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三浦老人昔話(みうらろうじんむかしばなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:07:56  点击:  切换到繁體中文

底本: 大衆文学大系7 岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集
出版社: 講談社
初版発行日: 1971(昭和46)年10月20日
入力に使用: 1971(昭和46)年10月20日第1刷
校正に使用: 1971(昭和46)年10月20日第1刷

 

桐畑の太夫

       一

 今から二十年あまりの昔である。なんでも正月の七草すぎの日曜日と記憶している。わたしは午後から半七老人の家をたずねた。老人は彼の半七捕物帳の材料を幾たびかわたしに話して聞かせてくれるので、きょうも年始の礼を兼ねてあわ好くば又なにかの昔話を聞き出そうと巧らんで、から風の吹く寒い日を赤坂まで出かけて行ったのであった。
 格子をあけると、くつぬぎには新しい日和下駄がそろえてある。この頃はあまり世間と交際つきあいをしないらしい半七老人のうちにも、さすがは春だけに来客があると思っていると、わたしの案内を聞いておなじみの老婢ばあやがすぐに出て来た。広くもないうちであるから、わたしの声が筒ぬけに奥へきこえたらしい。横六畳の座敷から老人は声をかけた。
「さあ、お通りください。あらたまったお客様じゃありませんから。」
 わたしは遠慮なしに座敷へ通ると、主人とむかい合って一人の年始客らしい老人が坐っていた。主人も老人であるが、客は更に十歳とお以上も老けているらしく、相当に時代のついているらしい糸織りの二枚小袖に黒斜子くろなゝこの三つ紋の羽織をかさねて、行儀よく坐っていた。お定まりの屠蘇や重詰物もならべられて、主人も客もその顔をうすく染めていた。主人に対して新年の挨拶がすむと、半七老人は更にその客の老人をわたしに紹介した。
「こちらは大久保にお住居すまいの三浦さんとおっしゃるので……。」
 初対面の挨拶が型の通りに交換された後に、わたしも主人から屠蘇をすゝめられた。ふたりの老人と一人の青年とがすぐに打解けて話しはじめると、半七老人は更に説明を加えて再び彼の客を紹介した。
「三浦さんも江戸時代には下谷に住まっていて、わたしとは古いお馴染ですよ。いえ、同商売じゃありませんが、まんざら縁のない方でもないので……。番所の腰掛では一緒になったこともあるんですよ。はゝゝゝゝ。」
 三浦という老人は家主いえぬしで、その時代のことばでいう大屋おおやさんであった。江戸時代にはなにかの裁判沙汰があれば、かならずその町内の家主が関係することになっているので、岡っ引を勤めていた半七老人とはまったく縁のない商売ではなかった。ことに神田と下谷とは土地つゞきでもあるので、半七老人は特にこの三浦老人と親しくしていたらしかった。そうして、維新以後の今日まで交際をつゞけているのであった。
「むかしは随分おたがいに仲好くしていたんですがね。」と、三浦老人は笑いながら云った。「このごろは大久保の方へ引込んでしまったもんですから、どうも、出不精になって……。いくら達者だと云っても、なにしろこゝの主人にくらべると、丁度一とまわりも上なんですもの、口ばかり強そうなことを云っても、からだやあんよが云うことをきませんや。それだもんですから自然御無沙汰勝になってしまって、今日きょうもこゝまで出て来るには眼あきの朝顔という形なんですからね。いやもう意気地はありません。」
 かれは持っている烟管きせるを握って、杖をつく形をしてみせた。勿論、そのころの東京にはまだ電車が開通していなかったのである。
「それでも三浦さんはまったく元気がいゝ。殊に口の方はむかしよりも達者になったらしい。」と、半七老人も笑いながらわたしを見かえった。「あなたは年寄りのむかし話を聴くのがお好きだが、おひまがあったら今度この三浦さんをたずねて御覧なさい。この人はなか/\面白い話を知っています。わたくしのお話はいつでも十手じって捕縄とりなわの世界にきまっていますけれども、こちらの方は領分がひろいから、色々の変った世界のお話を聴かせてくれますよ。」
「いや、面白いお話なんていうのはありませんけれど、時代おくれの昔話で宜しければ、せい/″\お古いところをお聴きに入れます。まことに辺鄙な場末ですけれども、おひまのときには何うぞお遊びにおいでください。」と、三浦老人も打解けて云った。
 今とちがって、その当時の大久保のあたりは山の手の奥で、躑躅つゝじでも見物にゆくほかには余りに足の向かないところであったが、わたしはそんなことに頓着しなかった。わたしは半七老人から江戸時代の探偵ものがたりを聴き出すのと同じような興味を以て、この三浦老人からも何かの面白い昔話を聴きたいと思った。新しい話を聴かせてくれる人は沢山ある、寧ろだん/\に殖えてゆくくらいであるが、古い話を聴かせてくれる人は暁方あけがたの星のようだん/\に消えてゆく。今のうちに少しでも余計に聴いて置かなければならないという一種の慾も手伝って、わたしはあらためて三浦老人訪問の約束をすると、老人は快く承知して、どうで隠居の身の上ですからいつでも遊びにいらっしゃいと云ってくれた。
 その次の日曜日はくもっていた。底冷えのする日で、なんだか雪でも運び出して来そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町のうちを出て、大久保百人町まで人車くるまに乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を幾たびか曲りまわって、よう/\に杉の生垣のある家を探しあてると、三浦老人は自身に玄関まで出て来た。
「やあ、よく来ましたね。この寒いのに、お強いこってすね。さあ、さあ、どうぞおあがりください。」
 南向きの広い庭を前にしている八畳の座敷に通されて、わたしは主人の老人とむかい合った。

       二

 わたしは自分と三浦老人との関係を説くのに、あまり多くの筆や紙を費し過ぎたかも知れない。早くいえば、前置きがあまり長過ぎたかも知れないが、これから次々にこの老人の昔話を紹介してゆくには、それを語る人がどんな人物であるかと云うことも先ず一通りは紹介して置かなければならないのである。しかしこの上に読者を倦ませるのはよくない。わたしはすぐに本文に取りかゝって、この日に三浦老人から聴かされた江戸ものがたりの一つを紹介しようと思う。
 三浦老人はこう語った。

 今日の人たちは幕末の士風頽廃ということをよく云いますが、徳川の侍だって揃いも揃って腰ぬけの意気地無しばかりではありません。なかには今日でも見られないような、随分しっかりした人物もありました。併し又そのなかには随分だらしのない困り者があったのも事実で、それを証拠にして、さあうだと云われると、まったく返事に詰まるわけです。そのだらしのないと云われる仲間のうちには、又こんな風変りのもありました。
 これはわたくしが子供の時に聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。赤坂の桐畑きりばたけのそばに小坂丹下という旗本がありました。千五百石の知行取りで、その先代はお目附を勤めたとか聞いています。一口に旗本と云っても、身分にはなか/\高下があります。百石以上は旗本ですけれども、それらは所謂貧乏旗本で、先ずほんとうの旗本らしい格式を保ってゆかれるのは少くも三百石以上でしょう。五百石以上となれば立派なお歴々で、千石以上となれば大身たいしん、それこそ大威張りのお殿様です。そこで、この小坂さんの屋敷は千五百石というのですから、立派なお旗本であることは云うまでもありません。
 当主の丹下という人は今年三十七の御奉公盛りですが、病気の届けでをして五六年まえから無役の小普請入りをしてしまいました。学問もある人で、若い時には聖堂の吟味に甲科で白銀三枚の御褒美を貰い、家督を相続してからも勤め向きの首尾もよく、おい/\出世の噂もきこえていたのですが、二十五六のときから此人にふと魔がさした。というのは、この人が芸事に凝り始めたのです。芸事も色々ありますが、清元の浄瑠璃に凝り固まってしまったのだからちっと困ります。なんでもその皮切りは、同役の人の下屋敷へ呼ばれて行ったときに、その酒宴の席上で清元の太夫と知合いになったのだと云いますが、その先代も赤坂あたりの常磐津の女師匠を囲いものにしていたとか云う噂がありますから、遊芸については幾らか下地したじがあるというほどで無くとも、相当の趣味はあったのかも知れません。いずれにしても、その清元の師匠を自分の屋敷へよんでお稽古をはじめたのです。
 おなじような理窟ですけれども、これがうたいの稽古でもして、熊坂や船弁慶を唸るのならば格別の不思議もないのですが、清元の稽古本にむかっておかる勘平や権八小紫を歌うことになると、どうもそこが妙なことになります。と云って、これがひどく筋の悪いことゝ云うほどでもないので、奥様や用人も開き直って意見をするわけにも行かず、困った道楽だと苦々しく思いながらも、先ずそのまゝにして置くうちに、主人の道楽はいよ/\募って来て、もう一廉いっかどの太夫さん気取りになってしまったのです。
 むかしから素人の芸事はあまり上達しないにきまったもので、俗に素人芸、旦那芸、殿様芸、大名芸などと云って、先ず上手でないのが当りまえのようになっているのですが、この小坂という人ばかりは例外で、好きこそ物の上手なりけりと云うのか、それとも一種の天才というのか、素人芸や殿様芸を通り越して、三年五年のうちにめき/\と上達する。第一に喉が好い。三味線も達者にひく。ふだんは苦々しく思っている奥様や用人も、春雨のしんみりと降る日に、非番の殿様が爪びきで明鴉あけがらすか何かを語っていると、思わずうっとりと聴き惚れてしまうと云うようなわけですから、師匠もお世辞を抜きにしてほんとうに褒める。当人は一心不乱に稽古する。師匠も身を入れて教える。それが自然と同役のあいだにも伝わって、下屋敷などで何かの酒宴でも催すというような場合には、小坂をよんで一段語らせようではないかと云うことになる。当人もよろこんで出かけてゆく。それが続いているうちに、世間の評判がだん/\に悪くなりました。
 一方にこれほど浄瑠璃に凝りかたまっていながらも、小坂という人は別に勤め向きを怠るようなこともありませんでした。とんだ三段目の師直もろなおですが、勤めるところはきっと勤める武蔵守と云った風で、かみの御用はかゝさずに勤めていたのですが、どうも世間の評判がよろしくない。まえにも云う通り、おなじ歌いものでも弁慶や熊坂とちがって、権八や浦里ではどうも困る。それも小身者の安御家人かお城坊主のたぐいならば格別、なにしろ千五百石取りのお歴々のお旗本が粋な喉をころがして、「なさけは売れど心まで」などと遣っているのでは、理窟は兎もあれ、世間が承知しません。武士にあるまじきとか、身分柄をも憚からずとか云うような批難の声がだん/\に高くなってくるので、支配頭も聞きながしているわけにも行かなくなりました。勿論、親類縁者の一門からも意見や苦情が出てくるという始末。と云って、小坂丹下、家代々の千五百石の知行をなげ出しても、今更清元をやめることは出来ないので、結局病気と云い立てゝ無役の小普請組に這入ることになりました。
 小普請に這入れば何をしてもいゝと云うわけでは勿論無いのですが、それでも小普請となると世間の見る目がずっと違って来ます。もう一歩すゝんでいっそ隠居してしまえば、殆ど何をしても自由なのですが、家督相続の子供がまだ幼少であるので、もう少し成長するのを待って隠居するという下心したごころであったらしく、先ずそれまでは小普請に這入って、やかましい世間の口を塞ぐ積りで、自分から進んで無役のお仲間入りをしたのでしょう。それについても定めて内外うちそとから色々の苦情があったことゝ察しられますが、当人が飽までも遊芸に執着しているのだから仕方がありません。小坂さんはとう/\自分の思い通りの小普請になって、さあこれからはおれの世界だとばかりに、大びらで浄瑠璃道楽をはじめることになりました。いや、もうその頃は所謂お道楽を通り越して、本式の芸というものになっていたのです。
 こうなると、自分の屋敷内で遠慮勝に語ったり、友だちの家へ行って慰み半分に語ったりしているだけでは済まなくなりました。当人はどこまでも真剣です。だん/\と修業が積むにつれて、自然と芸人附合をも始めるようになって、諸方のお浚いなどへも顔を出すと、それがまったく巧いのだから誰でもあっと感服する。桐畑の殿様を素人にして置くのは勿体ないなどと云う者もある。当人もいよ/\乗気になって、浜町の家元から清元喜路きじ太夫という名前まで貰うことになってしまいました。勿論それで飯を食うというわけではありませんが、千五百石の殿様が清元の太夫さんになって、肩衣かたぎぬをつけてゆかにあがるというのですから、世間に類の少いお話と云っていゝでしょう。清元の仲間では桐畑の太夫さんと呼んでいました。道楽もこゝまで徹底してしまうと誰もなんとも云いようがありますまい。屋敷内の者も親類縁者の人達も、もう諦めたのか呆れたのか、正面から意見がましいことを云い出す者もなくなって、唯いたずらに当人の自由行動をながめているばかりでした。
 さてこれからがお話の本文で、この喜路太夫の身のうえに一大事件が出来しゅったいしたのです。

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