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寄席と芝居と(よせとしばいと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:18:05  点击:  切换到繁體中文


     附・明治時代の寄席

 私は先き頃ある雑誌に円朝や燕枝のむかし話をかいた。それは特にめずらしい材料でもなかったが、それでも今の若い人たちには珍しかったと見えて、私を相当の寄席通と心得たらしく、明治時代の寄席についてしばしば問い合わせを受けることがある。そこで老人、好い気になって、もう少し寄席のおしゃべりをする。今度は円朝や燕枝の個人に就いて語るのでなく、明治時代の寄席はどんな物であったかと云うことを一般的に説明するのである。
 明治といっても初期と末期との間には、著しい世態人情の相違がある。それを一と口に云い尽くすことは出来ないので、まず明治二十年前後から四十年頃までを中心として、その大略を語ることにしたい。
 今日こんにちと違って、娯楽機関の少ない江戸以来の東京人は、芝居と寄席を普通の保養場所と心得ていた。殊に交通機関は発達せず、電車もバスも円タクも無く、わずかに下町の大通りに鉄道馬車が開通しているに過ぎない時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけには行かない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを散歩するにとどまっていた。その人々に取っては、寄席が唯一の保養場所であった。
 自宅に居ても退屈、さりとて近所の家々を毎晩訪問するのも気の毒、殊に雨でも降る晩には夜見世のそぞろ歩きも出来ない。こんな晩には寄席へでも行くのほかは無い。寄席は劇場と違って、市内各区に幾軒も散在していて、めいめいの自宅から余り遠くないから、往復も便利である。木戸銭も廉い。それで一夜を楽しんで来られるのであるから、みんな寄席へ出かけて行く。今日の寄席がとかくに不振の状態にあるのは、その内容いかんよりも、映画その他の娯楽機関が増加したのと、交通機関が発達した為であると思う。実際、明治時代の一夜を楽しむには、近所の寄席へでも行くのほかは無かったのである。
 それであるから、近所の寄席へ行くと、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に生長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭、麹町二丁目の万よし、山元町の万長亭で、これらの寄席へ行った時に、顔を見識っている人に逢わなかった例は一度もなかった。かならず二、三人の知人に出逢う。殊に正月などは、十人乃至ないし二十人の知人に逢うことは珍しくなかった。私が子供の時には、その大勢の人達から菓子や煎餅や蜜柑などを貰うので、両方の袂が重くなって困ったことがあった。
 そんなわけで、その頃の寄席は繁昌したのである。時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒乃至六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった。江戸以来、最も旧い歴史を有しているのは、私の近所の万長亭であると伝えられていた。私は子供の時からしばしばこの万長亭へ聴きに行ったので、江戸時代の寄席はこんなものであったかと云う昔のおもかげを想像することが出来たのである。
 寄席の種類は色物席と講談席の二種に分かれていた。色物とは落語、人情話、手品、仮声こわいろ、物真似、写し絵、音曲のたぐいをあわせたもので、それを普通に「寄席」というのである。一方の講談席は文字通りの講談専門で、江戸時代から明治の初期までは講釈場と呼ばれていたのである。寄席は原則として夜席、すなわち午後六時頃から開演するのを例としていたが、下町には正午から開演するものもあった。これを昼席と称して、昼夜二回興行である。但し昼夜の出演者は同一でないのが普通であった。講談席は大抵二回興行と決まっていた。
 寄席の木戸銭は普通三銭五厘、廉いのは三銭乃至二銭五厘、円朝の出演する席だけが四銭の木戸銭を取ると云われていたが、日清戦争頃から次第に騰貴して、一般に四銭となり、五銭となり、以後十年間に八銭又は十銭までにあがった。ほかに座蒲団の代が五厘、烟草盆が五厘、これもだんだんに騰貴して、一銭となり、二銭となったので、日露戦争頃に於ける一夕の寄席の入費は木戸銭と蒲団と烟草盆あわせて、一人十四、五銭となった。中入りには番茶と菓子と鮨を売りに来る。茶は土瓶一個が一銭、菓子は駄菓子や塩煎餅のたぐいで一個五厘、鮨は細長い箱に入れて六個三銭であったが、鮨を売ることは早くすたれた。
 東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及されるようになったのは十数年の後であって、大抵の寄席は客席に大ランプを吊り、高坐には二個の燭台を置いていた。したがって、高坐に出ている芸人は途中で蝋燭のしんを切らなければならない。落語家などが自分の話をつづけながら蝋燭の芯を切るのは頗るむずかしく、それが満足に出来るようになれば一人前の芸人であると云われていた。今から思えば、場内は薄暗かったに相違ないが、その時代の夜は世間一般が暗いので、別に暗いとも感じなかったのである。しかも円朝が得意の「牡丹燈籠」にも「真景累ヶ淵」にも、この薄暗いと云うことが余ほどの便利をあたえていたらしい。円朝の話術がいかに巧妙でも、今日のように電燈煌々の場内では、あれだけに幽暗の気分を漂わすことが出来なかったかも知れないと察せられる。
 暗い話のついでに云うが、その頃の夜は甚だ暗いので、寄席へゆくには提灯を持参する人が多かった。女はみな提灯を持って行った。往く時はともかくも、帰り路が暗いからである。寄席の下足場にはめいめいの下駄の上に提灯が懸けてあった。そこで、閉場はねになると、場内の客が一度にどやどやと出て来る。それに対して、提灯の火を一々にけて渡すのであるから、下足番は非常に忙がしい。雨天の節には傘もある。傘と提灯と下駄と、この三つを一度に渡すのであるから、寄席の下足番はよほど馴れていなければ勤められない事になっていた。その混雑を恐れて、自宅から提灯を持って迎いに来るのもあった。それも明治二十二、三年頃からだんだんに廃れて、日清戦争以後には提灯をさげて寄席へゆく人の姿を見ないようになった。それでも明治四十一年の秋、私が新宿の停車場附近を通ると、これから寄席へゆくと話しながら通る二人づれの女、その一人は普通の提灯を持ち、ひとりは大きい河豚ふぐ提灯を持っているのを見た。その頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に今昔の感に堪えない。
 今日の若い人達も薄々その噂を聞いているであろうが、その当時における女義太夫の人気は恰も今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。江戸時代の女義太夫は頗る卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売り出すようになったのは明治十八、九年頃からのことで、竹本京枝などがその先駆であったと思われる。やがて竹本綾之助が現われ、住之助が出で、高坐の上は紅紫爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)、大阪のぼりとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった。かれらのうちには勿論老巧の上手もあったが、その大部分は若い女で、高島田に紅い花かんざしを売り物にしていたのであるから、一般に女義太夫と云わずして娘義太夫と称していた。芸の巧拙は二の次ぎとして、所詮は「娘」であるから人気を博したのである。
 今日の映画女優やレビュー・ガールの支持者に対しては、ファンという外来語をあたえられているが、その当時の娘義太夫支持者に対しては、ドウスル連という名称があたえられていた。字を宛てれば、堂摺連と書くのである。その名称の由来は、義太夫のサワリの糸に連れて、ドウスルドウスルと奇声を発して拍手喝采するからである。まじめな聴衆の妨害になること勿論であるが、何分にも多数が騒ぎ立てるのであるから、彼等の跋扈ばっこに任せるのほかは無かった。堂摺連には学生が多かったから、今日は社会的に相当の地位を占めている実業家や政治家や学者のうちにも、かつてドウスルに憂き身をやつした経歴の所有者を少なからず見いだすであろう。
 娘義太夫全盛の証拠には、その当時の諸新聞は、二、三の大新聞を除いて大抵は「今晩の語り物」という一欄を設けて、各寄席毎晩の浄瑠璃外題と太夫の名を掲載していたのであった。日露戦争前後から堂摺連も次第におとろえ、娘義太夫もまた衰えた。
 日清戦争以後からは浪花節が流行して来た。その以前の浪花節は専ら場末の寄席に逼塞ひっそくして、聴衆も下層の人々が多かったのであるが、次第に勢力を増して来て、市内で相当の地位を占めている席亭も「御座敷浄瑠璃、浪花節」のビラを懸けるようになった。聴衆もまた高まって、相当の商人も行き、髭の生えた旦那も行き、黒縮緬の羽織を着た奥さんも行くようになった。そのほかに、明治三十年以後には源氏節、大阪仁和賀、改良剣舞のたぐいまでが東京の寄席にあらわれて、在来の色物はだんだんに圧迫されて来た。今日落語界の不振を説く人があるが、右の事情で東京の落語界はその当時から已に凋落の経路を辿りつつあったのである。

(昭和一一・一・日本及日本人)




 



底本:「綺堂芝居ばなし」旺文社文庫、旺文社
   1979(昭和54)年1月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2004年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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