三
富蔵の隣りにお津賀という二十五六の小粋な女が住んでいる。よほどだらしのない女で、旦那取りをしているというのであるが、定った一人の旦那を守っているのでは無いらしく、大勢の男にかかり合って一種の淫売同様のみだらな生活を営んでいるのだと近所ではもっぱら噂された。そのお津賀のところへ稀にたずねてくる五十くらいの男があって、それは自分の叔父さんで、一年に一度ずつ商売用で上州から出て来るのだと彼女は云っているが、どうも上州者ではないらしく、又ほんとうの叔父さんではないらしい。それも例の旦那の一人であろうと長屋じゅうの者には認められていた。
四、五日前の夕方に、その叔父という人が久し振りにたずねて来ると、あいにくお津賀はいなかった。かれは独身者で、外へ出るときに表の戸にしっかりと錠をおろしてゆくので、叔父ははいることが出来なかった。うす暗い門口にぼんやりと立っている男の姿を気の毒そうに見て、井戸端から声をかけたのがこの女房であった。黙っていればよかったが、お津賀さんの帰るまで隣りの家へはいって待っていろと彼女は教えてやった。となりは富蔵の家で、かれは戸をあけ放したままで町内の銭湯へ出て行った留守であったが、奪られるような物のある家では無し、殊にその男の顔も見知っているので、女房も安心してそう教えたのであった。すこし酔っているらしい男は礼を云って隣りへはいって、上がり框に腰かけているらしかったが、そのうちに三味線をぽつんぽつんと弾き出した音がきこえた。かれはお津賀の家へ来ても時々に三味線を弾くことがあるので、女房も別に不思議には思わないで自分の米を磨いでしまって家へ帰った。
「それからが騒動なんですよ」と、女房は顔をしかめて話した。「富さんの家で何かどたんばたんという音が聞えたから、どうしたのかと思って駆けつけてみると、富さんは湯あがりの頭からぽっぽっ煙を立てて、その叔父さんという人の胸倉を掴んで、ひどい権幕で何か掛け合いを付けているんです。だんだん訊いてみると、その人が富さんの猫を撲ち殺してしまったという一件なんです」
「なぜ殺したんだろう。だしぬけに踊り出したのかえ」と、半七は訊いた。
「そうなんですよ。踊り出したんですよ」
女房の説明によると、富蔵は自分の飼っている白い仔猫に踊りを仕込むために、長火鉢に炭火をかんかん熾して、その上に銅の板を置く。それは丁度かの文字焼を焼くような趣向である。その銅の板の熱くなった頃に仔猫の胴中を麻縄で縛って、天井から火鉢の上に吊りさげて、四本の足が丁度その銅の板を踏むようにすると、板は焼け切っているから、猫はその熱いのにおどろいて、思わず前後の足を代る代るにひょいひょい揚げる。それを待ち設けて、富蔵は爪弾きで三味線を弾き出すのである。勿論はじめのうちは猫の足どりを見て、こっちで巧く調子を合わせて行かなければならないのであるが、それがだんだんに馴れて来ると、猫の方から調子にあわせて前後の足をひょいひょいと揚げるようになる。更に馴れて来ると、普通の板や畳の上でも三味線の音につれて自然に足をあげるようになる。観世物小屋で囃し立てる猫の踊りは皆こうして仕込むので、富蔵もふた月ほどかかってこの白猫を馴らした。
根気よく馴らして教えて、猫もどうやら斯うやら商売物になろうとしたところを、かの男に突然撲ち殺されてしまったのである。勿論、殺した方にも相当の理窟はあった。かれは框に腰をかけてぼんやりと待っている退屈まぎれに、壁にかけてある三味線をふと見付けて、少し酔っている彼はその三味線をおろして来てぽつんぽつんと弾きはじめると、長火鉢の傍にうずくまっていた白猫が、その爪弾きの調子にあわせて俄かに踊り出した。彼は実にびっくりした。うす暗い夕方の逢魔が時に、猫がふらふらと起って踊り出したのであるから、異常の恐怖に襲われた彼は、もう何もかんがえている余裕もなかった。かれは持っている三味線を持ち直して猫の脳天を力任せになぐり付けると、猫はそのままころりと倒れて死んだ。そこへ飼い主の富蔵が帰って来た。
誰がなんと云おうとも、ひとの留守へ無断にはいり込むという法はないと富蔵は怒った。おまけに大切な商売物をぶち殺してしまって、この始末はどうしてくれると彼は眼の色を変えて哮った。その事情が判ってみると、男もひどく恐縮していろいろにあやまったが、富蔵は承知しなかった。自分も係り合いがあるので、かの女房も一緒に口を添えてやったが、富蔵はどうしても肯かないで、殺した猫を生かして返すか、さもなくばその償い金を十両出せと迫った。それをいろいろにあやまって、結局半金の五両に負けて貰う事になったが、男にはその五両の持ち合わせがないので、どうか大晦日まで待ってくれと頼むのを、富蔵は無理におさえ付けて、腕ずくでその紙入れを引ったくってしまった。しかし紙入れには三分ばかりしか這入っていなかったので、富蔵はまだ料簡しないで、これから俺と一緒に行ってすぐに其の金を工面しろと責めているところへ、丁度にお津賀が帰って来て、きっと自分が受け合うから今夜のところは勘弁してくれと頻りに富蔵をなだめて、無事にその男を自分の家へ連れ込んだ。
富蔵の猫はこういう事情で失われたのであった。かれが半七に対して、飽くまで知らないと強情を張っていたのは、たとい自分に相当の理があるとは云え、物取り同様に相手を手籠めにして、その紙入れを無体に取りあげたという、うしろ暗い廉があるからであろうと想像された。
「それからどうしたね。その男は後金を持って来たらしいかえ」と、半七はまた訊いた。
「その晩は無事に済んで、その人はそれからお津賀さんの家で小一刻も話して帰ったようでしたが、その明くる晩また出直して来ると、なんだかお津賀さんと喧嘩をはじめて、両方が酔っていたらしいんですが、お津賀さんはその人をつかまえて表へ突き出してしまったんです」
「ひどい女だな」と、亀吉は眼を丸くした。
「そりゃなかなか強いんですから」と、女房は嘲るように笑っていた。「お前さんのような意気地なしはどうだとか斯うだとか云って、そりゃあもうひどい権幕で……。かりにも世間に対しては叔父さんだとか云っている人を、さんざん小突きまわして、表へ突き出してしまったんです。それでも其の人はなんにも云わないで、おとなしく悄々と出て行きました。もっともお津賀さんにかかっちゃあ大抵の男はかなわないかも知れませんよ」
「そのお津賀さんというのは家にいるかえ」と、半七はうしろを見返りながら訊いた。
おなじ裏長屋でもお津賀の家は小綺麗に住まっているらしく、軒には亀戸の雷除けの御札が貼ってあった。表の戸は相変らず錠をおろしてあるので、内の様子はわからなかった。
「ゆうべから帰って来ないようですよ」と、女房はまた笑った。
「で、どうだい。隣りの富蔵とおかしいような様子はないかね」
「そりゃあ判りませんね。あの人のことですから」
「そうだろう」と、半七も笑った。「いや、日の短けえのに手間費えをさせて済みません。さあ、亀。もう行こうぜ」
女房に挨拶して、ふたりは露路の外へ出た。
「親分。不思議なことがあるもんですね」
「むむ、広い世間にはいろいろのことがある」と、半七はうなずいた。「だが、まあ、ここまで足を運んだ効能はある。それでもう大抵見当は付いたが、今度はその鬼っ児の出どころだ。いや、それもすぐに判るだろう。それでお前の方はもう年明けらしい。おれは脇へ廻るからここで別れようぜ」
「富の野郎はどうしましょう」
「さあ、今のところじゃあしようがねえ。まあ打っちゃって置け」
「あい」と、亀吉は渋々に別れて行った。
あまり長追いをするほどの事件でもないと思ったが、かれの性分としてなんでも最後まで突き留めなければ気が済まないので、半七はその足で山の手まで登ってゆくと、冬の日はもう暮れかかって寒そうな鴉の影が御堀の松の上に迷っていた。麹町五丁目の三河屋へたずねてゆくと、筋向うの煙草屋の店さきに善八が腰かけていた。
「親分、いけねえ。市丸はまだ帰らねえそうですよ」と、かれは待ちくたびれたように云った。
「大きに御苦労。その市丸のところへ近ごろ女がたずねて来たらしい様子はねえか」
「来ました、来ました。女中に聞いたら、なんでも小粋な二十五六の女が二、三度たずねて来たそうです。お前さんよく知っていますね」
「むむ、知っている」と半七は笑っていた。「もう大抵判っているんだから、きょうはこのくらいにしておこう。おめえも数え日にここでいつまでも納涼んでもいられめえ。家へ帰って嬶が熨斗餅を切る手伝いでもしてやれ」
「じゃあ、もうようがすかえ」
「もうよかろう」
ふたりは連れ立って神田へ帰った。寒い風は夜通し吹きつづけたので、火事早い江戸に住んでいる人達はその晩おちおち眠られなかった。とりわけて御用を持っているからだの半七は、いよいよ眼が冴えてまんじりともしなかった。あくる朝七ツ(午前四時)頃から寝床をぬけ出して、行燈の灯で煙草をのんでいると、割れるように表の戸を叩く者があった。
「誰だ。誰だ」
「わっしです。亀です」と、外であわただしく呼んだ。
「豆腐屋か。馬鹿に早えな」
家の者はまだ起きないので、半七は自分で起って戸をあけると、亀吉は息をはずませて転げ込んで来た。
「親分。富蔵が殺られた」
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