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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)37 松茸

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 10:05:51  点击:  切换到繁體中文

底本: 時代推理小説 半七捕物帳(三)
出版社: 光文社時代小説文庫、光文社
初版発行日: 1986(昭和61)年5月20日
校正に使用: 1997(平成9)年5月15日第11刷

 

    一

 十月のなかばであった。京都から到来の松茸のかごをみやげに持って半七老人をたずねると、愛想のいい老人はひどく喜んでくれた。
「いや、いいところへお出でなすった、実は葉書でも上げようかと考えていたところでした。なに、別にこれという用があるわけでも無いんですが、実はあしたはわたくしの誕生日で……。こんな老爺じいさんになって、なにも誕生祝いをすることも無いんですが、年来の習わしでほんの心ばかりのことを毎年やっているというわけです。勿論、あらたまって誰を招待するのでもなく、ただ内輪同士が四、五人あつまるだけで、あなたも御存じの三浦さんと、せがれ夫婦と孫が二人。それだけがこの狭い座敷に坐って、赤い御飯にお頭付かしらつきの一ぴきも食べるというくらいのことです。この前日に京都の松茸を頂いたのは有難い。おかげで明晩の御料理が一つえました。そういう次第で、なんにも御馳走はありませんけれども、あなたも遊びに来て下さいませんか」
「ありがとうございます。是非うかがいます」
 あくる日の夕方から私は約束通りに出かけてゆくと、ほかのお客様もみな揃っていた。そのうちの三浦老人は、大久保に住んでいて、むかしは下谷辺の大屋おおやさんを勤めていた人である。わたしは半七老人の紹介で、ことしの春頃からこの三浦老人とも懇意になって、大久保の家へもたびたび訪ねて行って「三浦老人昔話」の材料をいろいろ聴いていたので、今夜ここで其の人と逢ったのは嬉しかった。
 そのほかは半七老人の息子と、その細君と娘と男の児との四人連れであった。息子はお父さんと違って堅気一方の人らしく、細君と共に始終行儀よく控えているので、席上の座談は両老人が持ち切りという姿で、わたし達は黙ってその聴き手になっていると、半七老人は膳の上の松茸を指さして、これは私から貰ったのだと説明したので、息子たちからあらためて礼を云われて、私はすこし恐縮した。その松茸が話題になって、両老人のあいだに江戸時代の松茸の話がはじまると、やがて三浦老人が云い出した。
「松茸で思い出したが、あの加賀屋の人達はどうしたかしら」
「なんでも明治になってから横浜へ引っ越して、今も繁昌しているそうですよ。お鉄の家は浅草へ引っ越して、これも繁昌しているらしい」と、半七老人は答えた。「世の中の変るというのは不思議なもので、今ならば何でもないことだが、あの時分には大騒ぎになる。十二月の寒い晩に不忍池しのばずのいけへ飛び込んで、こっちも危くこごえ死ぬところ。あいつは全くひどい目に逢った」
 こうなると、いつもの癖で、わたしは黙って聴いてばかりいられなくなった。
「それはどういう事件なのですか。あなたが飛び込んだのですか」
「まあ、そうですよ」と、半七老人は笑っていた。「今夜はそんな話はしない積りだったが、あなたが聴き出したらどうで堪忍する筈がない。今夜の余興に、一席おしゃべりをしますかな。そうなると、三浦さんも係り合いは抜けないのだから、まず序びらきに太田おおたの松茸のことを話してください」
「ははは、これはひどい。わたしに前講ぜんこうをやらせるのか。まあ、仕方がない。話しましょう」
 三浦老人も笑いながら先ず口を切った。
「お話の順序として最初に松茸献上のことをお耳に入れて置かないと、よくその筋道が呑み込めないことになるかも知れません。御承知の上州太田の呑竜どんりゅう様、あすこにある金山かなやまというところが昔は幕府へ松茸を献上する場所になっていました。それですから旧暦の八月八日からは、公儀のお止山とめやまということになって、誰も金山へは登ることが出来なくなります。この山で採った松茸が将軍の口へはいるというのですから、その騒ぎは大変、太田の金山から江戸まで一昼夜でかつぎ込むのが例になっていて、山からおろして来ると、すぐに人足の肩にかけて次の宿しゅくへ送り込む。その宿の問屋場にも人足が待っていて、それを受け取ると又すぐに引っ担いで次の宿へ送る。こういう風にだんだん宿送りになって行くんですから、それが決してぐずぐずしていてはいけない。受け取るや否やすぐに駈け出すというんですから、宿々の問屋場は大騒ぎで、それ御松茸……決して松茸などと呼び捨てにはなりません……が見えるというと、問屋場の役人も人足も総立ちになって出迎いをする。いや、今日からかんがえると、まるで嘘のようです。松茸の籠は琉球の畳表につつんで、その上を紺の染麻で厳重にくくり、それに封印がしてあります。その荷物のまわりには手代りの人足が大勢付き添って、一番先に『御松茸御用』という木の札を押し立てて、わっしょいわっしょいと駈けて来る。まるで御神輿おみこしでも通るようでした。はははははは。いや、今だからこうして笑っていられますが、その時分には笑いごとじゃありません。一つ間違えばどんなことになるか判らないのですから、どうして、どうして、みんな血まなこの一生懸命だったのです。とにかくそれで松茸献上の筋道だけはお判りになりましたろうから、その本文ほんもんは半七老人の方から聴いてください」
「では、いよいよ本文に取りかかりますかな」
 半七老人は入れ代って語り出した。

 文久三年の八月十五日は深川八幡の祭礼で、外神田の加賀屋からも嫁のおもとと女中のお鉄、お霜の三人が深川の親類のうちへよばれて、朝から見物に出て行ったが、そのひる過ぎになって誰が云い出すともなしに、永代えいたい橋がちたという噂が神田辺に伝わった。文化四年の大椿事ちんじにおびえていた人々は又かとおどろいて騒ぎはじめた。加賀屋ではお元の夫の才次郎も母のお秀も眼の色を変えた。番頭の半右衛門が若い者ふたりを連れてすぐ深川へ駈け付けると、それは何者かが人さわがせに云い触らした虚報で、お元も女中たちも無事に家に遊んでいた。それが判って先ず安心して、半右衛門は主人の嫁の供をして帰ると、お秀も才次郎も死んだ者が蘇生いきかえって来たように喜んだ。こうして加賀屋の一家が笑いさざめいている中で、嫁のお元の顔色はなんだかくもって、まだ青い眉のあとがひそんでいるようにも見えた。
 お元の顔色の悪いのは、母や夫の眼にも付いたが、別に深く注意する者もなかった。加賀屋はここらでも草分け同様の旧家で、店では糸や綿を売っているが、主人の才兵衛は、八、九年前に世を去って、ことし二十三の才次郎がひとり息子で家督を相続していた。嫁のお元は夫とは三つちがいの二十歳はたちで、十八の冬からここへ縁付いて来て、あしかけ三年むつまじく連れ添っていた。かれは武州熊谷在くまがやざいの豪農の二番娘で、千両の持参金をかかえて来たという噂であった。
 加賀屋の店も相当の身代しんだいであるから、別にその持参金に眼がくれたわけではなかった。お元は縁談のきまった時に、その親たちの云い込みには、何分ここらの片田舎では思うような嫁入り支度をさせて送ることも出来ない。もう一つには村でも最も古い家柄であるだけに、娘をよそへ縁付けるなどというといろいろ面倒な慣例ならわしもある。方々からも祝い物をくれる。又その返礼をする。それも其の土地に縁付くならば、どんな面倒な失費ついえもよんどころないが、遠い江戸へ縁付けてしまうのに、そんな面倒をかさねるのはお互いにつまらない事であるから、さしあたっては行儀見習いの為に江戸の親類へ預けられるというていにして、万事質素に娘を送り出してしまいたい。勿論、江戸の方ではそういう訳には行くまいから、そちらで相当の支度をさせて儀式その他はよろしきように頼むというのであった。その頃の慣習として、嫁の里が相当の家であれば、たといそれが二十里三十里の遠方であっても、いわゆる里帰りに姑や聟も一緒に出かけて行って、里の親類や近所の人達にもそれぞれの挨拶をしなければならない。旅馴れないものが打ち揃って、江戸から熊谷まで出てゆくのは、ずいぶん厄介な仕事でもあるので、加賀屋の方でもかえってそれを幸いに思って、先方の云い込みを故障なしに承諾した。お元は下谷したや媒妁人なこうどの家に一旦おちついて、そこで江戸風の嫁入り支度をして、とどこおりなく加賀屋へ乗り込んだ。そういう事情で、豪家の娘が殆ど空身からみ同様で乗り込んできたのであるから、その支度料として親許から千両の金を送ってよこしたのも、別に不思議な事でもなかった。お元にはお鉄という若い女中が付いて来たが、それも珍らしいことではなかった。
 お元がここへ縁付いてから、ただ一度その親たちと姉とが江戸見物をかねて加賀屋へ訪ねて来て一と月ほども逗留して帰った。才次郎とお元との夫婦仲も至極むつまじかった。彼女はおとなしい素直な生まれ付きであるので、しゅうとのお秀にも可愛がられた。店や出入りの者のあいだにも評判がよかった。附き添って来た女中のお鉄はことし十八で、それも主人思いの正直な女であった。こういうふうであるから、若夫婦の仲にまだ初孫ういまごの顔を見ることの出来ないのをお秀が一つの不足にして、そのほかには加賀屋一家の平和を破るような材料は一つも見いだされなかった。店も相変らず繁昌していた。
 その嫁が深川の祭礼を見物に行って、その留守に永代橋墜落の噂が伝わったのであるから、加賀屋一家が引っくり返るように騒いだのも無理はなかった。それが無事と判って、またおどりあがって喜んだのも当然であった。しかし其の翌日になっても、お元の顔色の暗く閉じられているのが家内の者に一種の不安を感じさせた。とりわけて姑のお秀が心配した。
「お鉄や。ちょいと」
 かれは女中のお鉄を自分の居間へよんで、小声でいた。
「あの、お元はきょうもなんだか悪い顔付きをしているようだが、どうかしましたかえ。お医者にて貰ったらどうだと先刻さっきも勧めたんだけど、別にどこも悪いんじゃないと云う。お前はきのう一緒に出て行って別になんにも思い当ることはありませんでしたかえ」
「はい。別になんにも……」と、お鉄は躊躇ちゅうちょせずに答えた。「わたくしもお霜さんも始終御一緒に付いて居りましたが、なんにも変ったことは無かったように存じます。もっとも橋が墜ちて大勢の人が流されたという噂をお聞きになりました時には、真っ蒼になってふるえておいででございました」
「そりゃあ無理もありませんのさ」と、お秀もうなずいた。「それが噂とわかって、お前さん達の無事な顔を見るまでは、わたしも気が気でなかったくらいですから……。それにしても今日になってもまだ蒼い顔をしていて、けさの御膳も碌に喰べてなかったというから、わたしもなんだか不安心でね。だが、それに付いていたお前がなんにも知らないと云うようじゃあ、別に変ったことがあった訳でもあるまい。人ごみの場所へ行って、おまけにそんな噂を聴かされたので、血の道でも起ったのかも知れない。気分でも悪いようならば、二階へでも行ってちっと横になっているように、お前から勧めたらいいでしょう」
「はい、はい、かしこまりました」
 お鉄は丁寧に会釈えしゃくをして、主人の前をさがった。おなじ奉公人でも嫁の里から附き添って来た者であるから、主人の方でも幾分の遠慮があり、奉公人の方でも特別に義理堅くしなければならなかった。したがって里方から嫁入り先へ附き添ってゆくということは、どの奉公人も先ずいやがるのが習いで、もちろん普通よりも高い給金を払わなければならなかった。お鉄はお元の里方さとかたの小作人のむすめで、幼いときから地主の家に奉公して、お元とは取りわけて仲よくしている関係から、かれが江戸へ縁付くに就いても一緒に附き添ってきたのであった。年のわりには大柄で、容貌きりょうみにくくない。もちろん当人もせいぜい注意しているのであろうが、その風俗にもことばづかいにも余り田舎いなか者らしいところは見えなかった。
 お鉄はしとやかに障子をしめて縁側に出ると、小さい庭の四つ目垣の裾には、ふた株ばかりの葉鶏頭が明るい日の下にうす紅くそよいでいた。故郷の秋を思い出したのか、それともほかに物思いの種があるのか、かれは其の秋らしい葉の色をじっと眺めながら、やがて低い溜息を洩らした。

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