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那珂先生を憶う(なかせんせいをおもう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:09:35  点击:  切换到繁體中文

底本: 桑原隲蔵全集 第二巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年3月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年3月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年3月13日

 

文學博士那珂先生の卒去は實に突然の事で、吾輩は今猶夢の如く思ふ。左に少しく先生に就て知れる事實を紹介致さう。何分客舍匆卒の際であるから、年月や書名などには、多少の間違はあるかも知れぬ。是は豫め容赦を願つて置く。

 先生は非常の勉強家で、其の記憶力は絶倫であつた。其の結果として博識であつたことは申す迄もない。先生の勉強は實に驚くべきもので、宴會などの後でも、家に歸れば必ず其儘机に※(「馮/几」、第4水準2-3-20)つて、午前の一時二時迄も讀書を續けられる。『四庫全書提要』などは全く諳記して居られた。『九通』(『文獻通考』『續文獻通考』『皇朝文獻通考』『通志』『續通志』『皇朝通志』『通典』『續通典』『皇朝通典』をいふ)の如き、全部約二千三百卷の浩瀚なるもので全く通讀せられた。斯に通讀といふは、決して輕い意味の通讀ではない、眞實の通讀である。徳川時代の林大學頭は、一生の中に一度は必ず支那の正史を通讀し終る定めとなつて居つたとか聞き及んだが、其は兔に角『九通』を悉く通讀した學者は、わが國では古今先生の外恐くは一人もあるまい。
 先生の漢學に於ける造詣は測るべからざるもので、古文にも精通して居らるるが、時文にも熟達して居られた。日本廣しと雖も、先生ほど古文時分を通じて精確に漢文を讀み得たものは、他に斷じてない。『元朝祕史』などは、大體の意味なら、少しく漢學の實力ある者には、誰でも解し得るけれど、先生ほど精確に讀み得た者は、他に多くあるまい。支那通として有名であつた故楢原陳政氏なども、是の點について大に先生に敬服して居られた。
 世間には餘り知られて居らぬが、先生は國語にも中々精通して居られた。今より二十五年も以前に、先生が東京女子師範學校(今の女子高等師範學校)長をして居られた時に、國語文法の教授法のことについて議論せられたが、其の議論は當時に在つてたしかに一異彩を放つて居る。大槻文彦氏なども、常に先生の國文法に精通せらるることを推奬して居られたとか聞いたことがある。後年文部省より國語調査委員を命ぜられたのも、かかる理由からであらう。
 外國語の中では尤も英語に通じて居られた。是れは慶應義塾で修業されたものだ。勿論漢文の力に比しては見劣りせられたけれど、諸種の參考書を讀むには十分であつた。晩年にはドイツ語をも學ばれた。昨年の夏、ドイツ語も追々進歩して、大抵の參考書を讀むに差支なくなつたと申越されたのを見ると、熱心なる先生の事故、餘程上達せられたものと見える。先生のドイツ語の學習を思ひ立たれたのは、例の『成吉思汗ジンギスカン實録』の譯述に着手せられてからの事である。この著述の際に、先生は蒙古の地理、殊に蒙古時代の中心舞臺であつた、喀喇和林カラコルム附近の地理を明かにする必要を感ぜられた。所が西暦千八百九十一二年の頃に、ロシアではこの地方即ちオルコン河の方面に學術的探險隊を派遣して、綿密なる調査を試みた。其の結果がロシア文か、然らずば多くドイツ文で書いてある。之を讀みたい爲に先生はドイツ語の學習を始められたのである。吾輩はこの時、先生にラドロフ氏(Radloff)の Atlas der Alterth※(ダイエレシス付きU小文字)mer der Mongolei 其の他二三のこの種の書物を用達てたが、其の時先生は愈※(二の字点、1-2-22)ドイツ語を勉強すると言はれたことがある。
 年六十になんなんとして、然も『成吉思汗ジンギスカン實録』の著述に參考する必要があるといふ間接の事情から、困難なるドイツ語を勉強せられたのは、根氣の薄い日本人の間に於ては、稀有の美談といはねばならぬ。先生がモレンドルフ氏(Mollendorf)やシュミット氏(Schmidt)の著書によりて、滿洲語や蒙古語の研究を始められたのも、やはり是の時からの事と記憶する。吾輩は滿洲語や蒙古語は皆無承知せぬから、先生の之に對する造詣の何如をいふことが出來ぬ。
 先生の學界に於ける第一の功績は、東洋史の開拓と發達とである。東洋史といふ科目を成立させたのも先生で、東洋史の教科細目を規定したのも亦先生である。先生が東洋史の研究に興味をもたれたのは、隨分古い時代のことと想像される。たしか明治十年頃のことと記憶するが、先生はわが國の紀元、即ち『日本書紀』の記事を基礎とした紀元は疑ふべきものがある。日本の紀元は實際より六百年ばかりも延長して居ると思はれるといふことを論ぜられたが、之には支那史や朝鮮史の方面の材料をも隨分利用されてあつた。この論文は後に明治二十一二年の頃の『文』といふ雜誌に轉載せられた。之に對する贊否の議論は非常なもので、頗る當時の學界を賑はしたものである。
 一體わが國の紀元に就ては、隨分古き頃から疑ひを挾む人があつた。吾輩の記憶する所では、藤井貞幹の『衝口發』などが其古きものの一である。此人は神武天皇の御即位紀元の歳は支那の東周の時代ではなく、西漢の末頃に當るべきものであるといふ、極めて大膽な議論を主張したものだ。之に對して本居宣長は、『鉗狂人』といふ書物を著して熱心に辯駁を試みたが、併し本居翁も日本の應神、仁徳天皇以前の年代は、實際よりも多少延長して居るらしいといふ疑ひはもつて居つたのである。其の後石原正明の『年々隨筆』のうちにも、可なり精細な考證があつて、矢張り日本の紀元の疑ふべきことを主張して居る。併し勿論那珂先生の論文の如き堂々たるものは一もない。『文』といふ雜誌に紀元論が喧しくなつてから、學者の之に關する議論も多く世に公にせられたが、其のうちで那珂先生の論文と星野博士の論文とは流石に他を壓して居つた。殊に那珂先生のは尤も立論精確のやうに見受けられた。先生はこの紀元の事を研究する時に、支那朝鮮の古史をも比較參考せられたが、やがて日韓清古代の交通のことを仔細に研究さるることとなつた。或はこの三國古代の交通史を研究さるる間に、日本の紀元の疑ふべきことを發見されたのかも知れぬ。其れは何れにしても、先生のこの方面に關する智識は實に確なものである。明治二十七年頃の『史學雜誌』に連載された「朝鮮古史考」、及び同じ雜誌に掲げられた高勾麗の好大王(廣開土王)の碑の考證などは、今日に迄學者の推奬する所だ。
 有名な『支那通史』はたしか明治二十一年頃に出版されたものと記憶する。是れは支那の太古より宋末迄を漢文で五册に書いたもので、材料といひ、體裁といひ、又文章といひ、實に立派なものである。名は『支那通史』といふけれど、朝鮮半島、滿洲地方及び塞外地方の歴史をも遺憾なく記載してあるから、やがて先生によりて東洋史科の設立を唱道せらるるに至つた基礎は十分其間に認められるのである。殊に驚くべきは、この時代に於て、先生は早く西洋方面の材料を利用されたことで、唐代の蘇魯支(Zarathustra)教や、摩尼(Mani)教や、景教(Nestor)のこと、さては唐代に於ける囘教徒の貿易通商のことまで十分に記載されてある。吾人は平常から、日本人の手になつた支那歴史や東洋歴史は殆ど一部も讀んだことがない。但し先生の『支那通史』のみは絶えず左右に置き、今日まで參考に資して居る。
『支那通史』は盛に支那人間に喧傳せられ、上海シャンハイあたりでは早くより其の飜刻も出來、また『續支那通史』などいふ『支那通史』の後を承けて、元明清時代のことを記載した書物も出版されて居る位である。但しこの『續支那通史』は、日本の増田とかいふ人の作つたものだが、體裁といひ、材料といひ、文章といひ、實に拙劣極まるもので、先生の『支那通史』に對しては眞に狗尾を續ぐの憾がある。
 明治二十七八年頃と思ふ。『大日本教育會雜誌』に、先生の東洋史十囘講義の筆記が掲げられてあるが、簡にして要を得、流石に先生なればこそと思はるる點も尠くない。明治三十六年頃に出版された『那珂東洋史』は中學校の教科書を目的としてつくられたものだが、紙數多きに過ぐとかで餘り採用はされなんだが、勿論其の前後に群出した無責任な東洋史教科書の間に在つて異彩を放つて居る。吾輩は世の東洋史を學ばんとする人には、是非この書を一讀せんことを勸めるのである。其他先生の東洋史に關する論文は、大抵『史學雜誌』に載せられて居る。何れも皆金玉の文字であるが、煩を厭うて一々は紹介せぬ。
 この外、先生には『東洋歴史地圖』の著がある。是れは明治二十七八年の頃、先生が第一高等學校の教授であつた時に製圖されたもので、蒙古時代と隋唐時代(主として法顯玄奘の印度へ行つた時代の地理を明かにしたもの)と二枚だけ出來上つたが、印刷の困難やら、書舖の辭退やらで、中々出版といふ運びに至らなんだ。蒙古時代の方だけは、明治三十二年頃に出版されたが、隋唐時代の方は、終に出版されなんだ樣に記憶して居る。
 最近出版の『成吉思汗ジンギスカン實録』は、先生の尤も力を注がれた著述である。自分は内地出發準備に忙はしき時に、其の一部を受取つたので、其儘内地に留めて渡清したから、今に通讀する機會がなく、彼此の批評は出來ぬ。この『成吉思汗ジンギスカン實録』の原本ともいふべき『蒙文元朝祕史』は、たしか明治三十二年の頃文廷式氏が來朝の節、先生の宅で、先生や白鳥庫吉君が文廷式氏と會見されたことがある。吾輩も其の席末に列したが、其の時たしかこの書物の話が出て、文廷式氏より其の抄本を日本に送るといふことであつた。其の後約の如く文廷式氏より抄本を内藤湖南君に寄せ、内藤君より那珂先生に傳つたものである。この間の消息は内藤君が尤も承知して居らるる筈である。

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