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諸国の玩具(しょこくのがんぐ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 15:36:00  点击:  切换到繁體中文

底本: 梵雲庵雑話
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1999(平成11)年8月18日
入力に使用: 1999(平成11)年8月18日第1刷

 

例の珍らしいもの、変ったもの、何んでもに趣味を持つ僕の事ですから、このあいだ三越の小児博覧会へ行った。見て行く中に、印度インドのコブラ(錦蛇にしきへびあるいは眼鏡蛇めがねへび)の玩具おもちゃがあったが、その構造が、上州の伊香保いかほで売っている蛇の玩具と同じである。全く作り方が同じである処から見ると、この玩具は初め印度あたりから渡ったものらしい。もっとも今は伊香保だけしか売っていないようですが、昔は東京にでも花時などに売っているのを往々見かけた。昔東京で僕らが見たのは、胴と同じように、頭も木で出来てあったが、伊香保のは、頭が張子で、形は段々と巧みになっている。それからこの間、『耽奇漫録たんきまんろく』から模したのですが、日向国ひゅうがのくに高鍋たかなべの観音の市に売るという鶉車うずらぐるまの玩具や、また筑後柳河で作る雉子車きじぐるま、この種の物は形が古雅で、無器用な処に面白味がある。この節では玩具一つでも、作方つくりかたが巧みになって来たのは勿論であるが、面白味がなくなった。例えていえば昔の狐の面を見ると、眼の処に穴が空いていないが、近頃のはレースで冠って見えるようになっているなども、玩具の変遷へんせんの一例でしょう。面といえば昔は色々の形があった。僕の子供の時代であるから、安政度であるが、その時分の玩具には面が多くあって、おかめ、ひょっとこ、狐は勿論、今一向いっこう見かけない珍らしいのでは河童かっぱ蝙蝠こうもりなどの面があったが、近頃は面の趣味はすたったようだ。元来僕は面が大好きでしてね。その頃の僕の家ですから、僕が面が好きだというので、僕の室の欄間らんまには五、六十の面を掛けて、僕のその頃の着物は、たもとの端に面のちらし模様が染めてあって、附紐つけひも面継めんつぎの模様であったのを覚えています位、僕が面好きであったと共に、玩具屋にも種々あったものです。清水晴風さんの『うなゐのとも』という玩具の事を書いた書の中にも、ベタン人形として挙げてあるのはこれで、肥後熊本日奈久で作られます。僕は上方風かみがたふうにベッタ人形といっているが、ベタン人形と同じものですよ。それからこの間仲見世なかみせで、長方形の木箱のふたが、半ば引開になって、蓋の上には鼠がいて、開けると猫が追っかけて来るようになっている玩具を売ってますのを見たが、これは僕の子供の時分に随分流行はやって、その後たれていたのが、この頃またまた復活して来たのですな。今は到底売れないが昔亀戸かめいどの「ツルシ」といって、今張子はりこの亀の子や兵隊さんがありますが、あの種類たぐいで、裸体の男が前を出して、そのきへ石を附けて、張子の虎の首の動くようなのや、おかめが松茸まつたけを背負っているという猥褻わいせつなのがありましたっけ。こんな子供の玩具にも、時節の変遷がうつっているのですからな。僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、しばらくの間に変ったものです。奥山は僕の父椿岳ちんがくさんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネの前かスリエという曲馬が――明治五年でしたか――興行された時に、何でもジョーワニという大砲をかついで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時空鉄砲からでっぽうの音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院でんぼういんの庭で、土州どしゅう山内容堂やまのうちようどう公の持っていられた眼鏡めがねで、普仏戦争の五十枚続きの油画をのぞかしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖しもおかれんじょうさんが持っています。その覗眼鏡のぞきめがねの中でナポレオン三世が、ローマのバチカンに行く行列があったのを覚えています。その外廓がいかくは、こう軍艦の形にして、船の側の穴の処に眼鏡をめたので、容堂公のを模して足らないのを駒形の眼鏡屋がりました。しかして軍艦の上に、西郷吉之助と署名して、南洲なんしゅう翁が横額に「万国一覧」と書いたのです。父はああいう奇人で、もうける考えもなかったのですが、この興行が当時の事ですから、大評判で三千円という利益があった。
 当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処あたりに、伊井蓉峰いいようほうのお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波きたにわつくばがいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん/\といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑木雪庵かぶらぎせつあん、広瀬さんに椿岳なんかがいました。古い池の辺はやぶで、狐や狸が住んでいた位で、その藪を開いて例の「万国一覧」の覗眼鏡の興行があったのです。今の五区の処は田圃でしたから今の池を掘って、その土で今の第五区が出来たというわけで、これはその辺の百姓でした大橋門蔵という人がやったのです。
 その後椿岳は観音の本堂傍の淡島堂に移って、いわゆる浅草画十二枚を一揃ひとそろいとして描いて、十銭で売ったものです。近頃では北斎以後の画家として仏蘭西フランスなどへ行くそうです。奇人連中の寄合よりあいですから、その頃随分面白い遊びをやったもので、山門で茶の湯をやったり、志道軒しどうけんの持っていた木製の男根が伝っていたものですから、志道軒のやったように、辻講釈つじこうしゃくをやろうなどの議があったが、これはやらなかった。また椿岳は油絵なども描いた人で、明治初年の大ハイカラでした。それから面白いのは、父がゴム枕を持っていたのを、仮名垣魯文かながきろぶんさんが欲しがって、例の覗眼鏡の軍艦の下を張る反古ほごがなかった処、魯文さんが自分の草稿一屑籠ひとくずかご持って来て、その代りに欲しがっていたゴム枕を父があげた事を覚えています。ツマリ当時の奇人連中は、京伝きょうでん馬琴ばきんの一面、下っては種彦たねひこというような人の、耽奇の趣味を体得した人であったので、観音堂の傍で耳の垢取あかとりをやろうというので、道具などを作った話もあります。本郷玉川の水茶屋みずぢゃやをしていた鵜飼三二うがいさんじさんなどもこの仲間で、玉川の三二さんは、きた字引といわれ、後には得能さんの顧問役のようになって、毎日友人の間を歴訪して遊んでいました。父の椿岳が油絵をおそわったのは、横浜にいましたワグマンという人で、この人の油絵は山城宇治の万碧楼菊屋という茶屋に残っています。このワグマンという人も奇人で、手を出して雀を呼ぶと、鳥がなついて手に止りに来たというような人柄でした。ポンチ画なども描いて、今僕の覚えていて面白かったと思うのは、ポストの口に蜘蛛くもの巣の張っている処の画などがありました。

(明治四十二年六月『趣味』第四巻第六号)




 



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
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