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狼の怪(おおかみのかい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-25 8:46:06  点击:  切换到繁體中文

日が暮れてきた。深い山の中には谷川が流れ、絶壁が聳え立っていて、昼間でさえ脚下に危険のおおい処であるから、夜になっては降りることができない、豪胆な少年も当惑して、時刻に注意しなかったことを後悔した。彼はしかたなしに大きな岩の下へ往って、手にしていた弓を立てかけ、二疋の兎を入れている袋といっしょに矢筒も解いてもたせかけた。
 右手にあたって遠山が鋸の歯のように尖んがった処に、黄いろな一抹の横雲が夕映の名残りを染めて見えていた。しょうはぼんやりした眼で、その横雲の方を見ながら、糧食べんとうの残りの餅をっていた。下の方の谷では、水の音とも風の音ともわからない、ざ、ざ、という音がしていた。彼は襟元に寒さを感じた。
 もう四辺あたりは真暗になってきた。遠くの方で獣の吼える声が物凄く聞えてきた。深い高い空には星が光って見えた。章は星の光を透して見ながら、もう月が登りそうなものだと思った。獣の吠える声がますます凄く聞えた。章は渇きを覚えたので、水を飲もうと思って岩の後ろへ廻り、そこへ来た時にちらと見てあった、岩の裂目さけめからしたたり落ちている水をに掬うて飲んだ。そして、思うさまに飲んで元の処へ帰ったところで、うっすらとした光が見えた。谷を越えた左手の峰の林の間に、赤い月が登りかけているところであった。
 引き緊っていた章の心に、ややゆとりが出来た。彼は岩に凭れて長ながと両足を投げだしたが、昼の疲れが返ってきて、足の裏や膝こぶしに軽い痛みを覚えてきた。
 円い大きな月が団扇うちわのように木の枝にかかって見えた。章はいつの間にか睡くなったのて[#「なったのて」はママ]、体を横倒しにして、矢筒を引き寄せ、それを枕にして寝てしまった。心よい重おもしい睡が続いてやってきた。そうして前後を忘れて睡っていた章は、何物かに咽喉元を嘗められたような気がするので、手をやって払いけようとしたが、そのひょうしに手のさきに生物の温味あたたかみを感じたので、力を入れて握り締めた。と、同時に女の叫ぶような不思議な声が聞えた。
 夢現ゆめうつつの境にいた章の眼は覚めてしまった。青い衣服きものを着た小柄な女が、自個じぶんに片手を掴まれて傍にたおれていた。
ゆるしてください、赦してください」
 女は泣声を立てた。章は手に力を入れることを止めて、俯伏しになっている女の顔を見た。若い長手ながてな顔をした女であった。
「赦してください、悪うございました」
 章はこうした山の中へ若い女のくるのを不思議に思わぬでもなかったが、別に敵意のない弱い女ということを見極めたので、掴んでいた手を放した。
「あなたは、どうした方です」
 女はそこへしゃがんでしまった。
「この、すぐ、前方むこうの谷陰にいる者でございます」
「では、ここへ、何しにきました」
「月が綺麗なものでございますから、つい、ふらふらと歩いてきました」
 章は咽喉元を嘗められたような気のしたのをおもいだした。
「私は、貴女の手を、どうした拍子に掴んだのか判らないが、なんだか夢心地に、咽喉元を嘗められたように思います、私の咽喉をどうかしたのですか」
 黒い水みずした眼があった。
「どうも悪うございました、つい悪戯いたずらをいたしました」
 章は無邪気な女を苦しめては可哀想だと思いだした。
「そうですか、私は、また、獣か何かが来て、嘗めたかと思いました、不意に手を掴んだので、びっくりしたのでしょう」
 女の笑声がそこに起った。
「皆さんが心配してるかもわかりません、送ってあげましょう」
「有難うございます」と言ったが、女はもじもじしてちあがらない。
「送ってあげましょう、私も猟にきて帰れないので、しかたなしにここに寝ておりますものの、ゆっくり睡れないのですから、貴女の家ののきの下でも拝借しましょう」
「では、お願いいたします」
 章は立ちあがって猟袋を背にかけはじめた。
「まあ、こんな処に、何をしていらっしゃるのです」と不意に女の声がした。
 章は矢筒を持ったなりに振り返った。二十七八に見える背の高い女が来て立っていた。
「ここでこの方にお目にかかってね」若い女は急に笑いだして、そして言った。「それでね」
「お目にかかってどうしました、また何か、悪戯いたずらをなされたではありませんか」
 若い女は笑って何も言わない。
「何かまたきっと悪戯をなされたでしょう」
「ほんとうは悪戯したのよ、この方が睡っていらっしゃるから、咽喉の辺をさすったのよ」
 若い女はまた笑いだした。
「そうでございましょう、ほんとに貴女は、悪戯ばかしして困りますよ」
 背の高い女はこう言って章の方を向いて、
「お嬢さんは、まだねんねえでございますから、ほんとうにすみません」
「いや、どういたしまして、私は獣でも来て嘗めたと思いましたから、払い除ける拍子に、何か手端てさきに触りましたから、一生懸命に掴んで見ますと、それがお嬢さんの手でした、私こそ寝ぼけてて、お嬢さんをひどい目に遭わして、お気の毒ですよ」
 章は若い女の方を見て笑った。
「どういたしまして、ほんとにお嬢さんは、ねんねえで困ります」
 背の高い女は若い女の方を見た。
「これがいい方だからかまわないようなものの、他の方であったら、どんな目に遭わされるかも判りませんよ、もうこれにりて、こんなことをなされてはいけませんよ」
 若い女はまたしても笑いだした。
「でね、この方が、送ってくださると言ってらしたところよ」
「それは、どうもすみません」
 背の高い女はこう言ってから、
「お嬢さんは、私がもうお伴れいたしますが、貴方様は、これからどうなされます、もし、おかまいがないなら、私の方へお泊りなされては如何でございます」
「いや、それは、今もお嬢さんにお願いしてたところです、私はこの下の村の猟師ですが、獣を追駈けてるうちに、日が暮れてしまって、しかたなしに寝てた者ですから、お嬢さんをお送りして、のきの下でも拝借しようと思っておりました」
「それでは、どうぞ、何もおかまいいたしませんが、私の方はお嬢さんと二人きりで他に何人だれもおりませんから」

 三人は小さな山のうねりを東の方へ越していた。背の高い女は、若い女の乳母であった。章はこうして山の中に、二人の女が暮しているのが不思議でたまらなかった。
 畝りを越えて降りて往くと、谷の窪地になって一軒の家が月の下にすぐ見えてきた。門の前には谷水が白く流れて、それに石橋が架けてあった。乳母はその石橋をさきへ渡って家の中へ入って往った。
 錦のとばりの見えるへやの中に燈火あかりいていた。章はその室へ通されて一人で坐っていた。乳母と女が入ってきた。二人の手には肉を盛った鉢があった。
「何もありませんが、おあがりになってくださいまし、お嬢さんも私もお相伴しょうばんいたします」
 章はお辞儀をした。乳母は一人でまた出て往って料理をたべる器を持ってきた。そして三人で卓に向った。
「さあ、何もございませんが」
 乳母は章の盃に酒を充した。
「お嬢さんも、自個じぶんでおあがりなさいまし」
 女は無邪気に鉢の肉を取っていはじめた。章はその無邪気なさまを見ないようにして見ていた。乳母も二人が食事をはじめたのを見ると、自個でも肉に手をつけた。
 章はまた乳母の方へ眼をやった。女が無邪気であるように乳母も無邪気であった。とてもこんなことは村の女の間では見られないと思った。
「さあ、どうぞ、おあがりくださいまし、私達も遠慮なしにいただいております」
 乳母は時どきこんなことを言った。
 章はさっきから無邪気な女の口もとを見ていた。女は食物に気をとられていて章のそうしている容が判らないようなふうであった。
「お嬢さん、お客さんにも、お愛想あいそをなさるものですよ」
 乳母はこう言って注意すると、女は気がいたように章の方を見て、顔を赤くして箸を置いた。
「お嬢さんはほんとにねんねえでございますからね、でも考えてみますと、お嬢さんはお気の毒でございますよ、旦那様は立派な方でございましたが、都合があってお嬢さんが生れたばかりの時、この山へお入りになりましたが、間もなく旦那様も奥様もお嬢様を残して、お歿くなりになりましたから、私がこうして一人でお世話をしております」
 乳母はしんみりとした態度になって言いはじめた。
「お嬢さんは、もう十七でございますから、よい処がございますなら、かたづけたいと思います、そうなれば、私の重荷もおりますが、女の手では、思うようにならないで困っております、ほんとにそういう場合には、何人かしっかりした男のお友達が欲しいと思います」
 章は乳母が永い間の労苦に同情の眼を向けた。若い彼は酒のために非常に感情的になっていた。
「そうですか、それはたいへんでしたね」
「なに、私もおよばずながら、旦那様と奥様に、御恩報じをいたしたいと思うてやっておることでございますから、苦しいとも何とも思いませんが、時たま、女ばかしでは困るので、貴方のような、若いしっかりしたお友達があるならいいがと、思うことがあります、どうかこれを御縁に、これからお友達になってくださいまし」
「私でかまわなければ、これからどんなことでもいたしましょう」
 章は親もない兄弟もない、独身の貧しい猟師であった。
「私は、親もない兄弟もない、独身者の自由な体だ」
「では、どこにいらしてもかまわないのですね」
「そうですとも、どこにおってもかまわないのです」
「では、私達といっしょにいらしてくださいませんか」
「いいですとも」

 章は女の家に同居することにして室をもらった。朝の食事にも女も乳母も宵のように無邪気であった。章は女のそうした容にあきたりないところがあった。
 食事がすむと章は弓を手にして出かけて往った。そして、夕方になると獲た鳥や獣を持って帰ってきた。
 焚火の傍で三人の食事で行われた。女と乳母は相変らず無邪気に物をった。
 章が気をつけてみると、女と乳母は昼間はどこかへ出かけて往った。章はある時、それを乳母に訊いた。
「毎日どこかへ出かけて往くようですが、どこへ往くのです」
 乳母は章の顔を見て、その眼の色を読むようにした。
「別にどこへも往くのじゃありませんが、ただぶらぶらと二人で往ってくるのですよ」
 章はただ目的もないのに毎日出て往くというのが不思議に思われた。それに自個じぶんのとってこない鳥獣の肉がたくさんあることがあるので、ついすると、二人で猟にでも往くのではないかと思ったが、べつに弓矢らしい物を構えているようにも思われなかった。章はある日、またその不審をただそうとした。
「どこかへ往ってるでしょう、隠さなくてもいいじゃありませんか」
「ほんとうは、この前方むこうの山に、お嬢さんの叔母さんになる方が隠れておりますから、そこへ遊びに往きます」
 章の疑はやっと解けた。疑が解けるとともに、むこうの山へ往き来する路に、いつも狼の出没する危険を思いだした。
彼処あそこには、狼がおるじゃありませんか、あぶないですよ、今度往く時には、私が送ってあげましょう」
「いや、二人は慣れておりますから大丈夫ですよ、狼が来ても巧く逃げますから」
「いや、それはあぶない、いくら慣れておっても、女ではいつどんな目に遭うか判りません」
 章は自個の経験している狼の恐ろしいことを懇々と説き聞かせた。しかし、二人はそれを用いなかった。章が狩に出かけて往くと、その後でやはり二人で出かけて往った。
 章は二人が自分の言葉を用いないので、それを言うことは止してしまって、その狼を自分の手でなくする工夫をした。彼はある日、狩の帰りに射殺した鹿をずたずたに切って、その肉へ矢に付ける毒を塗り、二人の女が往来する路へ置いた。
 翌日になって平生いつものように猟に出て往った章は、昨日の鹿の肉のことを思いだしたので、帰りにその方へ廻ってみようと思ったが、その日は後ろの山へ入っていたので廻らずに帰ってきた。
 家へ入ってみると家には何人もいない。時どき叔母の処へ往って遅くなることがあるので、今日もそれだと思って待っていたが、二人は夜になっても帰ってこなかった。
 章はしかたなしに一人で食事をすまして、もしか、もしかと思って、睡らずに待ったが、朝になっても帰ってこなかった。今までこんなことはなかったが、何か叔母の処に変ったことでもあって帰らないだろうかと思った。章は朝食をすますと、往くともなしに前方むこうの山の方へ谷をくだって往った。
 谷の中の岩の並んだ処へ来た。そこは毒を塗った鹿の肉をたくさん置いた処であった。章はふとその岩の間へ眼をやった。見覚えのある着物を着た二人の姿が横たわっていた。章は驚いて飛んで往った。それは着物を着た二疋の狼であった。





底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
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