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幼き日(おさなきひ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 10:56:35  点击:  切换到繁體中文


 今笑つて居る、直に復たぐづり出す、一度泣出したら地團太ぢだんだ踏むやら姉さん達に掻附くやら、容易には納まらないのが弟の方の子供です。何故子供といふものは、もつと自然に育てられないのかしら――何故斯う威かしたり欺したり時には殘酷な目にまで逢はせなければ育てられないのかしら――私は時々そんなことを思ひます。頭の一つもブン擲らずに濟ませるものなら、成るべく私はそんな眞似もしたくない。左樣思つて控へて居りますと、『貴方がたの父さんは御砂糖だと見えますネ』などと人々には笑はれる。しまひには世話するものまで泣いて了ふ。見るに見兼ねて、何時でも私がそこへ出なければ成らないやうなことに成ります。どうかすると私は憤怒の情に驅られて、子供を叱責する前に、激しく自分の唇を噛むことも有ります。憐むべき Domestic Animal……なにしろ弟の方の子供は丁度今が荒々しい、手に負へない盛りですから……
 どれ、私の生れた家の方へ貴女の想像を誘つて行つて、舊い屋敷をお目に掛けませう。
 母がよく腰掛けたはたの置いてある板の間は、一方は爐邊へ續き、一方は父の書院の方へ續くやうに成つて居ました。斯の板の間に續いて、細長い廂風ひさしふうの座敷がありまして、それで三間みまばかりの廣い部屋をぐるり取圍とりまくやうに出來て居りました。斯の部屋々々は以前本陣と言つた頃に役に立つたので、私の覺えてからは、奧の部屋などは特別の客でもある時より外に使はない位でした。別に上段の間といふのが有りました。そこは一段高く設けた奧深い部屋で、白いへりの疊などが敷いてあり、昔大名の寢泊りしたところとかで、私が子供の時分には唯床の間に古い鏡や掛物が掛けてあるばかりでした。父はそこを神殿のやうにして、毎朝神樣を拜みましたから、私も眼が覺めると母に連れられて御辭儀に行つたものです。それほど父は嚴格な、神信心な人でした。髮なども長くして、それを紫の紐で束ねて、後の方へ垂れて居ました。上段の間を隔てゝ、くつろぎの間といふのも有つて、そこが兄の居間に成つて居りました。村の旦那衆はよくそこへ話しに集りました。仲の間は明るい光線の射し込む部屋で、母や嫂が針仕事をひろげたところでした。障子を明けると、細長い坪庭を隔てゝ石垣の下に叔母の家の板屋根などが見え、ずつと向ふの方には遠い山々、展けた谷、見霞むやうな廣々とした平野までも望みました。丁度私の田舍は高い山のはづれで、一段づゝ石垣を築いて、その上に村落を造つたやうな位置にあります。私の家はその中央なかほどにありました。叔母の家といふはお霜ばあといふ女に貸してありましたが、心易く私の家へ出入した人でした。そこから通つて來るには是非とも坂道の往來を上らなければなりませんでした。
 お霜婆はてか/\した禿を薄い髮の毛で隱して居るやうな女でした。若い女中を一人使つて、女ばかりで暮して居ました。どうして斯樣な人が叔母の家を借りて居たのか、皆目かいもく私には解りませんでしたが、かく村の旦那衆がよく集るところではありました。お霜婆は私を可愛がつて呉れましたから、私も遊びに行き/\しまして、半ば自分の家のやうに心易く思つた位でした。旅の飴屋が唐人笛などを吹いて通ると、きつとそれを呼んで、棒の先にシヤブるやうにした水飴を私に買つて呉れたのも、斯の婆さんでした。しかしお霜婆の可愛がりやうは、太助やお牧などと違つて、どこかうるさいやうなところが有りました。どうして、ナカ/\御世辭ものでした。
 斯のお霜婆に就いて、私は片意地な性質を顯はしました。お霜婆の家でも毎年蠶を飼ひましたが、ある時私は婆さんの大切にして居る蠶に煙草のやにめさせました。斯の惡戲いたづらは非常に婆さんを怒らせました。その時から私は婆さんと仲違なかたがひして、婆さんの家の前はけて通り、婆さんが家へ來て言葉を掛ける時でも私は口も利かなく成つて了ひました。子供ながらに私はそれを六十日の餘も續けました。
 そのうちに村の祭が來ました。私は銀さんとお揃ひで黒い半被はつぴを造つて貰ひました。背中に家の紋を白く見せたものでした。火の用心の腰巾着もぶら下げました。折角せつかく祭の仕度が出來た、仲直りがてらお霜婆に見せて來るが好からう、と兄が言つて、嫌がる私を無理やりに背中に乘せ婆さんの家へかつぎ込みました。兄に置いて行かれた後で、婆さんが何と言つても私は聞入れませんでした。私は足をバタ/\させて泣きました。婆さんも手の着けやうが無いといふ風で、一層腹を立てまして、復た私を無理やりに背中に乘せ、家の方へ送り返しに來ました。
 斯樣な風で、容易に私の心は解けませんでした。到頭お霜婆の方から私の好きな羊羹を持つて仲直りに來ました。其時私は裏の井戸のところに立つてお牧が水を汲むのを見て居りましたが、お霜婆の仲直りに來たことを聞いて、お牧に隨いて母屋の方へ行きました。斯の婆さんと以前のやうに口を利くやうに成る迄には、大分私には骨が折れました。

        四

『もし/\龜よ、龜さんよ、
世界のうちにお前ほど、
歩みの遲鈍のろいものは無い――』

 無邪氣な唱歌が私の周圍まはりに起りました。私は二人の子供を側へ呼びまして、
『さあ、お前達は二人とも龜だよ。父さんが兎に成るから。』
『父さんが兎?』と兄の子供は念を押すやうに私の顏を覗き込みました。
『アヽ、龜と兎と馳けくらべをしよう。いゝかい、お前達は龜だから、そこいらを歩いて居なくちやいけない。』
 お伽話の世界の方へ直に子供等は入つて行きました。二人とも龜にでも成つた氣で、揃つて手を振りながら部屋の内を歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りました。
『龜さんはもう出掛けたか。どうせ晩まで掛るだらう……』
 と私は子供等に聞えるやうに言つて、『こゝらで一寸、一眠りやるか……』
 私が横に成つて、グウ/\鼾をかく眞似をすると、子供等は驚喜したやうに笑ひ乍ら、私の周圍まはり※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つて居りました。そのうちに、私は半ば身を起して、大欠おほあくびしたり兩手を延ばしたりして、眠から覺めたやうに四邊あたりを見※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)しました。
『ヤ、これは寢過ぎた……』
 と私は失策しくじつたやうに言へば、子供等は眼を圓くして、急いで床の間の隅に隱れました。私は龜の在所ありかを尋ね顏に、わざ/\箪笥の方へ行つて見たり、長火鉢の側を※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つたりしました。
『兎さん、こゝよ。』
 と子供等が手を打つのを、私は聞えない振をして、幾※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りか※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りながら漸くのことで龜の隱れて居るところへ行きました。其時、子供等は勝誇つたやうな聲を揚げて、喜び騷ぎました。
 どうかすると私は斯樣な串談じやうだんをして、子供を相手に遊び戲れます。斯ういふ私を生んだ父は奈樣どんな人であつたかと言へば、それは嚴格で、父の膝などに乘せられたといふ覺えの無い位の人でした。父は家族のものに對して絶對の主權者で、私等に對しては又、熱心な教育者でした。私は父の書いた三字經を習ひ、村の學校へ通ふやうに成つてからは、大學や論語の素讀を父から受けました。あの後藤點の栗色の表紙の本を抱いて、おづ/\と父の前に出たものです。
 父の書院は表庭の隅に面して、古い枝ぶりの好い松の樹が直ぐ障子の外に見られるやうな部屋でした。赤い毛氈まうせんを掛けた机の上には何時でも父の好きな書籍が載せてありましたが、時には和算の道具などの置いてあるのを見かけたことも有ります。父はよく肩が凝ると言ふ方でして、銀さんと私とが叩かせられたものですが、肩一つ叩くにも只は叩かせませんでした。歴代の年號などを暗誦させました。しまひには銀さんも私も逃げてばかり居たものですから、金米糖こんぺいたうを褒美に呉れるから叩けとか、按摩賃を五厘づゝ遣るから頼むとか言ひました。
『享保、元祿……』
 私達は父の肩につかまつて、御經でもあげるやうに暗誦しました。
 何ぞといふと父が私達に話して聞かせることは、人倫五常の道でした。私は子供心にも父を敬ひ、畏れました。しかし父の側に居ることは窮屈で堪りませんでした。それに父が持病のかんでも起る時には、夜眠られないと言つて、紙を展げて、遲くまで獨りで物を書きました。その蝋燭を持たせられるのが私でしたが、私は唯眠くて成りませんでした。
 斯うした嚴格な父の書院を離れて、仲の間の方へ行きますと、そこには母や嫂が針仕事をひろげて居ります。私は武者繪の敷寫しなどをして、勝手に時を送りました。母達の側には別に小机が置いてあつて、隣の家の娘がそこで手習ひをしました。おぶんさんと言つて、私と同年で、父から讀書よみかきを受ける爲に毎日通つて來たのです。父を『お師匠樣』と呼んだのは斯のばかりでなく、村中の重立つた家の子はあらかた父の弟子でした。中には隣村から通つて來るものも有りました。
 私は今、町の湯から歸つて、斯の手紙のつゞきを貴女に書いて居ります。八歳やつつばかりに成る近所の女の兒が二人來て、軍艦や電車の形を餘念なく描いて居る私の子供の側で、『あねさま』などを出して遊んで居ります。そのさまを眺めると、私が隣の家の娘と遊んだのは丁度そんな幼少をさない年頃であつたことを思出します。
 お文さんのところは極く懇意で、私の家とは互に近く往來ゆきゝしました。風呂でも立つと言へば、互に提灯つけて通ふほどの間柄でした。相接した裏木戸傳ひに、隣の裏庭へ出ると、そこは暗い酒藏の前で、大きな造酒の樽の陰には男達が出入して働いて居たものです。新酒の造られる頃、私は銀さんと一緒によく重箱を持つて、『ウムシ』を分けて貰ひに通ひました。この隣の『ウムシ』、それから吾家で太助が造る燒米などは、私が少年の頃の好物でした。私は又お文さんと一緒に、庭の美濃柿の熟したのを母から分けて貰ひ、それに麥香煎むぎこがしを添へ、玄關のところに腰掛けて食ふのを樂みとしました。
 貴女は『オバコ』といふ草などを採つて遊んだことが有りますか。お文さんはあの葉の纖維に糸を通して、機を織る子供らしい眞似をしたものです。私が裏の稻荷側いなりわき巴旦杏はたんきやうの樹などに上つて居ると、お文さんはその下へ來てあの葉を探しに草叢の間を歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りました。斑鳩いかるが來て鋭い聲で鳴いた竹藪の横は、私達がよく遊び※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つた場所です。そこでえのきの實を集めるばかりでなく、時には橿鳥かしどりの落して行つた青いの入つた羽を拾ひました。
 私が祖母と二人で毎晩泊りに行く隱居所に對ひ合つて、土藏がありました。暗い金網戸の閉つた石段の上は、母が器物うつはものを取出しに行つて、錠前をガチヤ/\言はせたところです。私は母に連れられて、土藏の二階に昇り、父の藏書を見たこともあります。古い本箱が幾つも/\積み重ねてありました。斯の土藏の下には年をとつた柔和な蛇が住んで居ました。太助などは『ぬし』だと言つて、誰にも手を着けさせずに大事にした置きました。その『主』が頭を出して晝寢をして居る白壁の側、土藏の前にある柿の樹の下あたりは、矢張私達の遊び場所でした。甘い香のする柿の花が咲くから、青いへたの附いたむだな實が落ちるまで、私達少年の心は何を見ても退屈しませんでした。
 お牧は井戸から水を擔いで土藏について石段を上つて來ます。斯の柿の樹のあるところから、更に石段を上つて母屋の勝手口へ行くまでが、彼女の水汲に通ふ路でした。その邊は舊本陣時代の屋敷跡といふことでしたが、私が覺えた頃は既に桑畠で、林檎や桐などが畠の間に植ゑてありました。隣の石垣の上には高い壁が日に映つて見えました。それがお文さんの家でした。
 私達が子供の時分には、妙に暗い世界が横たはつて居りました。多勢村のものが寄集まつて一人の眼隱した男を取圍とりまいて居る光景ありさまを一寸想像して見て下さい。激昂した衆人の祈祷の中で、その男の手にした幣帛ぬさが次第に震へて來ることを想像して見て下さい。其時は早やある狐の乘移つたといふ時で、非常に權威ありげな聲で、神の御告といふものを傳へます。どうかすると斯の狐の乘移つた人は遠い森を指して飛び走つて行くことも有りました。私は又、村の小學校で、狐がついたといふ生徒の一人を目撃しました。その少年は顏色も變り手足を震はして居ました……
 斯ういふ不思議なことが別に怪まれずにあるやうな、迷信の深い空氣の中で、私は子供の時を送つたのです。何等かの自然の現象で一寸解釋のつきかねるやうなことは、知らない生物いきものの世界の方へそれを押しつけてありました。山には狼の話が殘り、畠にはむじなや狸が顯はれ、暗くなれば夜鷹だの狐だのの鳴聲のするのが私の故郷でした。それほど私達の幼少をさない時の生活は禽獸とりけものの世界と接近したものでした。蜂の種類も多くありました。殊に地蜂と言つて、五層も六層も土の中に巣を造るのは、土地で賞美される食料の一つでした。兄達は蛙を捉へて來て、その皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、地蜂の親の餌を探しに來るのを待受けたものです。蛙の肉に附けて置いた紙のきれで、それをくはへて飛んで行く蜂の行方を眺めると、巣の在所ありかが知れました。小鳥の種類の豐富なことも故郷の山林の特色です。もちや網で捕れるつぐみひはの類はおびたゞしい數でした。雀などは小鳥の部にも數へられないほどです。子供ですら馬の尻尾の毛で雀のわなを造ることを知つて居ました。

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