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学生と先哲(がくせいとせんてつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 6:05:49  点击:  切换到繁體中文


     五 立正安国論

 日蓮は鎌倉に登ると、松葉まつばやつに草庵を結んで、ここを根本道場として法幡ほうばんをひるがえし、彼の法戦を始めた。彼の伝道には当初からたたかいの意識があった。昼は小町こまちの街頭に立って、往来ゆききの大衆に向かって法華経を説いた。彼の説教の態度が予言者的なゼスチュアを伴ったものであったことはたやすく想像できる。彼は「権威ある者の如く」に語り、既成教団をせめ、世相を嘆き、仏法、王法二つながら地におちたことを悲憤して、正法を立てて国を安らかにし、民を救うの道を獅子吼ししくした。たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨がくだった。群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。
 既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行きであった。また鎌倉政庁の耳目を聳動させたのももとよりのことであった。
 法華経を広める者には必ず三類の怨敵が起こって、「遠離於塔寺」「悪口罵言」「刀杖瓦石」の難に会うべしという予言は、そのままに現われつつあった。そして日蓮はもとよりそれを期し、法華経護持のほこりのために、むしろそれを喜んだ。
 かくて三年たった。関東一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、ほぼ一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野やどや入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(安国論御勘由来)」
 これが日蓮の国家三大諫暁の第一回であった。
 この日蓮の「国土の恩」の思想はわれわれ今日の日本の知識層が新しく猛省して、再認識せねばならぬものである。われわれは具体的共同体、くにの中に生を得て、その維持に必要な衣食と精神文化とを供せられて成育するのである。共同体の基本は父母であり、氏族であり、血と土地と言語と風習と防敵とを共同にするところの、具体的単位がすなわちくになのである。共生ミットレーベンということの意味を生活体験的に考えるならば、必ず父母を基として、国土に及ばねばならぬ。そしてわれわれに文化伝統を与えてくれた師長を忘れることはできぬ。日蓮は父母の恩、師の恩と並べて、国土の恩を一生涯実に感謝していた。これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつある。
 しかし日蓮の熱誠憂国の進言も幕府のいれるところとならず、何の沙汰もなかった。それのみか、これが機縁となって、翌月二十八日夜に松葉ヶ谷草庵が焼打ちされるという法難となって報いられた。
「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとや思ひけん、念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したりとぞ聞えし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて、殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其夜の害も免れぬ。(下山御消息)」
 このさるべき人々というのは幕府の要人を指すのだ。彼らは自ら手を下さず、市井の頭目を語らって、群衆を煽動せしめたのであった。
 日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者富木とき氏の邸にあって、法華経を説いていた。

     六 相つぐ法難

 日蓮の闘志はひるまなかった。百日の後彼は再び鎌倉に帰って松葉ヶ谷の道場を再興し、前にもまして烈々とした気魄をもって、小町の辻にあらわれては、幕府の政治を糺弾し、既成教団を折伏しゃくふくした。すでに時代と世相とに相応した機をつかんで立ってる日蓮の説法が、大衆の胸に痛切に響かないはずはない。まして上行菩薩を自覚してる彼が、国を憂い、世を嘆いて、何の私慾もない熱誠のほとばしりに、舌端火を発するとき、とりまく群衆の心に燃えうつらないわけにはいかなかったろう。彼の帰依者はまし、反響は大きくなった。そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。
 この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇を得たことを喜び、行住坐臥に法華経をよみ行ずること、人生の至悦であると帰依者天津ノ城主工藤吉隆に書いている。
 二年の後に日蓮は許されて鎌倉に帰った。
 彼は法難によって殉教することを期する身の、しきりに故郷のことが思われて、清澄を追われて十三年ぶりに故郷の母をかえりみた。父は彼の岩本入蔵中にみまかったのでその墓参をかねての帰省であった。
「日蓮此の法門の故に怨まれて死せんこと決定也。今一度故郷へ下つて親しき人々をも見ばやと思ひ、文永元年十月三日に安房国へ下つて三十余日也。(波木井御書)」
 折しも母は大病であったのを、日蓮は祈願をこめてこれを癒した。日蓮はいたって孝心深かった。それは後に身延隠棲のところでも書くが、その至情はそくそくとしてわれわれを感動させるものがある。今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。

うつそみの親のみすがた木につくりただにぬかずり哭き給ひけん

 これは先年その木像を見て私が作った歌だ。
 この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰するようにいましめた。日蓮のこの道善への弟子としての礼と情愛とは世にも美しいものであり、この一事あるによって私は日蓮をいかばかり敬愛するかしれない。凡庸の師をも本師道善房といって、「表にはかたきの如くにくみ給うた」師を身延隠栖の後まで一生涯うやまい慕うた。父母の恩、師の恩、国土の恩、日蓮をつき動かしたこの感恩の至情は近代知識層の冷やかに見来ったところのものであり、しかも運命共同体の根本結紐として、今や最も重視されんとしつつあるところのものである。
 しかるにその翌月、十一月十一日には果してまたもや大法難にあって日蓮は危うく一命を失うところであった。
 天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨をはらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃ったのであった。
 弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮闘したが、衆寡敵せず、ついに傷ついて絶命した。
 日蓮は不思議に一命は助かったが、頭に傷をうけ、左の手を折った。
 日蓮は工藤吉隆の法華経のための殉教を賞めて、大僧の礼をもって葬り、日玉上人の法名を贈った。鏡忍房の墓には「手向ノ松」を植えた。
 日蓮はこの法難によって、経に符合する意味で法華経の行者としての自信を得た。「日蓮は日本第一の法華経の行者也」という宣言をあえて発する自覚を得た。彼がこの小松原の法難における吉隆と鏡忍との殉教を如何に尊び、感謝しているかは、彼の消息を見れば、輝くほどの霊文となって現われているのであるが、ここに引用する余裕がない。後に書くが日蓮はまれに見る名文家なのである。
 この法難から文永五年蒙古来寇のころまで、三、四年間は日蓮の身辺は比較的静安であった。この間に彼の法化が関東の所々にのびたのであった。

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