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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)40 異人の首

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 10:08:42  点击:  切换到繁體中文


     二

 半七は夕飯を早々にすませて、すぐに末広町の丸井の店をたずねた。丸のなかに井の字の暖簾のれんを染め出してあるので、普通に丸井と呼び慣わしているが、ほんとうは井沢屋というのである。表向きに乗り込んで詮議をしてはかえって要領を得まいと思ったので、半七は番頭の長左衛門を表へよび出して小声でいた。
「どうもゆうべは飛んだことだったね」
 むかしから質屋はとかくに犯罪事件にかかり合いの多い商売であるから、丸井の番頭は半七の顔をよくっていた。
「もうお耳にはいりましたか」と、彼はすこし眉をよせながら云った。
「むむ、すこし聞き込んだことがある。そこで、番頭さん。あいつらのきまり文句で、これを他言すると仕返しに来るの、火をつけて焼き払うのというが、そんな心配は決してねえから、何もかも正直に云ってくれねえじゃあ困る。なまじい隠し立てをして、あとで飛んだ引き合いを食うようなことがあると、却って店の為にもならねえ」
「はい、はい、ごもっともでございます」
 相手が相手であるから長左衛門も正直に申し立てるよりほかはないと覚悟したらしく、半七に対して一々明確に答えたが、事件の道筋はお粂の報告とおなじことであった。浪士は覆面をしていたので、その人相はよく判らなかったが、どちらも三十格好の男であるらしかった。いくらか作り声をしているらしいので、これもよくは判らなかったが、その声音こわねに著しい国訛りはきこえないようであったと長左衛門は云った。かれは持参の生首というのは確かに異人の首に相違なかったと答えた。それは自分ばかりでなく、現にその場には手代格の若い者が三人、小僧が二人居あわせて、誰もかれも皆それを異人の首と認めたのであるから、おそらく間違いはあるまいと云った。
「このごろ流行物はやりものの押借りかと思って、初めは多寡たかをくくっていたのでございますが、なにしろ異人の生首なまくびをだしぬけに出されましたので、わたくしはびっくりしてしまいました」と、長左衛門はその恐ろしいものが今でも眼のさきに浮かんでいるように顔をしかめてささやいた。
 半七は黙って聴いていた。もう此の上に詮議もないらしいので、今夜はこれだけにして長左衛門に別れた。勿論、二度と押しかけて来るようなこともあるまいが、彼等が今夜にも万一出直して来たら、すぐに自分のところへ知らせてくれ。決して隠して置いてはならないと、くれぐれも云い聞かせて帰った。
 家へ帰ると、子分の松吉が待っていて、ゆうべ深川富岡門前の近江屋おうみやという質屋へ二人づれの浪人が押借りに来て、異人の首を突きつけて攘夷の軍用金をまきあげて行ったと報告した。
「しようのねえ奴らだ」と、半七は舌打ちした。「実は今もそれで末広町まで足を運んで来たんだ」
「じゃあ、末広町にもそんなことがあったんですかえ」
「そっくり同じ筋書だ」
 その説明を聴かされて、松吉も舌打ちした。
「まったくしようがねえ。そんなことをして方々を押し歩いていやあがる。だが、親分。生首を持って歩いているようじゃあ、そいつらは本物でしょうか」
「そうかも知れねえ」
 半七はかんがえていると、松吉は紙入れから小さい紙に包んだものを大切そうに出してみせた。それはあかい毛であった。
「これは近江屋の入口の土間に落ちていたのを拾って来たんですよ」と、松吉は得意らしく説明した。「なにか手がかりになるものはねえかと、わっしも蚤取眼のみとりまなこでそこらを詮議すると、土間の隅にこんなものが一本落ちていたんです。店の掃除をするとき掃き落したんでしょう」
「むむ」と、半七はその紙を手の上に拡げて見た。「異人の首の髪の毛らしいな」
「そうです。そうです、奴らが首を持ち出してひねくりまわしているうちに、一本か二本ぬけて落ちたのを誰も気がつかずにいて、けさになって小僧どもが掃き出してしまったんでしょう。どうです、何かのお役に立ちませんかね」
「いや、悪くねえ。いい見付け物だ。おめえにしちゃあ大出来だ。そこで、深川へ押し込んだのはゆうべの何どきだ」
「五ツ頃だそうですよ」
「まだ宵だな。それから末広町へまわったのか。ひと晩のうちによく稼ぎゃあがる」と、半七は再び舌打ちした。「なにしろ、これはおれが預かっておく」
「ほかに御用はありませんかえ」
「そうだな、まずこの髪の毛をしらべて見なけりゃあならねえ。すべての段取りはそれからのことだ。あしたのひるごろに出直して来てくれ」
 松吉を帰したあとで、半七は一本のあかい毛をいつまでも眺めていた。それがほんとうの異人の髪の毛であるか、あるいは何かの薬か絵の具で染めたものであるか、それを確かめた上でなければ、どうにも見当のつけようがなかった。
 半七はあくる朝、八丁堀同心の屋敷をたずねて、神田と深川の出来事を報告した。世の中のみだれている江戸の末であるから、それがほん者の攘夷家か偽浪士か、八丁堀の役人たちにも容易に判断をくだすことが出来なかった。いずれにしても半七の意見に付いて、まずその髪の毛を鑑定させることになって、ある蘭法医のところへ送って検査させると、それは日本人の毛髪を薬剤や顔料で染めたものではないらしい。さりとてけものの毛でもない。おそらく異人の毛であろうという鑑定であった。
 例の偽浪士がどこかの墓をあばいて、死人の首を取り出して、その髪の毛を塗りかえるか、あるいは一種のかつらをかぶせて、顔もいい加減に化粧して、異人の首らしく巧みにこしらえて、それを抱えてあるいているのではないかと半七も初めは疑っていたのであるが、果たしてほんとうの異人の毛であるとすれば、かれも更にかんがえ直さなければならなかった。しかしこの当時、江戸に在住の異人は甚だ少数である。公使領事のほかには二、三の書記官や通辞つうじがあるばかりで、アメリカは麻布の善福寺、フランスは三田の済海寺、オランダは伊皿子の長応寺、プロシャは赤羽の接遇所、ロシアは三田の大中寺に、公使館または領事館を置いてあるが、これらは幕府に届け出でのあるもので、そこに住む者の姓名もみな判っている。そのなかの一人が首を取られたとすれば、すぐにも知れる筈である。かれらの方でも黙っている筈がない。かのヒュースケンの暗討やみうち一件をみても判ったことで、彼等からは幕府にむかって厳重の掛け合いを持ち込んでくるに相違ない。それが今に至るまでなんの音沙汰もないのをみれば、その首の持ち主が江戸在住のものでないことは容易に想像された。
「それじゃあ横浜はまかな」
 半七は自分の意見をのべて、奉行所の許可をうけて、その月の二十一日に江戸を出発することになったので、お粂は兄嫁を花見に誘い出すどころではなかった。かえって自分が神田三河町の兄の家へ見送りに来なければならなくなった。横浜までわずかに七里と云っても、その頃ではやはり一種の旅であった。
「兄さん。御機嫌よろしゅう。途中も気をつけてね」
 その声をうしろに聞きながら、半七は子分の松吉をつれて朝の六ツ半(午前七時)頃に神田三河町の家を出た。ほかの子分たちも高輪たかなわまで送って来た。この頃は毎日の晴天つづきで、綿入れの旅はもう暖か過ぎるくらいであった。品川の海の空はうららかに晴れ渡って、御殿山のおそい桜も散りかかっていた。
「親分。今頃の旅はようがすね」と、松吉はのんきそうに云った。
「まったくだ。これで御用がなけりゃあ猶更いいんだが、そうもいかねえ。まあ、浜見物をするつもりで出かけるんだな」
「そうですよ。わっしは是非一度行って見たいと思っていたんですよ」
 一昨年(安政六年)の六月二日に横浜の港が開かれると、すぐに海岸通り、北仲通り、本町通り、弁天通りが開かれる。野毛のげの橋がけられる。あくる万延元年の四月には、太田屋新田の沼地をうずめて港崎みよざき町の遊廓が開かれる。外国の商人館が出来る。それからそれへと目ざましく発展するので、この頃では横浜見物も一つの流行はやりものになって、江戸から一夜泊まりで見物に出かける者もなかなか多かった。
 年の若い松吉は御用の旅で横浜見物が出来るのをよろこんで、江戸をたつ時から威勢がよかった。半七は去年も一度行ったことがあるので、まず大抵の見当はついていたが、日増しに開けてゆく新らしい港の町が一年のあいだにどう変ったかと、これも少なからぬ興味をそそられて、暮春の東海道を愉快にあるいて行った。
 その頃は高島町の埋立てもなかったので、ふたりは先ず神奈川の宿しゅくにゆき着いて、宮の渡しから十六文の渡し船に乗って、平野間(今の平沼)の西をまわって、初めて横浜の土を踏んだのは、その日の夕七ツ半(午後五時)頃であった。すぐに戸部の奉行所へ行って、御用の探索で来たことを一応とどけて置いて、半七はそれから何処かの宿屋を探しに出ると、往来でひとりのわかい男に逢った。
「三河町の親分じゃありませんか」と、彼はうす暗いなかで透かしながら声をかけた。

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