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演劇漫話(えんげきまんわ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 13:36:06  点击:  切换到繁體中文

底本: 岸田國士全集20
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1990(平成2)年3月8日
入力に使用: 1990(平成2)年3月8日
校正に使用: 1990(平成2)年3月8日


底本の親本: 都新聞
出版社:  
初版発行日: 1926(大正15)年8月17日~26日

 

  一、新劇と旧劇

 現今、芝居好きと称する人のうちで、旧劇はつまらないと云つて見に行かない人もあるでせう。しかし、それは極少数の「新しがり」に限られてゐると云つてよろしい。之に反して、新劇は見るに堪へないと公言して憚らない人のうちには、相当、見識のある芸術愛好者が、可なり多くあることは事実です。
 旧劇は一概につまらないと云ふ側の人々は、旧劇には優れた文学が無いからといふ理由を挙げるでせう。しかし、旧劇は、今日ではもう立派に文学の羈絆を脱してゐる完成品です。たゞ、旧劇俳優のうちには、その旧劇独自の存在理由に着眼せず、徒らに、「旧劇の文学」に心酔して自己の世界を狭め、自己の芸術を低調ならしめてゐる自称新人の多いことは遺憾であります、従つて、之等の旧劇界の新人等は、たまたま新劇に手を染るに当つても殆ど常に、最も旧劇的な新劇、云ひ換へれば常識的感情を基調とする作品にのみ向はうとする愚かさを繰返してゐます。
 新劇は見るに堪へないといふ連中は、新劇にとつて、必ずしも敵でありません。なぜなら、彼等のうちには、「よりよき新劇」の出現を待ち望んでゐる人もあるでせうから。殊に、今日、新劇団と称する如何はしい蜉蝣的存在を無視することは、決して、新劇そのものを無視することにはならないからです。
 新劇とは、云ふまでもなく、西洋劇の影響を受け、現代文学の思潮を根柢とする演劇運動を指してゐます。
 戯曲の方面では、最近、相当目星い作品を生んでゐますが、舞台的には、まだ新劇を演じるために必要な才能と教養とを兼ね備へた俳優がゐません。従つて、大部分は素人です。その上、彼等には、御手本がない。先生がない。絶えず同じことを繰り返してゐて進歩しないのも無理はありません。

     二、新劇と云へないもの

 新劇は現代劇でなければならないと限つてはゐません。しかし、現今、新作時代劇と云はれてゐるものゝうちに、新劇の名に応はしい作品、舞台が、いくつありませう。「藤十郎の恋」や、「坂崎出羽守」や、「お国と五平」や、「伊井大老の死」や、「息子」や、「大仏開眼」や、「生きてゐる小平次」や、「玄朴と長英」や、これら、現代の日本劇壇が生んだ評判の時代劇は、多少とも、旧劇にないものを含んではゐますが、之等は畢竟、旧劇の畑にみのり得る果実であると、私は信じてゐるのです。それで、かういふ種類の作品は、所謂新劇の将来にあまり多く寄与する処のない作品であります。
 それからまた、現代生活を取扱つてゐればなんでも新劇かと云へば、さうとも限つてはゐません。新派劇は別として、毎月発表される戯曲を見ても、これはどう演出をすれば新劇になるのかと思はれるやうな作品があります。それは何れも、芝居といふものゝ常識から一歩も脱け出てゐない作品だからです。それはたゞ、人物が類型的だと云ふに留まりません。「作者の観てゐる芝居」が、今迄何処かで観たことのある芝居の寄せ集めに過ぎないと云ふことになるのです。早く云へば、舞台的に何等創造のない芝居は、新劇とは云へません。何となれば、芝居は昔から型に陥り易いものであり、その型を踏襲することによつて旧劇が成立ち、その型を破ることによつて新劇が起つたのですから。そして、俗衆は、自分の観てゐる芝居の中に、自分の知つてゐる型を見出さなければ満足しないといふ恐ろしい習慣を失はずにゐるのです。新劇は、さういふ種類の観客に秋波を送つてはなりません。

     三、演劇の為めの演劇

「芸術の為めの芸術」といふ語は解釈のし方で、いろいろな攻撃を受けますが、「演劇の為めの演劇」と、私が云へば、これも、いろいろな方面から苦情が出ることゝ思ひます。
 今日、「少数好事家の為の演劇」がよくないといふので、「民衆の為めの演劇」が唱道せられ、「俳優の為の演劇」が幅を利かしてゐる時に「文学者の為めの演劇」が一向に振はないでゐるといふ様に……。また、或る時は「演出家の為めの演劇」が栄え、「舞台装置家の為めの演劇」が出現し、「右翼思想の為めの演劇」があると同時に「左傾思想の為めの演劇」が存在を主張するといふ有様です。
 そして、結局、「興行主の為めの演劇」「俗衆の為めの演劇」「人気俳優の為めの演劇」以外に何も残らないではありませんか。
 それならばまだしも、「演劇の為めの演劇」があつて、それをめいめいが勝手に利用するやうにした方がよくはないでせうか。
「演劇の為めの演劇」とは、つまり、「演劇を愛するものゝ為めの演劇」であります。演劇を、演劇以外のものゝ為めに愛する人々があると仮定すれば、さういふ人々は、真に演劇を愛するものとは云へません。役者を見たさに芝居に行くといふ人々さへも、それは、演劇の為めに演劇を愛するものではなく、演劇に取つては寧ろ有難くない味方であります。
 それならば、「演劇の為めの演劇」とはどういふものかと云へば、演劇の本質を発揮するためにあらゆる要件を具備した演劇であります。脚本も文学の他の部門より独立し、舞台装置も絵画や建築の後を追はず、俳優も物真似ににつかず、舞踊に走らず、演劇は、一個それ自身の美を以て芸術の一様式たる実を挙げることに努力するのです。演劇でなければ表現できないものが人生のうちにあることを発見した古人の純粋な感覚を、われわれはもつことができないのでせうか。

     四、劇を書くが故に劇作家なる劇作家

「詩を作るが故に詩人なる詩人」と「詩人なるが故に詩を作る詩人」とを区別した人が仏蘭西にあります。劇作家についても同じやうな区別ができさうに思はれます。
 此の区別、此のニユアンスはやがて、詩の本質、劇の本質を雄弁に語らうとするものです。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」が如何に多いことでせう。そして「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」が如何に少いことでせう。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」は、劇を生む人々です。「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は劇を製造する人々です。前者の作品は一つの有機的組織であるのに反して、後者のそれは、常に機械的構成であります。従つて、後者は「味」よりも「力」を、「香」よりも「刺激」を、「光り」よりも「色」を、「弾力」よりも「硬さ」を、「密度」よりも「重さ」を尊重する傾きがあります。一つは「生き」、一つは「動」くのであります。云ひ換れば、前者は、「生命」を与へることによつて「動き」をつけ、後者は「動き」をつけることによつて、「生命」の仮感を与へようとするのです。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」中にも、「力」と「刺激」に富む作品を書いた人がないではありません。しかし、それは、常に、豊かな「味」と「香」とを伴つてゐます。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は、概ね、所謂「劇的シイン」のストツクをもつてゐます。戯曲とは、あらゆる「劇的シイン」の組合せだと思つてゐるからです。さういふ人々は、たまたま新しい着物を着てゐるかと思ふと、それは古い着物を裏返しに着てゐるのです。

     五、西洋劇と日本劇

 西洋の劇作家は言葉を活かすことを知つてをり、日本の作家は沈黙の価値を知つてゐると、嘗て武者小路氏が云はれたのに対して、私は言葉を活かすこと以外に沈黙の価値を活かす手段があり得ないだらうと言ひました。最も言葉を活かすことが――文学に於ては――最も沈黙を利用することであるといふ証拠は、西洋の優れた作品中にいくらでも例を挙げることができます。然るに、日本の劇作家の作品中、ほんとうに沈黙の尊さを知らしめるやうな作品がどこにあります。
 長田秀雄氏は、また、先月の新潮で、日本人の生活と西洋人の生活とを比較し、一つは、感情を表面に現さない生活であり、一つはすべての感情を、言葉やしぐさによつて表示する生活であるから、前者の生活から、歌舞伎式の楽劇が生れ、後者から文学的な科白せりふ劇が生れたのは当然である。故に、西洋の科白劇を、そのまゝ日本に遷すことは多少不自然であり、そこに新劇の行詰りを見る一原因があることを指摘してをられるが、これは慥に卓見だと思ひます。
 しかし、感情を表面に現さない生活、少くとも、感情を深く内に包んで容易に色に見せないといふ生活は、過去の生活であり、現在では、その習慣は漸次失はれつゝあるのです。殊に、舞台の生活は実人生の模写ではないのですから、実際ならば口に出さないやうな文句を、舞台上の人物が喋舌つたからとて、それが、「真」を伝へてゐないとは云へますまい。科も亦同様です。要するに、実生活に於ては内に秘められ、又は、かすかにしか現されないことが、舞台では表面に現され、明かに示され、しかもなほ、それが、内に秘められ、かすかに現されてゐるやうな印象を与へ得ればいゝのです。そこが芸術なのです。モリエールの「人間嫌ひ」は、主人公が独りで喋舌つてゐるやうな芝居ですが、その主人公は如何に無口な人間のやうに書けてゐるか、これなどは、よい例だと思ひます。
 日本人の生活が科白劇を生むに適してゐないといふのは、たゞ、さういふ生活が劇作家や俳優の才能を伸ばすに適しないといふだけで、又は、劇作家や俳優に霊感を与へにくいといふだけで、さういふ生活も、優れた作家、傑れた俳優の手にかゝれば、よい科白劇として表現されない筈はないのです。

     六、眼で聴き耳で観る芸術

「芝居を観る」といつて「芝居を聴く」と云はない理由を、芝居は眼にうつたへる方が主で、耳に愬たへる方が従であるといふやうに解釈するものがあるとすれば、それはあまり芝居の歴史にうとすぎます。
 こゝで演劇史を繰返すことはできませんが、要するに、「観る」だけでもなく、「聴く」だけでもなく、強て言葉を弄すれば「眼で聴き、耳で観る」といふやうな一種の境地にわれわれを惹入れるのが演劇本来の「美」であります。かの音楽が、屡々、聴覚を通して、一つの空間的なイメーヂを喚起させることは誰でも知つてゐることです。それとは、また稍異つた意味で、舞台の上を流れる生命の諸相は、殆ど何等の媒介なしに、直接われわれの魂に触れて来るやうに感じられなければなりません。
 かういふ印象は、勿論、傑れた演劇からのみ受け得られるのではありますが、今日まで畸形的に発達した演劇のある種の様式――例へばメロドラマなど――に依て特殊な鑑賞態度を習慣づけられた観客(此言葉が証明する通り)は、之と対蹠的な関係にある演劇の様式――例へば象徴的心理劇など――には親しみが薄い結果、事件を追ふことにのみ急で、台詞せりふの一語々々が醸し出すニユアンスの美を閑却し勝ちであります。
 メロドラマ、必ずしも芸術的に価値のないものだとは云ひません。また、高級な芝居が、常にせりふのみを生命とするものであるとは云ひませんが、舞台の動きも、台詞の意味も、共に、それを観る眼、聴く耳の単純な効果だけに頼つてゐるものであつてはならないのです。
 新しい演劇の鑑賞は、それ故、眼に見えるもの、耳に聞えるもの、さういふ区別をしないでも、丁度音楽の演奏を聴くやうな、あの虚心さ、あの注意深さ、あの心の澄まし方が必要なのです。
 但し、かういふ態度の鑑賞に値する演劇は、今日まで、日本にはまだ見当らないやうです。

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