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夫婦善哉(めおとぜんざい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:16:46  点击:  切换到繁體中文


 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが去っていなかったこととて思いきって生ビールの樽(たる)を仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙(いそが)しく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着に高下駄(たかげた)という粋(いき)な恰好で、ときどき銭函(ぜにばこ)を覗(のぞ)いた。売上額が増(ふ)えていると、「いらっしゃァい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。俗に「おかま」という中性の流し芸人が流しに来て、青柳(あおやぎ)を賑(にぎ)やかに弾いて行ったり、景気がよかった。その代り、土地柄が悪く、性質(たち)の良くない酒呑(さけの)み同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄(きねづか)で、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。廓をひかえて夜更(おそ)くまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色(むらさきいろ)に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で一刻(いっとき)うとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物(つけもの)、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡(たか)をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒(はだざむ)くなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒(めいしゅ)の本鋪(ほんぽ)から、看板を寄贈(きぞう)してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空(むな)しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費(むだづか)いもないままに、勢い溜(た)まる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉は疲(つか)れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子(いす)に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
 案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気を腐(くさ)らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日(もんび)が続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜更(おそ)く、帰って来た。耳を澄(す)ましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛(はんべえ)様もお通に免(めん)じ、子までなしたる三勝(さんかつ)どのを、疾(と)くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
 夜中に下手な浄瑠璃を語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻(りんね)ゆえ、そい臥(ふ)しは叶(かな)わずとも、お傍(そば)に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下(した)へ降りた。柳吉の足音は家の前で止った。もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。「どなたッ?」わざと言うと、「わいや」「わいでは分りまへんぜ」重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」と外の声は震(ふる)えていた。「維康いう人は沢山(たんと)いたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子の折檻を観念しているようだった。「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおも苛(いじ)めにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生(せっしょう)やぜ」と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭を打(ぶ)っつけた。「痛ア!」も糞(くそ)もあるもんかと、思う存分折檻した。
 もう二度と浮気(うわき)はしないと柳吉は誓(ちか)ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。しばらくすると、また放蕩(ほうとう)した。そして帰るときは、やはり折檻を怖(おそ)れて蒼くなった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞(さかずき)も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗(かん)をするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺(どうこ)の中へ浸(つ)けた。明らかに商売に飽(あ)いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞(とどこお)り勝ちになり、結局、やめるに若(し)かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座(そくざ)に同意した。

「この店譲ります」と貼出(はりだ)ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。貯(たくわ)えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜(お)しかった。向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲(さ)きこぼれていて、活気を見せた。客の出入りも多かった。果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋(あかもんや)をやれへんか」柳吉は乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
 ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ妹の聟が出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局鐚(びた)一文も出さなかったとしきりに興奮した。そして「果物屋をやろうやないか」顔はにがりきっていた。
 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。
 その足で上塩町(かみしおまち)の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜(すいか)の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫(せま)られて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」と言い出していた。種吉は若い頃お辰の国元の大和(やまと)から車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘(おやこ)三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」と淡海節(たんかいぶし)の文句を言い出すほどの上機嫌だった。向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった。一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用(むなざんよう)して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身で釣(つ)って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」と言った。そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」と金切り声を出した。それが愛嬌で、客が来た。蝶子は、鞄(かばん)のような財布を首から吊(つ)るして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。
 朝の間、蝶子は廓の中へはいって行き軒(のき)ごとに西瓜を売ってまわった。「うまい西瓜だっせ」と言う声が吃驚(びっくり)するほど綺麗(きれい)なのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓達がひいきにしてくれた。「明日(あした)も持って来とくなはれや」そんな時柳吉が背にのせて行くと、「姐(ねえ)ちゃんは……?」ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋(しぶ)い顔であった。むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。
 割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会(しお)に、手を引いた。帰りしな、林檎(りんご)はよくよくふきんで拭(ふ)いて艶(つや)を出すこと、水密桃(すいみつとう)には手を触れぬこと、果物は埃(ほこり)をきらうゆえ始終掃塵(はたき)をかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃など瞬く間に腐敗(ふはい)した。店へ飾(かざ)っておけぬから、辛い気持で捨てた。毎日、捨てる分が多かった。といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌(は)けないと焦(あせ)りが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。

 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。がその心配より先に柳吉は病気になった。まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院(じっぴ)へ通い通いしていたが、こんどは尿(にょう)に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。前に怪(あや)しい病気に罹(かか)り、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」と怒(おこ)りながらも、まじない[#「まじない」に傍点]に、屋根瓦(やねがわら)にへばりついている猫(ねこ)の糞(ふん)と明礬(みょうばん)を煎(せん)じてこっそり飲ませたところ効目(ききめ)があったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌汁の中に入れると、柳吉は啜(すす)ってみて、変な顔をしたが、それと気付かず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。気が付かねば、まじないは効くのだとひそかに現(げん)のあらわれるのを待っていたところ更(さら)に効目はなかった。小便の時、泣き声を立てるようになり、島の内の華陽堂(かようどう)病院が泌尿科(ひにょうか)専門なので、そこで診(み)てもらうと、尿道に管を入れて覗いたあげく、「膀胱(ぼうこう)が悪い」十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。みるみる痩(や)せて行った。診立て違いということもあるからと、天王寺(てんのうじ)の市民病院で診てもらうと、果して違っていた。レントゲンをかけ腎臓結核(じんぞうけっかく)だときまると、華陽堂病院が恨(うら)めしいよりも、むしろなつかしかった。命が惜しければ入院しなさいと言われた。あわてて入院した。
 附添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はやむなく、店を閉めた。果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝付いていた。子宮癌(しきゅうがん)とのことだった。金光教(こんこうきょう)に凝(こ)って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱(すいじゃく)がはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。金のこともあった。注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持よく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起した。種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」と眼をしばたいた。弟の信一は京都下鴨(しもがも)の質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
 こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。手術と決ってはいたが、手術するまえに体に力(りき)をつけておかねばならず、舶来(はくらい)の薬を毎日二本ずつ入れた。一本五円もしたので、怖(こわ)いほど病院代は嵩んだのだ。蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。が、焼石に水だった。手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影(おもかげ)を失うた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。
 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけが会(お)うてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得(じごうじとく)、そんな言葉も彼は吐(は)いた。「この家の身代は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻(しり)を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。種吉の所へ行き、お辰の病床(びょうしょう)を見舞うと、お辰は「私(わて)に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん[#「ほうれん」に傍点]草炊(た)いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅(おそ)いと散々叱言(こごと)を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」とわめき散らした。水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田(たんでん)に力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。

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