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重兵衛さんの一家(じゅうべえさんのいっか)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 8:49:36  点击:  切换到繁體中文


 こういう、学校では教わらない悪戯教育も、今から考えてみると自分には色々な意味で有益であり貴重なものであったように思われる。人生行路に横たわる幾多の陥穽に対する警戒の芽生えを植付けてくれたような気がする。他人の軽微な苦痛をおのが享楽の小杯に盛ろうとする不思議な心理がいかなる善良な人々の心の奧にも潜在することを教えてくれたようである。それから、冒険というものに対する本能的な興味の最初の小さな焔に点火してくれたとも考えられる。
 この頃活動写真で色々な空中戦の壮烈な光景を見せられる。空の勇士、りぬきのエースが手馴れの爆撃機を駆って敵地に向かうときの心持には、どこかしら、亀さんがかましやの隠居いんきょの秘蔵の柿を掠奪に出かけたときの心持の中のある部分に似たものがありはしないか。こんな他愛のないことを考えることもある。それはとにかく、亀さんが鳥人になったらおそらく人並以上のはなわざを演じ得る名操縦士になったことであろう。
 亀さんの妹の丑尾さんとはあまり一緒に遊ぶことがなかったようである。その頃は男の子と女の子が遊んでいると、他の遊び仲間から「おとことおなごとおにやんべ、やんがておややができやんしょ」と云ってはやし立てられるのであった。しかしただ一度ある小春日のわが家の門前で起った些細な出来事だけがはっきり印象に残っている。多分七、八歳くらいの自分と五、六歳くらいの丑尾さんとが門前のたたきの斜面で日向ひなたぼっこをしていた。自分が門柱にもたれてぼんやり前の小川を眺めていたとき丑尾さんが自分の正面に立ってしばらく自分の顔を見詰めていたようであったが、真に突然に、その可愛い両腕を左右にぱっと拡げたと思うといきなり飛びつくようにして、しっかりと自分を抱擁した、そのとき自分がそのままにじっとしていたのか、それとも急いで押しのけたか、それはちっとも記憶していない。ただ覚えているのは、丑尾さんが着古した袖無そでなしのちゃんちゃんを着て、頭をちっちゃなおちごにっていたことと、それから、その日の小春の日影が実にうららかに暖かくのどかであったということだけである。この丑尾さんは、たしか自分の家がその後一時東京に移っていたその二年の間に病死してしまったので、十歳にも満たない本当に果敢はかない存在ではあった。しかし自分の幼年時代の追憶の夢の舞台に登場する唯一の異性のヒロインはこのやや不器量で可哀そうな丑尾さんであったのである。
 重兵衛さんの長男楠次郎さんから自分は英語の手ほどきを教わった。これについては前に書いたことがあるから略する。楠さんは独学で法律を勉強して、後に裁判所の書記に採用された。弟妹とちがって風采もよくてハイカラでまたそれだけにおしゃれでもあった。自宅では勉強が出来ないので円行寺橋えんぎょうじばしたもとにあった老人夫婦の家の静かな座敷を借りて下宿していた。夏のある日の午後、いつものようにそこへ英語を教わりに行った時に、自分には初めての珍しい飲料を飲まされた。コップに一杯の砂糖水をつくって、その上に小さな罎に入った茶褐色の薬液の一滴を垂らすと、それがぱっと拡がって水は乳色に変わった。飲んでみると名状の出来ぬ芳烈な香気が鼻と咽喉のどを通じて全身にみなぎるのであった。何というものかと聞くと、レモンというものだと教えられた。今のレモン・エッセンスであったのである。明治十七、八年頃の片田舎の裁判所の書記生にしては実に驚くべきハイカラであったに相違ないのである。ゲーテのライネケフックスの訳本を読んで聞かせてくれたり、十歳未満の自分にミルの経済論、ルソーの民約論を教授してくれるという予告だけでもしてくれた楠さんは、たしかにその時代の新人であり、少なくも自分にとっては、来るべき「約束の国」の先触れをする天使の役をつとめてくれたように思われる。
 自分の一家がいったん東京へ移ってから再び郷里に帰った頃は重兵衛さんの家はうちのすぐ東隣の邸に移っていた。まもなく重兵衛さんは亡くなってそのうちに息子の楠さんは細君を迎えて新家庭をつくった。新婚後まもないことであったと思う。ある日宅の女中が近所の小母おばさん達二、三人と垣根から隣を透見すきみしながら、何かひそひそ話しては忍び笑いに笑いこけているので、自分も好奇心に駆られてちょっと覗いてみると、隣の裏庭には椅子を持出してそれに楠さんが腰をかけている。その傍に立った丸髷まるまげの新婦が甲斐甲斐かいがいしく襷掛たすきがけをして新郎のためにひげを剃ってやっている光景がちらと眼前に展開した。透見の女性達の眼には、その光景が、何かひどく悪い事でもしている現場を見届けでもしたように、とにかく笑うべく賤しむべきこととして取扱われているらしかった。しかし当時の自分にはその光景がひどく美しく長閑のどかなものに思われ、そうして女中等のそういう態度に対して少なからず不満をいだいたようであった。
 その後重兵衛さんの一家がどうなったか。これに関する自分の記憶は実に綺麗にぬぐわれたように消えてしまっている。ただ、楠さんの細君が亡くなり、次にひどく酒飲みになった楠さんも若死をしたこと、亀さんが医師の家に書生をしていて、後に東京へ出て来てどこかの医者の代診をしているという噂を聞いたように思うだけである。
 幼時を追想する時には必ず想い出す重兵衛さんの一族の人々が、自分の内部生活に及ぼした影響と云ったようなことは、近頃までついぞ一度も考えてみたことはなかったのである。この頃になって、自分に親しかった、そうして自分の生涯に決定的な影響を及ぼしたと考えらるるような旧師や旧友がだんだんに亡くなって行く、その追憶の余勢は自然に昔へ昔へと遡って幼時の環境の中から馴染なじみの顔を物色するようになる。そういう想い出の国の人々は、別にえらい人でもなんでもなかったであろうが、そういう人々から全く無意識の間に受けた教育の効果は、よかれ悪しかれ実に予想外に重大なものであるということが、やっとこの頃になって少しばかり分りかけて来たような気がするのである。
 このなんらの山もない重兵衛さん一家の平凡な追憶記は、子供をもった現代の世間の親達にも、もしや何かの参考になるかもしれないと思うのである。

(昭和八年一月『婦人公論』)

(『蒸発皿』への追記)この記事が縁となって、重兵衛さんの次男の亀さんからの消息に接することが出来た。今日では立派な医師となって大連だいれんの方に住んでいるのである。家族一同の写真を送ってくれたが、四十年前の亀さんの面影が今日でもそっくりそのままに残っているのであった。





底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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