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映画時代(えいがじだい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-2 9:38:35  点击:  切换到繁體中文

幼少のころ、高知こうちの城下から東に五六里離れた親類の何かの饗宴きょうえん[#「饗宴」は底本では「餐宴」]に招かれ、泊まりがけの訪問に出かけたことが幾度かある。饗宴の興を添えるために来客のだれかれがいろいろの芸尽くしをやった中に、最もわれわれ子供らの興味を引いたものは、ある大工さんのおはこの影絵の踊りであった。それは、わずかに数本のはしと手ぬぐいとだけで作った屈伸自在な人形に杯のかさを着せたものの影法師を障子の平面に踊らせるだけのものであった。そのころの田舎いなかの饗宴の照明と言えば、大きなろうそくを燃やした昔ながらの燭台しょくだいであった。しかしあのろうそくの炎の不定なゆらぎはあらゆるものの陰影に生きた脈動を与えるので、このグロテスクな影人形の舞踊にはいっそう幻想的な雰囲気ふんいきが付きまとっていて、幼いわれわれのファンタジーを一種不思議な世界へ誘うのであった。
 ジャヴァの影人形の実演はまだ見たことがないが、その効果にはおのずからこの田舎大工の原始的な影人形のそれと似通にかよった点がありそうに思われる。踊る影絵はそれ自身が目的ではなくて、それによって暗示される幻想の世界への案内者をつとめるのであろう。
 それはとにかく、もし現代の活動映画が「影の散文か散文詩」であるとすれば、こういう影人形はたとえば「影の俳句」のようなものではあるまいか。
 幻燈というものが始めて高知のある劇場で公開されたのはたぶん自分らの小学時代であったかと思う。箸と手ぬぐいの人形の影法師から幻燈映画へはあまりに大きな飛躍であった。見て来た人の説明を聞いても、自分の目で見るまでは、色彩のある絵画を映し出す影絵の存在を信ずる事ができなかった。そして始めて見た時の強い印象はかなり強烈なものであった。ホワイトナイルの岸べに生まれたある黒んぼ少年の数奇な冒険生涯ぼうけんしょうがいを物語る続きものの映画を中学校の某先生が黄色い声で説明したものである。それからずっと後の事ではあるが日清戦争にっしんせんそう時代にもしばしば「幻燈会」なるものが劇場で開かれて見に行った。県出身の若き将校らの悲壮な戦死を描いた平凡な石版画の写真でも中学生のわれわれの柔らかい頭を刺激し興奮させるには充分であった。そしてそれらの勇士を弔う唱歌の女学校生徒の合唱などがいっそう若い頭を感傷的にしたものである。一つは観客席が暗がりであるための効果もあったのである。同じ効果は活動写真の場合においても考慮に加えらるべきであろう。
 くに故人となったおいりょうが手製の原始的な幻燈を「発明」したのは明らかにこれらの刺激の結果であったと思われる。その「器械」は実に原始的なものであった。本箱の上にくぎを二本立ててその間にわずかに三寸四角ぐらいの紙を張ったのがスクリーンである。ほぼこれと同大のガラス板に墨と赤および緑のインキでいいかげんな絵を描いたのをこの小さなスクリーンの直接の背後へくっつけて立てて、その後ろに石油ランプを置くだけである。もっともそのスクリーンの周囲の同平面をふろしきやボール紙でともかくもふさいでしまって楽屋と見物席とを仕切るほうがなかなかの仕事ではあった。観客は亮の兄弟と自分らを合わせて四五人ぐらいはあったが、映画技師、説明者が同時に映画製造者を兼ねるのみならず、肝心のガラス板がやっと二枚ぐらいしか掛け替えがないのだから亮の骨折りは一通りでなかったろうと思われる。後には自分の父に頼んでもう少し大きい板ガラスを、ちゃんとした木箱の前面のみぞにさし入れさしかえるようにしたものを大工に作らせ、映画も十枚か二十枚あらかじめ仕入れておいて、そうしてわれわれのほかに近所じゅうの少年をかり集めてやるようになった。映画のほかに余興とあってまね事のような化学的の手品、すなわち無色の液体を交ぜると赤くなったり黄色くなったりするのを懇意な医者に準備してもらった。それはまずいいとしても、明治十年ごろに姉が東京の桜井学校さくらいがっこうで教わった英語の唱歌と称するものを合唱したりしたのは実に妙であった。その文句は今でも覚えているがその意味に至っては今にわからない。思い出しても冷や汗が流れる。しかしとにかくこんな西洋くさい遊戯が明治二十年代の土佐とさ田舎いなかの子供の間に行なわれていたということは郷土文化史的にも多少の意味があるかもしれない。それよりも自分の生涯しょうがいの上にはこんな事件が思いのほかに大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
 その後おもちゃ屋で虫めがねのレンズを買って来て、正式の幻燈器械を作ろうとしたが失敗した。今考えてみると光学上の初歩の知識さえ皆無であり、それに使ったレンズがきわめて粗悪なものであるのみならず、焦点距離が長いのに、原画をあまり近く置きすぎたために鮮明な映像を得られなかったのは当然である。それでもこの失敗した試みが自分の理学的知識欲を刺激する効果のあっただけは確かである。南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧もうろうたる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手へたな鳥の絵のぼやけた映像を今でも思い出すことができる。その鳥はさかさまになって飛んでいたのである。
 明治二十三年であったか、父が東京の博覧会見物に行ったみやげにほんとうの幻燈器械と数十の映画を買って帰ったので、長い間の希望はついに実現されたわけであるが、妙なことにこの遂げられた希望の満足に関する記憶の濃度のほうが、かの失敗した試みに伴のうた強烈なる法悦の記憶に比べてかえって希薄である。
 その時の映画の種板はたいてい一枚一枚に長方形の桐製きりせいのわくがついていて、映画の種類は東京名所や日本三景などの彩色写真、それから歴史や物語からの抜萃ばっすいの類であった。そのほかに活動映画の先祖とも言われるべき道化人形の踊る絵があった。目をあいたり閉じたり、舌を出したり引っ込ませたりするような簡単な動作を単調に繰り返すだけである。また美しい五彩の花形模様のぐるぐる回りながら変化するものもあった。こんな幼稚なものでも当時の子供に与えた驚異の感じは、おそらくはラジオやトーキーが現代の少年に与えるものよりもあるいはむしろ数等大きかったであろう。一から見た十は十倍であるが、百から見た同じ十はわずかに十分の一だからである。今の子供はあまりに新しい驚異に対して麻痺まひさせられているような気がある。
 活動写真を始めて見たのはたぶん明治三十年代であったかと思う。夏休みに帰省中、鏡川原かがみがわらの納涼場で、見すぼらしい蓆囲むしろがこいの小屋掛けの中でであった。おりから驟雨しゅううのあとで場内の片すみには川水がピタピタあふれ込んでいた。映画はあひる泥坊どろぼうを追っかけるといったようなたわいないものであったが、これも「見るまでは信じられなくて、見れば驚くと同時に、やがては当然になる」種類の経験であった。ともかくも、始めて幻燈を見たときほどには驚かなかったようである。
 明治四十一年から三年までの滞欧中には、だれもと同様によく活動を見たものである。当時ベルリンではこれを俗にキーントップと言っていた。常設館はいくつもあったがみんな小さなものでわずかの観客しかれなかったように覚えている。邦楽座ほうがくざ武蔵野館むさしのかんのようなものはどこにもなかったようである。各地に旅行中の夜のわびしさをまぎらせるにはやはりいちばん活動が軽便であった、ブリュッセルの停車場近くで見た外科手術の映画で脳貧血を起こしかけたこともあった。それは象のように膨大した片腕を根元から切り落とすのであった。
 帰朝後ただ一度浅草あさくさで剣劇映画を見た。そうして始めていわゆる活弁なるものを聞いて非常に驚いて閉口してしまって以来それきりに活動映画と自分とはひとまず完全に縁が切れてしまった。今でも自分には活弁の存在理由がどうしても明らかでないのである。
 自分が活動写真の存在を忘れているうちに、活動のほうでは、そういう自分の存在などは問題にしないで悠々ゆうゆうと日本全国を征服していた。長男が中学へ入学したときに父兄として呼び出されて行った。その時に控え室となっていた教場の机の上にナイフでたんねんに刻んだいろいろのらく書きを見ていたら、その中に稚拙な西洋婦人の立ち姿の周囲にリリアン・ギッシュ、メリー・ピクフォードなどという名前が彫り込んであった。自分の中学時代のいたずらを思い出すと同時に、ひどく時代におくれたものだという気がした。
 荒物屋駄菓子屋だがしやの店先に客引きの意味でかかっている写真の顔が新聞やビラの広告に頻繁ひんぱんに現われる。聞いてみるとそれがみんな活動俳優のいわゆるスターだそうである。幕末勇士などにふんした男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものであるが、それが特別に民衆に受けると見えてそれらの網目版が至るところの店先で自分をにらみつけ、脅かし圧迫した。
 長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の上におりおり投射されるようになったのがつい近ごろのことである。飛行機から爆弾を投下する光景や繋留けいりゅう気球が燃え落ちる場面があるというので自分の目下の研究の参考までにと見に行ったのが「ウィング」であった。それから後、象の大群が見られるというので「チャング」を見、アフリカの大自然があるというので「ザンバ」を見た。そのうちにトーキーが始まるというので後学のために出かける。そうしているうちにいつのまにか一通りの新米しんまいファンになりおおせたようである。
 いちばんおもしろいものは実写ものである。こしらえたものにはやはりどこかに充実しない物足りなさがありごまかしきれない空虚がある。そういう意味でニュース映画は自分にとって最もおもしろいものの一つである。たとえばマクドナルドとかフーヴァーとかいう人間が現われて短い挨拶あいさつをする。その短い場面でわれわれは彼らがいかにして、またいかに、英国労働内閣首相であり、北米合衆国大統領であるかを読み取ることができるような気がするのである。世界じゅうの重要不重要な出来事を短い時間に瞥見べっけんすることによって世界が恐ろしく狭い空間に凝縮されて来る。そうして人類文化の進歩の急速な足音を聞いているような気もする。
「ザンバ」のごとき自然描写を主題にしたものでも、おそらく映画製作者の意識には上らなかったような些事さじで、かえって最も強くわれわれの心を引くものが少なくない。たとえば獅子ししやジラフやゼブラそのものの生活姿態のおもしろいことはもちろんであるが、その周囲の環境ならびにその環境との関係が意外な新しい知識と興味を呼び起こす場合がはなはだ多い。たとえばライオンと風になびく草原との取り合わせなどがそうである。このいかにも水に渇したように風にそよぐ草によって始めてほんとうに生きたアフリカのライオンが眼前に現われる。ジラフの奇妙な足取りはそれ自身にもおもしろいが、その背景の珍しい矮樹林わいじゅりんによって始めてこの動物の全生命が見られる。驚いて川に飛び込むわには、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気せいきを添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが、通例のフィルムではこれが惜しいように節約されている。そのためにせっかくのありがたい体験がややもすれば概念化される恐れがある。
 フーヴァーの演説にしてもそうである。当人の顔だけ写ってしゃべるのよりも、たとえば仮り小屋の壇上に立っておおぜいの老幼男女に囲まれているほうがいかにもアメリカの大統領になっている。周囲のアメリカン・シチズンスの不用意な表情姿態の上に反映したフーヴァーのほうがはるかに多くフーヴァーその人を物語るのである。半分はフーヴァーを写し半分は聴衆のほうにカメラを向けたのをったほうが有効である。
 こういう現実味からいうと演劇フィルムは多くははなはだ空疎なものである。プロットにないよけいなものはちり一筋も写さないというのが立て前であるらしい。これは劇の性質上当然のことかもしれないが、舞台で行なわるる演劇とフィルム劇とは必ずしも同じでない以上、フィルムにして始めて生ずる可能性を活用するためには、もう少し天然の偶然的なプロットを巧みに生かして取り入れて、それによって必然的な効果をあげたらよくはないか。
 有名な映画「ベルリーン」のごときはかなりにこの意味の天然を生かしてはいる。早暁の町のアスファルトの上を風に吹かれて行く新聞紙や、スプレー川の濁水に流れる渦紋かもんなどはその一例である。これらの自然の風物には人間の言葉では説明しきれない、そうして映画によってのみ現わしうるある物があるのである。「銀嶺」のごときは元来実写を主題にしたものであろうが、軒のつららのものういしずく悠久ゆうきゅうの悲しみを物語らせ、なべの中に溶け行く雪塊に運命の不思議を歌わせ、氷河の上に映る飛行機の影に山の高さを示揚させたりするのも他の例である。しかし写実を目的としない劇的映画にも、もう少し自在に天然を取り入れることはできないか。おそらくこれはいくらでもできる可能性があるのであろう。なんの映画であったか忘れたが東洋物の場面の間に、毒蛇どくじゃとマングースとの命がけの争闘を写したものをはさんだのがあった。それはあまりたいした成効とは思われなかったが、しかしともかくも人間のドラマのシーンの中間に天然のドラマの短いシーンをはさんで効果を添えるということは、従来よりももっともっと自由に使用してよいわけである。
 これに対する有益なヒントはたとえば俳諧はいかい連句れんくの研究によっても得られる。連句における天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移の間に、われわれはそれらのシーンの底に流れるある力強い運動を感じる。たとえば「猿蓑さるみの」の一巻をとって読んでみても

とびの羽もかいつくろいぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しずまる
股引ももひきの朝からぬるる川こえて
 たぬきをおどす篠張しのはりの弓

のような各場面から始まって

うき人を枳殻籬きこくがきよりくぐらせん
 今や別れの刀さし出す
せわしげにくしかしらをかきちらし
 おもい切ったる死にぐるい見よ

の次に去来きょらいの傑作

青天に有明月ありあけづきの朝ぼらけ


が来る。ここに来ると自分はどういうものかきっと、ドストエフスキーの「イディオット」の死刑場へ引かれる途上の光景を思い出すのである。これらのシーンの推移のテンポは緩急自在で、実に目にも止まらぬような機微なものがある。試みにこの一巻を取ってこれを如実に表現すべき映画を作ることができたとしたら、かの「ベルリーン」のごときものは実に幼稚な子供の片言に過ぎないものになるであろう。
 しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石そうせき虚子きょしによって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。
 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかという気がする。
 連句には普通の言葉で言い現わせるような筋は通っていないが、音楽的にちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然こんぜんたる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれる人はないものかと思うのである。
 パラマウント・ニュースのようなものの組み合わせは場合によっては、偶然ではあるが、前述の連句的の効果を持ちうる。近ごろ朝日グラフで、街頭のスケッチを組み合わせたページが出るが、ああいうものを巧みに取り合わせて「連句」にすることもできる。
 器械の活動美を取り入れたフィルムもあるが、やはりこしらえものは実に空疎でおもしろくない。たとえば「メトロポリス」に現われる器械などは幼稚で愚鈍で、無意味というよりは不愉快である。これに反して平凡な工場のリアルな器械の映画には実物を見るとはまたちがった深い味がある。見なれた平凡な器械でも適当に映出されるとそれが別な存在として現われ、実物では見のがしている内容が目に飛び込んで来るのである。
 実物と同じに見せるということは絵画の目的でないと同様に映画の目的でもない。実物を見たのでは到底発見することのできないものを発見させるところに映画の特長があるのではないか。たとえばわれわれが自身でライオン狩りの現場に臨んだとしたら、どうして草原のそよぎなどを味わうことができるであろうか。殺されて行く獅子ししを哀れむ心を生じるだけの余裕があるであろうか。「なんの権利があって人間はこの自由な野の住民を殺戮さつりくするだろう」たとえばそんな疑いを起こすだけの離れた立場に身を置きうるであろうか。

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