたちで発表。破格を多用する独特の文語叙情詩が評判を呼び、朔太郎の『純情小曲集』と好一対と評され、「日本語の詩を読む有り難さを感じる」と絶賛され天才の名を恣にする。
同年、浅川とみ子と結婚。後年生まれる長女、室生朝子は随筆家となり父犀星の伝記なども著する。
後にドストエフスキーやトルストイなどの影響を受け、文語詩から感情を直接吐露できる口語自由詩に転向をはかることになる。
小説は芥川や谷崎、佐藤春夫などに深く感化された。大正8年『性に眼覚める頃』9年『あにいもうと』『戦死』、昭和31年から翌32年にかけて発表した『杏っ子』、昭和33年~34年の『かげろふの日記異文』など。
関東大震災で一時金沢に帰郷していたが、再上京後は芭蕉研究に没頭し、昭和3年『芭蕉集記』を発表。東洋的枯淡へ傾倒する。因に俳句は『魚眠洞発句集』として纏められている。
他著作として随筆『女ひと』『我が愛する詩人の伝記』など。
72才、肺癌で死去。墓は金沢市野田山墓地。
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阿倍仲麻呂 |