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武装せる市街(ぶそうせるしがい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 6:24:35  点击:  切换到繁體中文


     五

 十王殿シワンテン附近に、汚ない、ややこしい、ふんどしから汁が出るような街がある。
 幹太郎はそこの親爺の家に住んでいた。
 そこには、彼の二人の親と、母親のない一人の子供と、二人の妹が住んでいた。彼は、そこから、商埠地しょうふちの街をはすかいに通りぬけて工場へ通った。
「あの、よぼよぼのじいさんは日本人ですか?」
 邦人達は、黄白の眼が曇った竹三郎のことを、知りあいの支那人からきかされると、
「なに、あいつは朝鮮人だよ。」
 と軽蔑しきった態度で答えた。
 ここでは、邦人達は、労働することと、※(「やまいだれ+隠」、第4水準2-81-77)者となることを、国辱と思っていた。
 邦人達は、つい三丁先へ野菜ものを買いに行くのでも、洋車くるまにふんぞりかえって、そのくせ、苦力にやる車代はむちゃくちゃに値切りとばして乗りつけなければ、ならないものと心得ていた。
 落ちぶれた、日本人が、苦力達の仲間に這入って、筋肉労働を売っているとする、――そういう者も勿論あった。
 と、
「ふむ、あいつは朝鮮人だ!」
 洋車の上から、唾でも吐きかけぬばかりに軽蔑した。
 親爺の竹三郎は、その軽蔑を受ける人間の一人だった。
 彼は、煙槍エンジャンと、酒精アルコールランプと、第三号がなければ生きて行かれなかった。彼は、一日に一度は必ず麻酔薬を吸わずにはいられなかった。体内から薬のが切れると、うずくような唸きにのた打った。それは、桶から、はね出した鯉のように、どうにもこうにも、我慢のしようがなかった。
 幹太郎は、その親爺が、見るからに好きになれなかった。
 親爺は仕事らしい仕事は殆んど出来なくなっていた。そして親爺の代りは、妹のすゞがした。彼女は、今、三、四封度ポンドを携えてくるために内地に帰って行っていた。
 邦人達は、たいてい、この軟派を仕事としている。饅頭屋、土産物商、時計屋、骨董屋などの表看板は、文字通り表看板にすぎなかった。内川は大量を取扱う卸商とすれば、彼等は小商人だった。――そんな商売をやる人間がここには一千人からいた。
 竹三郎もその一人だった。
 阿片は、苦力や工人達には、あまりに高すぎる。そこで、阿片の代りに、もっと割が安い、利き目が遙かにきつい三号含有物がここでは用いられた。阿片なら、三カ月間、吸いつゞけても、まだ中毒しない、しかし、ヘロインは、十日で、もう顔いろが、病的に変化するのだった。
 ――これにも主薬と佐薬がある。調合がうまくなければ、売行はよくなかった。そして、その調合法は、それぞれ、自分の秘密として家伝の如く、他人には容易にそれを話さなかった。竹三郎は、いろいろな仕事に失敗して、とうとう、一番、最後の切札に、この三号品を扱い出した。当初、売行が悪いのに、苦るしんだ。何もかも、すべてに失敗しても、彼は内地へは帰れなかった。彼は内地を追われて来たのだ。
 いくらでも、めちゃくちゃに金の儲かるボロイ商売のように云われている薬屋でも、やって見れば、やはり、苦労と、骨折がかゝるものだった。
「畜生! 今度は、俺がためしに吸うて見てやる。それくらいなことやらなけゃ、商売はどうしたって、うまくは行かんのだ。」
 こんなことを云っていた時には、まだ薬の恐ろしさは、彼にも、妻にも分っていなかった。
「阿呆云わんすな。――中毒したらどうするんじゃ。」――お仙も笑っていた。
「そんな呑気なことを云っちゃいられないぞ。どうしたって俺は、日本へは帰れないんだ!」彼は品物がだんだんに売行きがよくなると、彼の顔色は、古びた梨のように変化した。
 麻酔薬は、体内の細胞を侵していた。
 彼は、蟻地獄に陥る蟻だった。どんなに、もがいても、あがいても、吸わずにいられなくなっていた。
 すゞも、俊も、幹太郎も、内地からここへ来て、まる二年ばかりしか経っていなかった。
 すゞは、「快上快」の調合から、原料の補給や、時には、それを裏口から、足音をしのばせて、そッと這入ってくる青い顔の支那人に売ることもていた。
 俊は、トシ子が置いて帰った一郎をあやしてたわむれた。一郎は幹太郎の子である。トシ子は、彼と、家を嫌って帰ってしまった妻だ。そして、俊は以前、トシ子と仲がよかった。
 姉の方のすゞは、トシ子が帰ってしまうと、家のことに、心から身を入れて働くようになった。
 原料の補給に内地へ帰らされるのはいつもすゞだった。彼女も、また、危険を冒してもそれをやった。
 やかましい税関をくゞり抜けて、禁制品を持ちこむのは、荒くれた男よりも、女の方が、――殊にまだどこかあどけない娘の方が、はるかにやりよかった。竹三郎は、初めて、幹太郎とすゞと、幹太郎の妻のトシ子を内地からつれて来しなに、もう、早速、一封度ずつ、三人に、肌身につけて上陸するように強いた。
 幹太郎は、その時、親爺の破廉恥はれんちさ加減に、暫らく唖然とした。二人の兄弟だけになら、まだ我慢が出来た。ところが、親爺は貰って四月しか経たないトシ子にも、平気の皮で云いつけた。彼は、トシ子と一年半ばかりで別れなければならなくなった原因の一半は親爺にあるような気が、今だにしている。人の気持が分らないのにも程があった。
 だが、第一回は、はずかしがったり、気をもんだりしたすゞと、トシ子が、うまく、やすやすとやりおおせた。親爺と幹太郎は上陸すると、すぐ眼のさきにある、税関のくぐりぬけがかえって面倒だった。女は、すらすらと通ってしまった。
 親爺は、一度味をしめると、それをいいことにして、またすゞを内地へ帰らした。
 すゞは、二回、三回のうちに税関をだまくらかすのを痛快がりだした。
「お前、あの時、どんな気がしたい?」
 露顕した時の恐怖と、親爺への不服が忘れられない幹太郎は、あとから、すゞに訊いた。
「どんな気もしない。ただお父さんが気の毒で可哀そうだっただけ。」
「お前は、腹のまわりに袋に入れたあの粉をまきつけて、――おや、妊娠三カ月にも見えやしなくって? なんて、ひどく気に病んどったじゃないか。」
「それゃ、気になったわ。帯がどうしても、うまく結べないんだもの、――でも、そんなこと、なんでもなかった。ただお父さんが可哀そうだったの、始めて済南へ連れて来る子供とそれから花嫁さんにまでこんなことをさせなけりゃならんかと思ったら、お父さんが可哀そうで、涙がこぼれたわ。」
「なあに、見つからせんかと、びくびくものだったくせに、今になって、ませた口をたたいてやがら。」
「じゃ、兄さん、あの時から、こっちの暮しが、こんな見すぼらしいものだって分ってて?」
「俺ら、なんぼなんだって、こんなにひどいとは思わなかったよ。」
「私、ちゃんと分ってた。……おじいさんがなくなったのに、お母さんもつれずに、たった一人っきり、お父さんが帰っちゃったでしょう、あれで、もうすっかり、すべてが分るじゃないの。」
「へええ、貴様あとからえらそうなことを云ってやがら。」
 妻に子供を残されて、逃げ帰られてしまってから、二人はお互にかたく結びつくようになった。
 第三者にいわすと、幹太郎はもっといい妻がほしくって、トシ子をヘイ履の如く捨て去ったのだった。ところが、一度、妻とした女を、かえすということは、功利的な打算だけで、そんなに、たやすく出来得ることじゃなかった。旧式な彼には、いろいろな迷いや、苦悩や、逡巡があった。それを知っているのは、すゞだけだ。彼は、妹が、しみ入るように好きになった。子供も彼女になついた。すゞは、浅草の鳩のように、人なれがしていた。つかまえようとすると、鳩が、一尺か二尺かの際どいところで、敏感に、とび立って逃げる。そんなかしこさがあった。
 彼女が内地へ帰ったのは、もう、これで七回目だ。

     六

 ちまたの騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。
 在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。
 彼等は、誰かからそういう心配をするように暗示された。彼等はそのことのために、居留民団で会議を開いた。二人の選ばれたものが、領事館へ陳情に出かけた。小金をためこんでいる者も、すっからかんのその日暮しの連中も、同様に暗示にかかって、そのことにかゝずらった。
 絶えまない軍閥の小ぜり合いと、騒乱の連続は、その暗示をなお力強いものにした。――実際、町ではしょっちゅう騒乱が繰りかえされていた。遊芸園の東隣の女子学校へ、巡邏じゅんらの支那兵が昼間闖入ちんにゅうした。
 支那兵は二人だった。二人の支那兵は、女学生の寄宿している宿へ入り、彼等の飢えた性欲を十分に満足させた。
 ところが、女教師は、兵士に、そのことを内所にしといて呉れと頭を下げて頼むのだった。兵士は金を要求した。教師は弱味につけこまれた。金を出した。
 しかし、二人は青黒い兵営に帰ると、そのことを、ほかの者達にすっかり名誉のようにバラしてしまった。
 夜になると、まだ味をしめない兵士等が、群をなして学校へ押しよせて来た。支那語の叫喚、金属的なざわめきが、遠くで騒がしく起った。
 街では、毎晩、そこ、ここの家々が、武器を持った兵士等に襲われた。「諱三路ウイサルの×さアん、いらっしゃいますか? 急用!」映画を見ている最中に、木戸から誰かが呼ばれると、呼ばれない、附近の者までがギクリとした。――おや、又、強盗かしら?
 兵士達は食に窮していた。顔と頭を黒い布で包み、大きな袋のような大褂児タアコアルに身をかくしている。それは、どこでもかまわず、めちゃくちゃだった。
 土匪のように現金のある家をねらった計画的なものじゃなかった。それだけに尚、厄介だった。貧乏な者までが、気が気じゃなかった。
 そいつは押し入ると、獲物を求める、夜鷹のように、屋内を、隅から隅へ突きあたり、ひっくりかえした。はね上がったり、すねを突いて、物置の奥へ手を突ッ込む拍子に、大褂児の裾から、フト軍服の※(「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85)クウズがまくれ出た。
「おや、兵隊だ!」
「兵隊がどうしたい?」
「兵隊だって食わずにゃ生きとれねんだぞ。督弁トバンは一文だってよこさねえし!」
 そいつらは正体を見破られて引っ込むどころじゃなかった。「我的我的オーデオーデ! 爾的我的ニーデオーデ! (おれのもんはおれのもんだ! お前のもんはおれのもんだ!)」
 工場では、内川が、北伐にともなう、共産系の宣伝と組織運動、動乱にまぎれての工人の逃亡に対する対策に腐心していた。
 頭の下げっぷりが悪い、生意気な者には、容赦のないリンチが行われた。
 工人は妻のある男も、夫のある女工も、門外に出ることを絶対に禁じられた。すべてが、二棟の寄宿舎に閉じこめられてしまった。
 門鑑は、巡警によって守られていた。
 巡警は、公司コンスの証明書を持たない者には、一切入門を拒絶した。
 逃亡の防止策としては、給料が払われなかった。工人達は、三月末に受け取る筈の一カ月分の給料と、四月になってから働いた分を貰わず、そのままとなっていた。
 彼等の仕事は、すべて請負制度だった。
 彼等は、函詰、百八十盒でトンズル一文半(日本の金で約九厘)を取った。軸列一台(木枠三十枚)トンズル二文半、外し一車につき、一文、小箱貼り、軸木運び、庭掃は一カ月二円か三円だった。骨が折れること、汚いこと、燐の毒を受けることはすべて彼等がやった。日本人はピストルを持って見張っているだけだ。
 そして燐寸は、中国の国産品と寸分も異わないものが出来上った。商標も支那式で「大吉」を黄色い紙に印されていた。レッテルの四隅には「提倡国貨」(国産品を用いましょう)とれい/\しく書いてあった。
 これは排日委員会で決議されたスローガンの一ツだ。それが、うま/\と逆用されていた。――なる程、何から何まで、すべてが支那人の手によって作られたものである。支那の国で作っている。だから、支那の国産品にゃ違いなかった。資本をのければ。
 猛烈な日貨排斥運動に、皆目売れ口がない神戸マッチを輸入して、関税や、賦金や、附加税を取られるよりは、労働賃銀が安い支那人を使って、全く支那の製品と違わない「国産品」を、支那でこしらえ支那で売る方がどれだけ合理的なやり方か知れない。
 大井商事は、とっくにこれに眼をつけていた。マッチだけじゃない。資本家は、紡績にも、機械にも、製粉にも、搾油にも、製糖にもこの方法を用いていた。世知辛い行きつまった内地で儲けられない埋め合せはここでつけた。
 工人達の窮乏は次第に度を加えて来た。彼等はただ饅頭マントウや、※(「火+考」、第3水準1-87-43)コウビンのかけらを食わして貰うだけだった。そして湯をのまして貰うだけだった。金は一文もなかった。
 金がない為めに、一本の煙草も吸えなかった。ぼう/\となった髪を刈ることが出来なかった。
 稼いで金を送って、家族を養うことが出来なかった。
 三日も四日も飯にありつけない、彼等のおふくろや、おやじや、妻が、キタならしいなりをして息子に面会を求めに来ても、門鑑はそれを拒絶した。
 内には、親にあいたい息子がいた。娘がいた。妻にあいたい夫がいた。夫にあいたい妻がいた。
 外には、息子や夫の仕送りを待っている親や、妻がいた。
 小山達は、会せた後の泣きごとを面倒がって、会せなかった。
 さんぼろさげた工人達は、鉄条網の張られた白楊材置場へまわった。そこの僅かの一部分だけは、トタン塀が張られていなかった。
 そこで、彼等は、金属的な、悲しげな声を出した。
 工人達は、親の唸くような、叫ぶ声をきゝつけると、そっと、作業場を抜け出して、鉄条網のそばへしのびよった。
 彼等は、鉄条網をへだてて、内密に、面会した。
 しかし、息子は、親に与える金がなかった。夫は、妻に与える金がなかった。
 それは悲痛な面会だった。
 幹太郎はこういう者たちから、給料をくれるように話してくれとせがまれた。
「猪川さん。」王洪吉ワンホンチは、おず/\と、浸点を見ている幹太郎のそばへ近よった。気の弱い、勤勉な工人の一人だ。
「何だね?」
「猪川さん。」
「何だね?」幹太郎は早く云えというような顔をした。
「猪川さん。……あのう、月給を半分だけでも渡して貰えるように、あんたから、小山さんに頼んで呉れませんか。」
 ワンの、卑屈げに、はにかんだ声を、幹太郎は意識した。
「今、おふくろが来て、女房がお産をしたが、もう、三日、飯をくわずにいると云うんです。」王はつゞけた。「おとゝいまで、嬶の妹のところから、粟を貰って来て食ったが、妹のところにも、なんにもなくなっちまったんです。」
「当分、月給を渡さないということになってるんだがなあ。」幹太郎は当惑げな顔をした。
「おふくろ、大きい方の餓鬼をおぶって来て、柵の外で泣いているです。――餓鬼も、おふくろも泣いているです。」
「会計にだって、支配人にだって、俺の云うことなんか、ちっとも効果がありゃせんのだよ。」
「…………」
 王洪吉は何か云おうとして、不思議な眼つきで、幹太郎を見た。彼は、肉体と精神と、両方で苦るしんでいた。胸がへしゃがれるようで、息をすることも、出来なかった。幹太郎は王の眼から、眉間みけんを打たれた瞬間の屠殺される去勢牛のように、人のいい、無抵抗なものを感じた。それは無抵抗なまゝに、俺れゃどうして殺されるんだ! 俺れゃ殺される覚えはない! というように無心に訴えていた。
 ふと、彼は
「よし、云ってやるよ。話してやるよ!」憤然と叫んだ。
「まるで、君等を人間並とは考えていないんだからなア。――かまわん。待ってい給え、云ってやる! 話してやるよ!」

 幹太郎は、工場の日本人のうちで一番植民地ずれがしていない、新顔だった。支配人の内川、職長の小山、大津、守田、会計の岩井、みな、コセ/\した内地に愛想をつかして、覊絆きはんのない奔放な土地にあこがれ、朝鮮、満洲へ足を踏み出した者ばかりだ。内地で喰いつめるか、法律に引っかゝるかする。居づらくなる。すると先ず朝鮮へ渡る。朝鮮が面白くない、満洲へ来る。満洲も面白くない、天津へ来る。北京へ来る。そこでもうまく行かない。そういう連中が、ここへ這入りこんでいた。
 彼等は、大連、奉天、青島、天津などを荒しまわっていた。常にニヤ/\している、顔にどっか生殖器のような感じのある大津のために、娘を山分けの手数料を取られて、七八十円で売らされた朝鮮人がどれだけあるか知れない。しかも、その生娘は、一人残らず大津に「あじみ」されて、それから、買手に渡されていた。小山の棍棒にかかって、不具者となり、くたばってしまった苦力は十人を下らないだろう。
 岩井は、今こそ、いくらか小金をためて虫をも殺さぬ顔をしている。が、その金を得るために、彼は日本人でも、朝鮮人でも、支那人でも、邪魔になるものは誰でも、なきものにし兼ねない手段を選んで来た。
 そんなつらの皮の厚さが、二寸も三寸もありそうなゴツイ彼等も、自分自身の悪業のため、満洲がいにくゝなる。天津がいにくゝなる。青島がいにくゝなる。そしてここへやって来ていた。
 工場には、悪党上りが集った場所によくある、留置場のような、一種特別な、ざっくばらんな空気がかもされていた。こゝでは自分の悪業を蔽いかくそうとする者は一人もなかった。強姦でも、強盗でも、窃盗でも、自分の経験を大ッぴらに喋りちらした。そこへ這入って来る人間は、自分にやった覚えのない罪悪をも、誇大に作り出して喋らないと、はばがきかない感じを受けた。いろ/\な前科と剛胆な犯罪の経験をよけいに持っている奴ほど、はばをきかし、人を恐れさし、えらばっていることが出来た。
 小山は、工人の気に喰わぬ奴に対しては、燐や、塩酸加里、硫黄、松脂などが加熱されて釜の中でドロ/\にとけている頭薬を、柄杓ひしゃくですくって、頭からピシャリとぶちかけた。支那人は、彼の手に握られた柄杓を見ると、物がひっくりかえるようなトンキョウな声を出して逃げ出すのだった。そのくせ、工人達が頭薬をこぼすと口ぎたなく呶鳴りちらした。
 彼等は、幹太郎をのけると、みなが、工人に対して、動物に対すると同じような態度をとった。幹太郎は工人等が、黒い饅頭か、高梁粉をベッタラ焼きのようにした※(「火+考」、第3水準1-87-43)コウビンのかけらを噛って、湯をのむだけで、よくも一日十五時間の労働に消費される熱量を補給し得るものだと考えた。
 彼には支那人ほど、根気強く、辛抱強い奴はないと見えた。文句を云わなかった。一箇でもよけいにマッチを詰めて、たゞ金を儲けたいと心がけている。請負制度は彼等の愛銭心を挑発して働かせる。その一つの目的のために、案出された制度のようだった。
「馬鹿な!」小山は冷笑していた。「奴等自身だって、熱量が補給されるかどうかなんてこたア、考えてみもしねえんだ!」
 小山は、彼自身の経験から割り出して、ここの工人は、満洲の苦力よりも生意気で、能率が上らないと確信していた。彼は、大連埠頭の碧山荘の苦力を使った経験があった。「支那人って奴は、やくざな人種だということを知って置かなけゃだめだよ。奴らをほめたりなんかするこたア、そりゃ、決していらんこったよ。」先輩振って、云ってきかすような調子だった。
「あいつらは恥というものがないんだ。こっちがいくらよくしてやったって、それで十分なんてこたないんだ。十円くれてやったって、シェシェでそこすんだりだ。一円くれてやっても、やっぱし、シェシェでそこすんだりだ。十銭くれてやっても、同じように、シェシェとは云うよ。だから奴等に、大きな恩をきせてやるなんか馬鹿の骨頂だよ。――それで、貰ったが最後、なまけて、こっちの云うことなんかききやしないんだ。」
「朝鮮でも、満洲でも、――ヨボやチャンコロは吾々におじけて、ちり/\してるんだがな。」
 支配人は繰り返えした。
 汽車で席がない時、あとから乗り込んだ彼等が、さきから乗りこんでいるヨボを立たして、そこへ坐るのが当然とされている。それを、皆に思い出させながら、
「それが、こっちでは支那人が威張りくさってやがるんだ。やっぱし、ここにゃ、日本の軍隊がいないせいだな。」
 彼等は、満洲や朝鮮をゴロツク間に、不逞なヨボや、苦力が、守備隊の示威演習や、その狂暴な武力によって取っちめられてしまうのを、痛快に思いつつ目撃して来た。
 彼等は、ここに、そういう、日本帝国の守備隊が、来て呉れていないことを残念がった。
「しかし、物はなんでも比較の上の話ですよ。」
 幹太郎は、悪党に対して純なものの正しさを譲るまいと心がけながら云った。
「働くという点から較べると、日本人は到底支那人には及ばんですよ。それに、内地じゃ組合が出来たり、ストライキをやったりして労働者が、そうむちゃくちゃに、ひどい条件でこき使われて黙っちゃいなくなっていますよ。」
「そんなこた俺れゃ知らん。――そんなこたホヤホヤの君が知っているだけだよ。」小山は幹太郎がうぶいことを軽蔑した。「吾々が支那までやって来て、苦力のように働くってことがあるかね。吾々は奴等に仕事を与えているんじゃないか。ね。吾々が、こうしてこの土地に工場をこしらえなかったら、奴等は、ゼニを儲ける口もありゃせんのだよ。洋車ヤンチョだって俺等が乗ってゼニを払わなかったら、誰れからゼニを貰うかね。それを、何を好んで、俺等が、奴等と同じレベルにまでなりさがって働くって法があるかい!そんなこた、それゃ、日本人の面汚しだぞ。」
「働くことが何で面汚しなんだ!」と幹太郎は考えた。「何てばかな奴だ。」
「もっと年を喰やア、君だって今に、分るんだ!」小山は呶鳴った。
 どうかした拍子に、田舎から、口を求めに出た男が、ひょっこりマッチ工場へ這入って来ることがある。
 垢に汚れた布団を肩に引っかけ、がらくたの炊事道具を麻袋マアタイになでこんで、そいつを手にさげたままやって来た。巡警は前以って、内川の云いつけでそんな奴は門内に這入らせた。幹太郎がそういう奴の相手になった。
 内川は、幹太郎が支那語講座流の発音で話している間中、脇の方からその支那人を観察していた。
 おとなしくって、若い、丸々と肥えて、いくらでも働かし得る、そういう奴かどうかによって採否を決した。
 健康そうな、しかし、きれいではない、田舎出の若者が、一人採用される。と、その代りマッチ工場独特の骨壊疽こつえそにかかった老人や、歯齦はぐきが腐って歯がすっかり抜け落ちてしまった勤続者や、たびたびの火傷やけどに指がただれんで、なりっぽのように、小さい物をつまみ上げることが出来ない女工が一人ずつ追い出されて行った。給料ぽッきりで。
 栄養不良と、日光不足(朝四時から夜七時まで作業)にもってきて、世界各国で禁止されている、最も有毒な黄燐を使うため、健康な肉体も、極めて短時日の間に、毒素に侵されてしまった。
 工人の出入は、はげしかった。一人が這入って来ると、一人が追い出された。それが度々繰り返された。そのうちに、一人の採用によって、工場中の支那人が、恐怖と不安に真蒼になることに幹太郎は気がついた。
 それは、解雇されそうな、ヒヨ/\の老人や、睨まれている連中だけじゃなかった。どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが、蒼くなって、どんよりとした、悲しげな眼で、生殺与奪の権を握っている日本人をだまっておがむように見るのだった。
 賃銀支払は、幹太郎がいくら懸命に話したところで、内川や小山は容れるどころじゃなかった。
「君は青二才だが、チャンコロのように雄弁だね。」
 小山は、そばに内川がひかえているのを意識しながら、皮肉に、鼻のさきで笑った。
「賃銀は、こっちから、めぐんでやる金じゃないんですよ。」と幹太郎は、喧嘩をするつもりで云った。「支払うべき金ですよ。労働は一つの商品ですからね。買ったものの代金を払うのは当然じゃないですか。」
 いくら人情に訴えたところで、きくような彼等じゃなかった。
「ふふむ、君は一体、支那人かね、ロシヤ人かね、――過激派の。」
「日本人ですよ。」
 幹太郎は、狂暴なものが、一時に、胸のなかでうごめくのを感じた。この二人に対してなにかしてやらねばならない!でなければ、胸のなかの苦痛は慰められない。だが、彼のやろうと思うことは、あまりに、結果がはっきりと分りすぎていた。
「日本人なら、日本人らしくしとり給え!」と小山は云った。「理屈ばかりじゃ、マッチは出来ねえんだから。」
「工人を見殺しにしちゃ、なお、マッチは出来ねえでしょう。」とうとうこらえていたものが、爆発してしまった。「泥棒! バクチ打ち!……」
 彼は、横の椅子を掴みあげた。ひょろ/\しながら、それを振り上げた。
 だが、内川は、豹のように立って来て、その椅子を取り上げた。
「馬鹿! 馬鹿! 何をするんだ猪川! 何をするんだ!……」
 幹太郎は扉の外へ押し出されてしまった。バタン! と扉が閉った。
「実際、あいつは、若いからね。」と、内川は緊張しきって、眼が怒っている小山に笑った。
「仕方のない奴だ。わしも、あいつのおふくろが気の毒だから、あれを使っているんだ。あいつの親爺はヘロ中だし、あいつはあいつで生意気だし、役に立たんが、ただ、あれのおふくろが気の毒でね……」

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