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土曜夫人(どようふじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:12:15  点击:  切换到繁體中文


      七

 改札口をはいって階段を登ると、狭い通路を繩で仕切った中に、旅行者の群が陰欝な表情を無気力にうかべて、しょぼんとうずくまっていた。誰も立っている者はなかった。
 引揚者だろうか。それとも、汽車がはいるまで、その薄汚い通路で鈍い電燈のあかりを浴びながら、何時間も待たされているただの旅行者だろうか。ひとりひとりは独立の人格を持った人間だが、こうして群をつくっていると、もうそこから漂って来るのは、意志を失った一つの動物的な感覚のようであった。
 人々は彼等の傍を通り抜けながら、ふと優越的な気持が同情に先立つらしく、さげすみの眼をちらと投げて行ったが、北山の眼はそんな旅行者が羨ましい眼付だった。
 何もかも投げ出して、旅行者の中へもぐり込み、どこか見知らぬ土地へ行ってしまいたかった。うずくまっている旅行者の一人と、ふと視線が合った。何だか見覚えのある顔だった。
「…………」
 北山は半泣きの顔に弱々しい微笑をうかべて、何か言いかけようとしたが、その時駅員が前方からやって来た。北山ははっとして顔をそむけると、固い歩き方で通路を抜け、省線のプラットの方へ階段を降りて行った。駅員の服装が警官のそれに見えたのだった。
 女に会うという期待の下へ消していた「おれはスリを働いた」という悔恨の火が、会えずに帰る北山の背中に執拗に迫り、それを振り切って逃げようと焦る行手には、恐怖が怪獣のように立ちはだかり、ペロペロと法律の赤い舌を出しているのだった。
 大阪行きの省線はすぐ来た。高槻で座席があいたので、ぐったりとして坐り、向い側の座席にちょこんと坐っているカラ子を見た途端、
「おやっ!」
 北山ははじめて、カラ子が祇園荘からずっと自分について来ているらしい――と、気がついた。
 吹田を過ぎ、東淀川の駅を過ぎると、やがて南側の車窓に、北野劇場のネオンサインが見え、大阪はもう夜であった。大阪駅前の広場に、闇の娘たちが夕顔の蔓に咲いた夜の花のように、ひっそりとした姿を現わす時刻だ。
 北山は眼の下にアザのある娘がその中にいないだろうかと、空しく探す眼付になりながら、うしろからつけて来るらしいカラ子のことは瞬間忘れていた。
「いない」
 しかし、もしかしたら中之島公園にいるかも知れないという藁のようなはかない希望は、北山の足を中之島公園へ連れて行った。
 北山は公園の中をぐるぐると歩きまわった。白粉をどんなに濃く塗ってもかくし切れないアザは、どの娘の眼の下にも見当らなかった。
 ぐるぐると歩きながら、北山は孤独な自分の足音をきいていた。気の遠くなるようなさびしさに足をすくわれて、北山は急に立ち停った。そして振り向いた。カラ子が立っていた。
「なぜおれをつけるんだ……?」
 北山は自分でも不思議なくらい荒々しい力で、いきなりカラ子の肩を掴んだ。その時、パーン、パーンと銃声が聴えた。

      八

「花火だな」
 と、北山はその銃声を遠い想いで聴いた。中之島公園は真中を淀川が流れ、花火を連想させる。げんに二月ほど前、この公園で水都祭が催され、お祭り好きがお祭り騒ぎの花火を揚げたのだった。だから、銃声とは聴かなかった。
「お、お、お前、京都から、お、お、おれをつけて来たんだろう」
 なぜつけた――と、北山は昂奮に吃りながら、狂暴な力でカラ子の肩を掴んでいた。
「…………」
 カラ子は咄嗟に返事が出来なかった。空襲以来こわい目には随分会うて来たし、こわい人間にも会うて来たが、しかし、北山の表情ほどこわいものを見るのは、生れてはじめてだった。声も出ず、カラ子はぶるぶるふるえていた。
「言ってみろ!」
 北山は血走った眼で睨みつけながら、カラ子の肩をゆすぶった。ゆすぶられて、カラ子はふっと空を見た。降るような星空に、星が流れ、あえかな尾を引いてすっと消えた拍子に、カラ子は京吉を想い出した。
「兄ちゃん、あたい、こんなこわい眼に会うてるのよ」
 何も中之島公園までつけて来なくても、途中交番の前を通った時、かけ込んで、あいつスリだと一言いえば、京吉の財布は戻った筈だった。が、交番というものには、やはり浮浪孤児らしい反撥があった。今日の昼間、円山公園の交番でもいやな想いをさせられたのだ。
 それと、一つには、警官のたすけを借りずに、京吉へスリを渡したいという子供らしい虚栄心もあった。スリの落ちつく場所を見届けて、それを京吉に知らせる時の喜びが、カラ子をいつまでも尾行させていたのだろう。
「言え! 言わんのか! こいつ! なぜ、おれをつけた……?」
 日頃大きな声も出せぬくらい大人しい北山には、ついぞこれまでなかった狂暴なその表情は怒りに逆上しているように見えたが、しかし、それは憤怒というより、むしろ北山の恐怖から出たものだった。
「こいつはおれがスリをしたことを知ってやがる!」
 という予感が、北山を逆上させていたのだろう。臆病者の方がいざという時には狂暴な行動をやりがちなのだ。
「――お前、何もかも知っているんだろう。畜生!」
 北山の手がカラ子の肩から首へ動いて、ぎゅっと力がはいりかけた途端、パーン、パーン……再び銃声が聴えて、なだれを打ったように、群衆がかけ出して来た。
「脱走だッ! 脱走だッ!」
「おい、こっちへ逃げろ!」
 近くの大阪拘置所を破って脱走して来た一団であった。銃声は守衛が威嚇的に射ったものだろう。誰かが川へ飛び込んだ。
 北山ははっとわれにかえると、その一団にまじってぱっとかけ出して行った。北山の狂暴な血は一時に引き、野卑な顔はただ狼狽の色に歪んでいた。

      九

 逃げろ、逃げろという声は、拘置所を脱走して来た未決囚の一団が、良心の囁きに傾きがちな不安な耳へ、ぶっつける群衆心理の叫び声であったが、北山の耳は、
「お前も逃げろ!」
 と、聴いたのだ。だから、その一団にまぎれ込んで駈け出しながら、北山は自分もまた囚人であるかのような錯覚に、青ざめていた。
 その夜、脱走した囚人は、あとで警察へ報告されたリストが四度も訂正されたくらい故、その時は誰も正確には判らなかったが、ざっと数えて百名ぐらいはあったろう。それが三方に分れて逃げたらしく、中之島公園へ逃げて来た連中はざっと三十名ばかり、差入れの着物や洋服などのいわゆる私服を持たぬ青い官服の囚人姿の者がその大半だったので、一眼見るなり拘置所からの脱走者だと判った。
 その官服の青さは、月明りに照らされていたので、一層なまなましい不気味さに凄んで、悔恨の心のように北山の心に突きささったのだ。
「おれはスリのほかに、人殺しをしようと思ったのだ!」
 もう少しであの小娘を殺すところだった――と、もはや北山にとっては、中之島公園はあの闇の娘を拾ったなつかしい場所ではなかった。
「逃げろ、逃げろ!」
 中之島から逃げるんだ――と、北山もいつか囚人と同じ声を出して走りながら、あ、そうだ、こいつを持っていてはまずい。北山は京吉から掏った財布を投げ捨てた。
 再び銃声が聴えた。守衛がまた威嚇的に発砲したのであろう。気の抜けた遠い音だったが、ひとり一団からぽつりとはなれて駈けていた五十四、五の男が、いきなり身を伏せた。
 銀造であった。田村のマダムの貴子のかつてのパトロン、チマ子が木崎に「お父っちゃんは監獄……」と語ったその父親の銀造だ。
 銀造がひとりおくれて駈けていたのは、実は逃げる意志を持っていなかったからだ。
 横になることも出来ぬくらい収容定員の何倍もぎっしり詰った部屋の狭さの不平や、贈賄をしなければ差入れを許さぬ守衛への反感や、食事の苦情……が積み重っていたところへ、その日は夕食がいつまで待っても与えられず、ガヤガヤ騒ぎ立てていた矢先、たまたま起った囚人同士の口論が、それを鎮圧しようとした守衛に向って飛び火して囚人と守衛の間に険悪な空気が高まって行くうちに、極度にふくれ上った昂奮はついに拘置所の檻を破り、なだれを打って飛び出したのだが、銀造はその仲間にひき込まれながら――逃げ出してもどうせつかまって、罪が重くなるばかりだと、何か諦めていた。
 だから、逃げ足は渋りがちだったが、銃声に身を伏せた拍子に、北山の捨てた財布が眼にはいった。銀造は素早くそれを拾うと、
「そうだ、これさえあれば逃げられる!」
 淀屋橋の方へ通り魔のように走って行きながら、娘のチマ子の顔が頭をかすめ、京都へ行こう、京都へ行ってチマ子に会おうという想いの息を、ハアーハアーと重く吸っていた。


    登場人物

      一

 中之島公園を抜けて、淀屋橋の北詰まで来ると、銀造は一緒に脱走して来た連中を見失ってしまった。銀造は梅田新道の方へ広々とした電車通りを走って行ったが、追われている背中には、その一本道は長すぎた。大江橋まで来ると、銀造はいきなり左へ折れた。そして、川沿いの柳の並木にかくれながら、渡辺橋の方へ走った。一人になると、さすがに追われている身は不安だった。
 もっとも、財布を拾うまでは不安はなかった。追われる気持よりもいっそつかまった方が気が楽だと、脱走の意志は耳かきですくうほどしかなく、逃げられれば逃げたいという願いよりさきに、諦めが立っていた。しかし、財布を拾ったという偶然は、数字のように明確に銀造の迷いを割り切って、チマ子のいる京都までの道のりは、もはや京都行きの省線が出る大阪駅までの十町でしかなかった。
「この金があれば、京都まで行ける!」
 と、チマ子への想いをぐっと抱き寄せると、もう追われる不安がガタガタ体をふるわせて、何度も柳の木に突き当り、よろめいた途端、巡査とすれ違った。
 しかし、巡査はじろりと見ただけで、通り過ぎた。拘置所の脱走さわぎは十分前の出来ごとであり、その巡査の耳にはまだはいっていなかったのだろう。大量脱走者を出した大阪拘置所が、警察へ報告したのは、一時間たってからであった。
 もっとも、青い囚人服を着ていたとすれば、その場は無事に通り過せなかっただろうが、その時銀造はチマ子が差入れてくれた洋服を着ていたのだ。面会に来て、父親の銀造が青い着物を着ているのを見るのが辛く、チマ子は工面して闇市で洋服を買い、守衛にたのんで差入れたのだった。
「チマ子のおかげでたすかった!」
 と、ほっとしながら、渡辺橋の方へ折れると、道はぱっと明るく、バラック建ての商店街の灯が銀造の足下を照らした。――草履ばきだった。
 チマ子は靴も差入れようとしたのだが、拘置所では靴をはくことは許されず、持って行った靴は守衛への賄賂になったのだ。「この草履はまずい!」銀造は、もう誰も追って来ないと判ると、息苦しい胸を撫ぜて歩きながら、呟いた。洋服に草履ばきは、昨日今日ざらにある敗戦の身なりで、何の不思議もないとはいうものの、烱眼に掛れば、囚人用の草履であることを見抜くかも知れない。
 銀造は桜橋まで来ると、曾根崎の方へ折れて闇市の中へまぎれ込み、ズックの靴を買った。財布の金はまだ百円近く残っていた。
 大阪駅まで来て、京都までの切符を買い、何くわぬ顔でプラットホームで並ぶと、はじめてほっとした。が、さすがに不安は残り、キョロキョロうしろをみていると、十番線のホームで大阪仕立ての東京行き急行列車の二等に乗ろうとしている三十過ぎの男の精悍な顔が眼にはいった。銀造はいきなりどきんとした。

      二

 見覚えがある――と思ったのと、
「あ、あの男だ!」
 と、想い出したのと、殆んど同時だった。
 木文字章三――というその男の名前は知らなかったが、しかし、その顔は田村で見たことがあったのだ。
「たしか土曜日の晩だった!」
 満州から引揚げて来た銀造が、昔の二号だった貴子と、その貴子にうませたチマ子のいる田村を頼って、板場(料理人)の下廻りでも風呂番でもいいから使ってくれと、かつては鉄成金だった五十男の男を下げて転がり込んでから、ちょうど四日目の土曜日の晩、銀造は貴子の所へ来ていた章三を見たのだった。ちらと一眼だけ、あとにも先にも一度だけ見た顔だったが、咄嗟の勘でその男が貴子の現在のパトロンであることが判り、その時以来、銀造にとっては生涯忘れられぬ顔となったのだ。というより、忘れたいくらいだった。どうせ貴子にパトロンがありそうなことは気づいてはいたが、顔を見れば、さすがに年甲斐もなくこの男かと嫉妬が起った――その証拠には、拘置所の夜明けにも、その男の顔が夢に現われたこともある。
 その顔が向い側のプラットホームから、汽車に乗ろうとしているのだ。銀造はどきんとして、苦痛に青ざめた顔をそむけた途端に、
「……十番線の列車は二十一時発東京行き急行であります……」
 という拡声機の声をきいた。銀造はプラットホームの電気時計を見上げた。
「二十時十分か。発車までにまだ五十分ある」
 銀造はそう呟いたが、肚の中はべつのことを考えていた。――あの男は東京へ行くのだな、すると今夜は京都へ行かないなと、そんなことを考えていたのだ。
 京都――田村――貴子!
「――今夜は貴子はひとりだ!」
 豊満な貴子の肉体、その体温、体臭の魅力がよみがえり、もはや銀造にとって、京都へ行く喜びは娘のチマ子に会うことよりも、貴子の顔が見られることであった。
 銀造はもう一度振り向いた。章三の顔は二等車の窓にあった。
 彼の傲岸な顔は、やがて来た京都行きの省線に乗った銀造の瞼にいつまでも残り、銀造はおれも昔はあんな顔だったこともあると、東京で囲っていた貴子に会いに、大阪から寝台車に乗っていた時のことを想い出していた。何もかも昔の夢だ。寝台車で結んだ夢ももう夢になってしまった。日本も変ったが、銀造もすっかり変ってしまった。満州から引揚げてからは、からきし意気地のない男になってしまったのだ。
 頼る所はなく一部屋貸してくれと、田村へ転がり込むのはまだいいとして、章三を見た翌日、夜更けて貴子の寝室へ忍び込んで、こっぴどくはねつけられ、田村をおん出てしまう羽目になったのは、何としてもだらしがなさすぎた。
 しかし、電車が京都へ着くと、銀造は駅前の人力車を拾って、田村のある木屋町へ走らせながら、貴子恋しさにしびれて、その時のだらしなさを忘れるくらい、だらしがなくなっていた。

      三

 銀造を乗せた人力車夫は、見掛けは上品な顔だちだったが、車賃だけでは食って行けぬのか、怪しげな周旋もするらしく、旦那は木屋町へ行ってヤトナを買うのか、ヤトナは芸者よりは安いようで結局高いものにつく、それよりも、もっと安直で面白い所を紹介しようか――と、しきりにすすめるのだった。
「お銚子が一本ついて、タイムどしたら、百円でお釣りが来るのどっさかい、安おっしゃろ。それに、女は満州から引揚げて来た素人の女ばっかしで……」
 場所もM署の裏手だから、燈台下暗しで、かえって安全だという車夫の言葉を、銀造は辛い想いで聴いていた。
 引揚げとか、警察とかいう言葉は、銀造にとっては余りに身近な言葉だった。貴子に挑んで拒まれ、田村を飛び出してからの銀造の生活はうらぶれの底に堕ちていたが、しかし、さすがに大阪商人らしい気概は残っていたのか、おれも昔はひとかどの鉄屋だった。今に見やがれ、あの女を見返してやると、大阪の闇市の片隅で煙草を売り、握り飯を売り、砂糖を売り、酒を売り、その酒がメチルだったのだ。
 メチルとは知らずに売ったが、それでも人が死ねばやはり過失致死罪なのだろう、やがて投獄される憂目に会うたが、今はそれに脱走という罪が二重に重なって、おまけに拾った財布の金を無断で使っている。
 五条を過ぎると、急に雨だった。銀造の体が急に重くなったように、俥の歩みが遅くなった。さっと風が来て、横なぐりの雨を幌の隙間から吹きこんだ。
 幌につけたセルロイドの窓に雨滴が伝わり、四条通りの灯りをチラチラと流すと、やがて車は四条小橋から木屋町へ折れた――その途端、銀造ははげしい欲情を感じた。
 引揚者のわびしさも、脱走者の焦燥も、貴子への恨みも恥も外聞も忘れて、ただ貴子の白い肉体へのもだえに揺れているうちに、やがて俥は田村の玄関についた。
 さすがに敷居は高かった。女中に会わせる顔もなかった。が、思い切って勝手口からはいり、女中にきけば、
「ママはお留守どす。いま、東京へ立たはりました」
「チマ子は……?」
「こないだ(この間)からお居しまへんのどっせ」
 家出したらしいと、軽口の女中がペラペラと喋るのをききながら、魂が抜けたように料理場でぺたりとへたり込んでいると、貴子がいない失望よりも、家出したチマ子への心配が銀造をぽうっとさせ、いきなり十も老けてしまった。しかし、その時、電話が掛ってきて、
「M署……?」
 とききかえしている電話口の女中の声を聴いた途端、はや銀造の眼はピカリと光り、青ざめた顔を緊張が走った。
 丁度その頃、京都駅では、二十一時に大阪を出た東京行き急行列車がホームにはいり、昼間しめし合わせた乗竹侯爵と落ち合った貴子が、東京の女友達と一緒に、二等車へ乗ろうとしていた。

      四

 大阪からその汽車に乗っていた章三は、貴子たちが二等車にはいって来たのを見て、ニヤリと凄い微笑を泛べた。
「やっぱりおれの思った通りや」
 貴子は今日の昼間、夜の九時頃に立つといっていたが、その時間に出る東京行きの急行はこの二十一時大阪発の一本しかないと、章三は田村から大阪へ帰った足で、すぐ切符の手配をして、その汽車に乗り込んだのだった。
 もっとも、貴子がただ女友達と二人きりで乗ったとすれば、章三のその計画も無意味なものになってしまうところだったが、案の定貴子は上品な顔立ちの青年と二人空いた座席へ並んで腰を掛けた。その青年の顔を一目見るなり、章三は、
「あいつやな、乗竹侯爵は……」
 と、疑いもなくピンと来て、自分の勘の適中に満足した。しかし、その満足は、非常に愉快なものだ――といっては、言い過ぎになる。
 なぜなら、げんに章三の眼の前にある光景は、自分の妾がよその男と旅行しようとしている――いわば章三のような自尊心の強い男にとっては、随分と男の下る事実なのだ。しかも、その男、乗竹春隆は昨夜田村へ、陽子を連れて来ているのだ。
 にやりと微笑したが、さすがに章三の顔がこわばった青さに青ざめていたのも当然だ。
「今に見ろ!」
 章三は今朝田村で見た新聞の売家広告を想い出した。
「売邸、東京近郊、某侯爵邸」とあったその広告を見て、大阪へ帰ると、章三は早速東京へ電話して、それが乗竹侯爵邸であることを調べ上げたのだ。そして、その偶然にスリルを感じていた。
 陽子――春隆――田村――貴子――売邸――東京行き……。
 偶然は偶然を呼んで、章三を取り巻いている。更にいかなる偶然が降って湧くか――と、章三の眼は人生のサイコロの数を見つめる人間のように血走っていた。
 いわば、偶然の糸を、章三は自分の人生のコマに巻いたのだ。そして、ぶっぱなせば、コマは廻って行く。それが章三にとっては、生き甲斐であり、章三の人生は絶えずコマのように回転している必要があるのだ。
 今に見ろ――とは、だから、ただ陽子の居所をきくために、春隆をとっちめるという最初の目的から飛躍して、
「おれがこの汽車に乗ったことは、ただで済むまい」
 春隆をもただで済まさないが、おれ自身もただでは済むまい。おれはもうサイコロを投げた――という、偶然への挑戦であった。
 偶然といえば、貴子も春隆も、その車室の隅に章三がいることに気がつかなかった。章三の方からははっきり見えるが、貴子や春隆の方からは見えにくいという位置に、それぞれ坐っていた。
 そして、貴子と春隆がそんな偶然を少しも感じずに、ピタリとつけたお互いの肉体からただ肉体だけを感じているうちに、汽車は山科のトンネルに入った。

      五

「窓を少しあけましょうか」
 トンネルを過ぎると、春隆は腰を浮かして窓の金具に手を掛けた。春隆の上衣の裾が窓側の貴子の顔に触れた。
「でも雨じゃないですか……?」
 貴子は口にあてていたハンカチをはなしながら、分別くさい調子でゆっくりと言った。顔も体も声も若かったが、さすがにそんな言い方には、四十一歳という年齢がふと現れるのだった。
「あ。そうね」
 と、春隆は例のいんぎんな調子で、腰を下したが、貴子のそんな言い方が何だか面白くなかった。雨が降り込むことをうっかり忘れていた間抜けさ加減を嗤われた――と思い込むほど、春隆も貴族の没落を感じている昨今妙にひがみ易くなっていた。
 一つには、煤が眼にはいった不快さも手伝っていた。煤が眼にはいるのは不可抗力とはいうものの、春隆はそれをくしゃみのように恥かしいことだと感ずる男だったのだ。煤というものは下賤の人間だけにはいるものだと思っているのだろう。
 むっとしながら眼をこする代りに、だから春隆はその手で貴子の手を握ることを思いついた。
 眼の中のコロコロとした痛みを我慢しながら、一方で女の手の触感をたのしむなんて、思えばわれながら噴き出したくなるようなものだったが、もともと気のすすまぬ旅行だ、それぐらいはしてもいいだろうと、春隆は思ったのである。
 京都の悪友から遊びに来いと誘われて、東京を立ってから、もう一月以上にもなる春隆のもとへ、すぐ帰れという母親の手紙が来たのは、もう三日も前のことだった。春隆の父は五年前に、築地の妾宅で睡眠中に原因不明の死に方をし、兄は映画女優のあとを追うて満州へ行ったきり、長春かどこかで石鹸を売りながら生きのびているという風の便りが、一度あったほかは消息が判らず、現在は母親と妹の信子と三人家族だったが、母親の手紙によれば、妹の信子の品行が心配だから、兄のお前から意見をしてやってくれ云々とあり、春隆も母親の手紙を黙殺することは出来なかった。といって、京都には未練があった。
 陽子を誘惑し損ったまま東京へ帰るのは、何としても後味が悪い。どうせ東京へ帰らねばならぬとすれば、貴子から誘われたのはもっけの道連れだと、切符を手配する手間のはぶけるその汽車に乗って、
「途中熱海で降りるとしても、宿賃は向う持ちだ」
 と、存外俗っぽい、しかし、それが持ちまえのチャッカリしたやに下り方をしていたとはいうものの、さすがに、
「あっちが駄目になったから、こっちを……」
 という、陽子から貴子に乗りかえる現金さには、軽い悔恨があった。
 しかし、またそれだけに、くしゃみよりも簡単に手が握れる。いきなり膝の上の手を握ると、貴子は表情も変えずに握りかえした。
 それを、四つの眼が見ていた。

      六

 貴子の女友達の露子と章三の二人が、それを見ていたのだ。
「ははアん。やってるな」
 露子は斜向いの座席から、握り合わされた貴子と春隆の手を、安物の彫刻を見るように、眺めていた。
 血が通っていないようだった。恋人同士はこんな風には握り合わない。こんな風に何の感激も何の感慨もない握り方はしない。
 だから、見ている露子の方でも、何の感慨もなかった。美しいとも、醜いとも、感じなかった。露子はただその握り方に、自分が銀座でやろうとしているキャバレエへ貴子が出してくれる資本の額を計算していた。
 どうやら、貴子はキャバレエの話には大して乗っていないらしい。が、せっかく京都まで来て、その日のうちに東京行きの汽車に乗せてしまうという早業に成功した限り、キャバレエの話にも乗せずに置くものかと、露子は意気込んでいた。そのためには、この旅行で貴子がさんざんたのしんでくれることが好ましい。
「さんざん見せつけたのじゃないの。おごる代りに資本を出しなさいよ。ね。気を利かせっぱなしじゃ、合わないわよ」
 という科白を用意しながら、露子はわざわざ貴子と春隆を二人並ばせて、自分は別の座席へ遠慮したのである。
 京都駅で春隆に紹介された時も、
「侯爵を燕にするなんて今時悪趣味じゃないの」
 と、皮肉りたいところだったが、じっと我慢して、
「――ちょっとハンサムね」
 という言葉で、貴子の耳をくすぐったりした――それも商売人が資本主との会談に芸者を当てがうというあの心理からだったのだ。
 しかし、貴子の何の情熱もなさそうな表情を見ていると、露子は、五十万円も出させるのは無理かなと失望気味でもあった。
 しかし、失望していたのは、貴子の方だ。自分の若さを金に換算し、男というものをパトロンになる資格の有無で見るならわしが身にしみ込んでいる貴子にも、もし夢があるとすれば、貴族への憧れだった。どんなチャッカリした女にも、一つだけ抜けたところがある。貴子の場合は、貧しい家に生れて若くから体を濡らして来た生活の中でも捨てなかった「貴子」という自分の名前への、浅はかな誇りがそれだった。
「この人とは恋が出来そうだ」
 そんな予感がふっと一筋の藁のように、頭に浮んだのだが、しかし、簡単に春隆から手を握られてみると、あっけなく夢はこわれ、もう貴子はリアリズムの女であった。米原を過ぎると、貴子は、
「ちょっとこっちを向いてごらん……?」
 春隆の瞼を眼医者のようにくるりとむくと、いきなり顔を寄せて、舌の先でペロッと一嘗めした。煤が取れた。
「――どう……?」
 ニイッと笑った貴子の顔は、恋をしない女の、恋の技巧がしたたるようだった。
 遠くから見ていた章三は、いきなり起ち上った。

      七

 もう我慢が出来ぬ――と、章三は貴子の座席の方へ行こうとした。貴子の横面を殴ろうとしたのだ。
 自分の女がほかの男と手を握り合っているばかりか、男の眼にはいった煤を、舌の先で嘗めて取っているのだ。遠くから見ていると、そのポーズがもっと別のことを錯覚させる。
 章三でなくても、誰でも殴りたいと思うのは、当然だろう。しかし、その男が春隆でなかったら、章三もそれほど逆上しなかっただろう。春隆は章三にとって最もきらいな人種なのだ。
 貴子が貴族に憧れるのは、結局卑賤に生れたことが原因しているが、それと同じ理由で、爪楊枝けずりの職人の家に生れた章三は、貴族というものに敵意を感じていたのである。そしてまた、爪楊枝けずりの職人の息子だということが、章三の自尊心を人一倍傷つき易いものにしていたから、人一倍カッとなって、殆んど前後の見境もなくなるところだった。
「自尊心を傷つけられて、我慢するくらいだったら、死んだ方がましだ」
 というのが章三の信条であり、野心のためにどんな辛いことも我慢するが、自尊心を傷つけられることだけは我慢できず、野心は勿論自分をすっかり投げ出してもいいと思っていたのだ。いわば章三の情熱は野心以上に自尊心の振幅によって動くのだった。
 だから、前後の見境もなく、汽車の中でいきなり貴子を殴ろうとしたのだが、しかし、章三の自尊心はそんな向う見ずを彼に許して置くほど、けちくさい自尊心ではなかったから、二三歩行きかけて、急に立ち停った。
「あの女をいまここで殴れば、おれの自尊心は二重に傷つくのだ」
 章三は傷ついたままズキズキと膿み出している自尊心のはけ口のない膿を、持て余したまま、踵をかえすと、三等車との間のドアをあけて、デッキへ出た。そして、デッキのドアをあけて、吹きこむ雨風に打たれて、頭をひやそうとすると、
「ばか野郎!」
 デッキにうずくまっていた男が、どなった。
「……? ……」
「雨がはいるじゃねえか。間抜けめ!」
「…………」
 章三は血相を変えた。
「閉めろ!」
「…………」
「閉めろといったら閉めろ! つんぼか……?」
 男は起ち上って、ドアを閉めようとした。が、章三はドアのハンドルをつかんではなさなかった。
「こいつ!」
 男は章三の胸を突いた。胸に溜っていた自尊心の膿ははけ口を求めて、あふれ出た。章三はものもいわず、精一杯の力をこめて、どんと男の胸を突いた。男はあっという間に、デッキの外へ落ちてしまった。
「あっ!」
 章三は本能的にドアを閉めた。途端に、雨に濡れたドアの窓に若い女の顔がうつった。章三はギョッとして振り向いた。

      八

 章三はその男を殺すつもりで、デッキから突き落したのではなかった。
 はじめにその男が章三の胸を突いたのだ。章三はただ突きかえしただけに過ぎない。もし、その男と章三が位置を変えていたとすれば、章三の方がデッキの外へ落ちたかも知れないのだ。
 殺意はなかったのだ。しかし、ドアがあいていることは知っていた。突けば落ちるだろうということも無意識のうちに感じていた。土砂降りの雨の中へ、その男が土人形のように落ちて行く姿も、その男の胸を突きかえす一瞬前に、章三の頭に閃いていた。だから、よしんばその男が必ず死ぬと判っていても、章三はやはりその男を突いただろう――ということだけはたしかだった。自尊心のためには、人殺しすらやりかねない男だったのだ。
 殺すつもりはなかったにしても、そんな結果になってもいいと思っているような突き方だったではないか。
 しかし、あっという声を残して落ちて行ったその男を見た途端、さすがに章三ははっと思って、
「おれは到頭人殺しをしてしまった!」
 という想いに蓋をするように、殆んど本能的に、デッキのドアを閉めたのだった。
「おれがこの汽車に乗ったことは、ただでは済むまい」
 と予感していたのは、実はこれだったのか。自分を取り巻くかずかずの偶然の重なりに、章三は挑戦して、サイコロを投げた。その返答がこれだったのか。
 いわば人殺しという大きな偶然を、自分の宿命的な必然にするために、章三は最初の小さな偶然の襟首をつかんで、自分にひき寄せたといえよう。しかし、更に章三を襲った偶然は、その時その殺人行為を目撃していた者が一人いたということだ。
 目撃者がいなければ、デッキから落ちた男は、自分の過失で落ちたものとされて、章三の罪は永久に闇に葬られてしまうだろう。だから、その時、あわてて閉めたドアの窓ガラスに、若い女の顔がうつったことほど、章三をギョッとさせたものはなかった。
 振り向くと、デッキの隅にすらりと立って、章三の顔をしずかに見ていた。あえかな微笑だった。褐色味を帯びた瞳が、青く底光る眼の中に、ぱちりと澄んで、何かうるんだような感触が、その瞳から迫り、ふと混血児のようであった。そして、その瞳が、
「あなたは今人殺しをしたのでしょう……?」
 と、章三の心の底を覗き込んでいた。
 美貌というものがもし生れつきのものであるなら、いかなる運命がこの女にそんな美貌を与えたのかと思われるくらい、その女は美しかった。そしてまた、美貌というものが才能であるならば、いかなる才能でこの女はこんなに美しく見えるのかと思われるくらいだった。
「おれはいま生れてはじめて、女と対決しているのだ!」
 章三はその女の顔をじっと見つめながら、そう思った。

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