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千曲川のスケッチ(ちくまがわのスケッチ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 8:57:14  点击:  切换到繁體中文


     学生の死

 私達の学校の生徒でOという青年がくなった。かつて私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
 Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居すまいだ。M君が小諸に足をとどめたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家ふるやだ。
 細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
 葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇やそ信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹ぼたんの造花を載せ、棺の前で讃美歌さんびかが信徒側の人々によって歌われた。祈祷きとう、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多コリンタ後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
 士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸いがいが埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立たたずんだりして、この光景ありさまを眺めていた。

     暖い雨

 二月に入って暖い雨が来た。
 灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、にわかに復活いきかえるような温暖あたたかさを感じた。こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達はたとえようの無い烈しい春の饑渇きかついやすことが出来ない。
 空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。単調な軒の玉水の音も楽しい。
 堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。私は言い難き快感を覚えた。庭に行って見ると、よごれた雪の上に降りそそぐ音がする。屋外そとへ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土があらわれている。田畠もようやく冬の眠から覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、すもも、その他眼にある木立の幹も枝も、皆な雨に濡れて、黒々ときたな寝恍顔ねぼけがおをしていない物は無い。
 流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。この泥濘ぬかるみ雪解ゆきげと冬の瓦解がかいの中で、うれしいものは少し延びた柳の枝だ。その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
 夜に入って、さびしく暖い雨垂の音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。

     北山のおおかみ、その他

 生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。ある生徒が北山の狼の話を私にした。その足跡は里犬よりも大きく、くそは毛と骨で――雨晒あまざらしになったのを農夫が熱の薬に用いる。それは兎や鳥なぞを捕えて食うためだという。お伽話とぎばなしの世界というものはこうした一寸した話のはしにも表れているような気がする。
 野蛮な話を聞くこともある。ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。雄鶏おんどり牝鶏めんどりと遊ぶところへ、釣針つりばりをくれ、鳥の咽喉のどに引掛けて釣取るという。犬を盗むものもある。それは黒砂糖でよその家の犬を呼び出し、殺して煮て食い、皮は張付けて敷物に造るとか。
 土地の話のついでだ。この辺の神棚には大きな目無し達磨だるまの飾ってあるのをよく見掛ける。上田の八日堂ようかどうと言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。丁度東京のとりいちにぎわいだ。願い事がかなえば、その達磨に眼を入れて納める。私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を送ったことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
 ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。その日はまゆの形を米の粉で造り、笹の葉に載せて祭るのだ。
 二月八日の道祖神どうそじんの祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。土地の人はなまって「どうろく神」と呼んでいる。あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さなほこらのところへわらの馬にもちを載せていて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。幼いもののたのしみとする日だ。

     御辞儀

 私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起ひきおこしたことを、後で私は理学士から聞いた。一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山もりやまあたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体躯たいくを具えた、何か為ずにはいられないような人だ。こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫とばしりが医者仲間なぞにまで飛んで行く。細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
 ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成をて取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。急に医者仲間も坐り直した。何事なんにも知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
 その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。

     春の先駆せんく

 一雨ごとに温暖あたたかさを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅のつぼみも次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔あおごけも急にき返る。心地ここちの好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、かすかな風に送られる。
 私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くにしたがってきえて行く。するとた、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな乳青にゅうせいの色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。

     星

 月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。

     第一の花

「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息ためいきが出る。五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいるかしわ、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木しゃくなぎ、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
 私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅いつやを持って来た。家へ帰って庭を眺めると、土塀どべいに映る林檎りんごや柿の樹影こかげは何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端のきばに群を成す。私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆あずき草、よもぎへびぐさ、人参にんじん草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」の花と、紫ののある名も知らない草の小さな花とを見つけた。それがこの山の上で見つけた第一の花だ。

     山上の春

 貯えた野菜は尽き、ねぎ馬鈴薯じゃがいもの類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々若布わかめ味噌汁みそしるでも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁をう青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物たべものの乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐しみどうふかと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅くさもちはいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
 三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠うすいとうげを一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野むさしの名残なごりを汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よくえ出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉ふるはと青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
 四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界をほしいままに楽むことが出来る。それまでこらえていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜からすももあんず茱萸ぐみなどの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ちあふれていないところは無い。懐古園の城址しろあとへでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……

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