三
これからどっちへ爪先を向けようかと半七は横町の角に立ち停まって考えていると、たった今別れたばかりのお六がほかの女と二人づれで、その横町からきゃっきゃっと笑いながら出て来た。
「おや、又お目にかかりましたね」と、お六はやはり笑いながら声をかけると、連れの女も黙って会釈した。
「御縁があるね」と、半七も笑った。
お六の連れは十七八のすらりとした女で、これも同じような提重を持っていた。口綿らしい双子の着物の小ざっぱりしたのを着て、結い立てらしい彼女の頭にも紅い絞りの切れが見えた。鼻の低いのをきずにして、大体の目鼻立ちはお六よりも余ほどすぐれていた。
「親分さん。この安ちゃんが朝顔屋敷のお出入りなんですよ」と、お六はからかうように笑いながら、連れの女の背中をたたいた。
「あら、いやだ」と、女も肩をすくめて笑った。
「姐さんは何というんだね」
「安ちゃん……。お安さんというんです」と、お六はその女の手をとって、わざとらしく半七の前に突き出した。「親分さん、ちっと叱ってやってください。惚けてばかりいて仕方がないんですから」
「あら、嘘ばっかり。ほほほほほほ」
いかに人通りの少ない屋敷町でも、往来のまん中で提重の惚気を聴かされては堪らないと、半七も怖毛をふるった。しかし今の場合、かれも度胸を据えて其の相手にならなければならないと覚悟した。
「なにしろお楽しみだね。で、その惚気の相手というのはやっぱり朝顔屋敷にいるのかえ」
「いるんですとも」と、お六はすぐに引き取って答えた。「お部屋にいる又蔵さんという小粋な兄さんなんですよ」
又蔵という名が半七の胸にひびいた。
「むむ。又蔵か」
「お前さん、御存じですかえ」と、お安は少しきまり悪そうな顔をして訊いた。
「まんざら知らねえこともねえ」と、半七は調子をあわせて云った。「だが、あの男はなかなか道楽者らしいから、欺されねえように用心しねえよ」
「ほんとうにそうですよ」と、お安は真面目になってうなずいた。「この暮には着物をこしらえてやるなんて、好い加減に人を欺くらかしているんですよ。お前さん。節季はもう眼の前につかえているんじゃありませんか。春着をこしらえるなら拵えるように、せめて手付けの一両ぐらいこっちへ預けて置いてくれなけりゃあ、どこの呉服屋へ行ったって話が出来ませんよ。それをあした遣るの、あさって渡すのと口から出任せのちゃらっぽこを云って、好いように人をはぐらかしているんですもの。憎らしいっちゃありません」
飛んでもない怨みを云われて、半七はいよいよ持て余したが、それでもやはり笑いながら其の相手になっていた。
「まあまあ、堪忍してやるさ。そう云っちゃあ何だけれど、一年三両の給金取りが一両、二両の工面をすると云うのは大抵のことじゃあねえ。お前さんも可愛い男のことだ。そこを察してやらにゃあ邪慳だ」
「だって、又さんの話じゃあ、なんでも近いうちに纏まったお金がふところへはいると云うんですもの、こっちだって的にしようじゃありませんか。それとも嘘ですかしら」
「そう訊かれても返事に困るが、あの男のことだから丸っきりの嘘でもあるめえ。まあ、もう少し待ってやることさ」
受け太刀に困っている半七を、お六が横合いから救い出してくれた。
「まあ、安ちゃん。もう好い加減におしよ。親分さんが御迷惑だあね。又さんのことはあたしが受け合うから安心しておいでよ」
それを機に半七は逃げ支度にかかった。相手が相手だけに、まさか無愛嬌に別れるわけにも行かないので、半七は紙入れから二朱銀を出して、紙にくるんでお六に渡した。
「少しだが、これで蕎麦でも食ってくんねえ」
「おや、済みません。どうも有難うございます」
二人が頻りに礼をいう声をうしろに聞き流して、半七は早々にそこを立ち去った。なんだか落ち着かないような平助の眼の色と、近いうちにまとまった金がはいるという又蔵の噂と、朝顔屋敷の怪談と、半七はこの三つを結びあわせていろいろに考えたが、すぐには取り留めた分別も浮かび出さなかった。彼はふところ手をしてぼんやりと九段の坂を降りた。
家へ帰って長火鉢のまえに坐って、灰を睨みながらじっと考えているうちに、冬の短い日はもう暮れかかった。半七は早く夕飯を食って、九段の長い坂をもう一度あがって、裏四番町の横へはいると、どこの屋敷の甍もゆうぐれの寒い色に染められて、呪いの伝説をもっている朝顔屋敷の大きな門は空屋のように閉まっていた。半七は門番のおやじにそっと声をかけて訊いた。
「お部屋の又蔵さんはいますかえ」
又蔵はたった今、門番にことわって表へ出たが、きっと近所の藤屋という酒屋へ飲みに行ったのであろうとのことであった。中小姓の山崎さんはときくと、これも昼間出たぎりでまだ帰らないと門番が教えてくれた。半七は礼を云って表へ出ると、路の上はすっかり暗くなって、遠い辻番の蝋燭の灯が薄紅くにじみ出していた。藤屋という酒屋を探しあてて、表から店口を覗いてみると、小皿の山椒をつまみながら桝酒を旨そうに引っかけている一人の若い中間風の男があった。
半七は手拭を出して頬かむりをした。店の前に積んである薪のかげに隠れて、男の様子をしばらく窺っていると、彼は番頭を相手に何か笑いながらしゃべっていたが、やがて勘定を払わずにそこを出た。
「今夜は頼むよ。その代り二、三日中にこのあいだの分も一緒に利をつけて返さあ。ははははは」
彼はもう余ほど酔っているらしく、寒い夜風に吹かれながら好い気持そうに鼻唄を歌って行った。半七も草履の音を忍ばせて、そのあとを尾けてゆくと、彼は自分の屋敷へは帰らないで、九段の坂上から旗本屋敷の片側町を南へぬけて、千鳥ヶ淵の淋しい堀端の空地へ出た。見ると、そこには又一人の男がたたずんでいる白い影が、向う側の高い堤の松の上にちょうど今、青白い顔を出した二十六日の冬の月にあざやかに照らされていた。眼のさとい半七はそれが彼の山崎平助である事をすぐに覚った。ここで二人が落ち合ってどんな相談をするのであろう。こういう時には、月の明るいのが便利でもあり、また不便でもあるので、半七は彼等の立っている空地と向い合った大きい屋敷の前へ忍んで行った。門前の溝が空溝であることを知っている彼は、狗のように腹這いながらそっとその溝へもぐり込んで、駒寄せの石のかげに顔をかくして、二人の立談に耳を引き立てていた。
「山崎さん。たった二歩じゃあしょうがねえ。なんとか助けておくんなせえ」
「それが鐙[#「鐙」は底本では「鎧」]踏ん張り精いっぱいというところだ。一体このあいだの五両はどうした」
「火消し屋敷へ行ってみんな取られてしまいましたよ」
「博奕は止せよ。路端の竹の子で、身の皮を剥かれるばかりだ。馬鹿野郎」
「いやもう、一言もありません。叱られながらこんなことを云っちゃあ何ですが、お前さんも御承知のお安の阿魔、あいつにこの間から春着をねだられているんで、わっしも男だ、なんとか工面してやらなけりゃあ」
「ふふん、立派な男だ」と、平助はあざ笑った。「春着でも仕着でもこしらえてやるがいいじゃあねえか」
「だから、その、なんとか片棒かついでお貰い申したいので……」
「ありがたい役だな。おれはまあ御免だ。おれだって知行取りじゃあねえ。物前に人の面倒を見ていられるもんか」
「お前さんにどうにかしてくれと云うんじゃあねえ。お前さんから奥様にお願い申して……」
「奥様にだってたびたび云われるものか、このあいだの一件は十両で仕切られているんだ。それを貴様と俺とが山分けにしたんだから、もう云い分はねえ筈だ」
「云い分じゃあねえ。頼むんですよ」と、又蔵はしつこく口説いた。「まあ、何とかしておくんなせえ。女に責められて全く遣り切れねえんだから。お前さんだって、まんざら覚えのねえことでもありますめえ。ちっとは思いやりがあっても好いじゃありませんか」
相手が黙って取り合わないので、又蔵も焦れ出したらしい。酔っている彼の調子は少し暴くなった。
「じゃあ、どうしてもいけねえんですかえ。もうこうなりゃ仕方がねえ。御用人がけさ八丁堀へ出かけたということだから、わっしもこれから八丁堀へ行って、若殿様はこういうところに……」
「嚇かすな」と、平助はまたあざ笑った。「両国の百日芝居で覚えて来やあがって、乙な啖呵を切りゃあがるな。そんな文句はほか様へ行って申し上げろ。お気の毒だが辻番が違うぞ」
まだ宵の口ではあるが、世間がひっそりと鎮まっているので、こうした押し問答が手に取るように半七の耳に伝わった。いずれこの納まりは平穏に済むまいと見ていると、それから二人のあいだに尖った声が交換されて、しまいには二つの影がもつれ合って動き出した。口では敵わない又蔵がとうとう腕ずくの勝負になったのである。それでも平助はさすがに武芸のたしなみがあるらしく、相手を土の上にねじ伏せて、雪駄をぬいで続け打ちになぐり付けた。
「河童野郎。八丁堀へでも、葛西の源兵衛堀へでも勝手に行け。おれ達は渡り奉公の人間だ。万一事が露れたところで、あとは野となれ、屋敷を追ん出ればそれで済むんだ。口惜しけりゃあどうともしろ」
着物の泥をはたいて、平助は悠々と立ち去ってしまった。なぐられて、毒突かれて、提重の色男は意気地もなく其処に倒れていた。
「大哥、ひどく器量が悪いじゃあねえか」と、半七は溝から這いあがって声をかけた。
「なにを云やあがるんだ。うぬの知ったことじゃあねえ」と、又蔵は面を膨らせて這い起きた。「ぐずぐず云やあがると今度は汝が相手だぞ」
「まあ、いいや。そんなにむきになるな」と、半七は笑った。「どうだい、縁喜直しに一杯飲もうじゃねえか。火消し屋敷で一度や二度は逢ったこともある。まんざら知らねえ顔でもねえ」
手拭をとった半七の顔を、月の光りに透かしてみて又蔵はおどろいた。
「や、三河町か」
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