您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 寺田 寅彦 >> 正文

蒸発皿(じょうはつざら)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 8:52:40  点击:  切换到繁體中文

   一 亀井戸まで

 久しぶりで上京した友人と東京会館で晩餐ばんさんをとりながら愉快な一夕を過ごした。向こうの食卓には、どうやら見合いらしい老若男女の一団がいた。きょうは日がよいと見える。近ごろの見合いでは、たいてい婿殿のほうがかえって少しきまりが悪そうで、嫁様のほうが堂々としている。卓上の花瓶かびんに生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。
 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸かめいどへはどう行ったらいいでしょう。……たまという所へ行くのですが」と言う。「それなら、あしこから電車に乗って車掌によく教えてもらったほうがいいでしょう、」というと「いや、歩いて行くのです」とせき込んだ口調で言うのである。「それはたいへんだが、……それならとにかく向こうの濠端ほりばたを右へまっすぐに神田橋かんだばしまで行って、そのへんでまたもう一ぺんよく聞いたほうがいいでしょう」と言って別れた。
 かなり夜風が寒い晩だのに、男は羽織も着ず帽もなしで、いかにも身すぼらしいふうをしていた。三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄あしだをはいている、その足音が人通りのまれな舗道に高く寒そうに響いて行くのであった。
 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。
 女房にでも逃げられた不幸な肺病患者を想像してみた。それが人づてに、その不貞の妻がたまへんにいると聞いて、今それを捜しに出かけるのだと仮定してみる。帽子も羽織も質に入れたくらいなら電車賃がないという事も可能である。あの男の顔つき目つきはこの仮説を支持するに充分なもののように思われた。そうだとすれば実にかわいそうな父子おやこである。円タクでも呼んで乗せて送ってやってもしかるべきであったという気がした。
 しかし、また考えてみると、近ごろ新聞などでよく、電車切符を人からねだっては他の人に売りつける商売があるという記事を見ることがある。この男は別に切符をくれともなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟とっさの場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあの父子の身辺につきまとっていたではないか。
 しかし、また考えてみると、切符をくれと言わずに切符をもらうという巧妙な手段を考えてそれを遂行するとすれば、だれが見てもいかにも切符をやりたくなるというだけの何物かを用意しなければならぬのは明らかなことである。それには寒空に無帽の着流し、足駄ばき、あごの不精ひげに背の子等は必要で有効な道具立てでなければならない。
 そう考えて来ると、第一この男がまるうち仲通なかどおりを歩いていて、しかもそこで亀井戸かめいどへの道を聞くということが少し解しにくいことに思われて来る。こういう男がこの界隈かいわいのビルディング街の住民であろうとは思われない。いずれしば麻布あざぶへんから来たものとすれば、たとえば日比谷ひびやへんで多数の人のいる所で道を聞いてもよさそうなものである。それがこのさびしい夜の仲通りを、しかも東から西へ向かって歩きながら、たまたま出会った自分に亀井戸かめいどへの道を聞くのは少しおかしいようにも思われる。
 そうは言うものの、やはり初めの仮説に基づいてもう一ぺん考え直してみると、異常な興奮に駆られ家を飛び出した男が、夜風に吹かれて少し気が静まると同時に、自分の身すぼらしい風体ふうていに気がついておのずから人目を避けるような心持ちになり、また一方では内心の苦悩の圧迫に追われて自然に暗い静かな所を求めるような心持ちから、平生通ったこともないこの区域に入り込んだと仮定する。見慣れぬビルディング街の夜の催眠術にかかって、いつのまにか方角がわからなくなってしまう、ということは、きわめて有りそうなことである。それが、たださえ暗い胸の闇路やみじを夢のようにたどっている人間だとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことである。それで急に道を失ったと気がついて、はっとした時に、ちょうど来かかった人にいきなり道を聞くのになんの不思議もないことである。
 しかし、こんなことを考えている元のおこりはと言えば、ただかの男が自分に亀井戸への道を聞いたというきわめて簡単なただそれだけの事実に過ぎない。たったそれだけの実証的与件では何事も実証的に推論できるはずはない。小説はできても実話はできないのである。
 こんなことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか数寄屋橋すきやばしに出た。明るい銀座ぎんざが暗い空想を消散させた。
 紫色のスウィートピーを囲んだ見合いらしいはなやかな晩餐ばんさんの一団と、亀井戸かめいどへの道を聞いた寒そうな父子おやことの偶然な対照的な取り合わせが、こんな空想を生む機縁になったのかもしれない。まるうちの夜霧がさらにその空想を助長したのでもあろう。
 それにしても、あれはやはり電車切符ぐらいをやったほうがよかったような気がする。もしだまされるならだまされても少しも惜しくはなかったであろう。そんな芝居をしてまでも、たった一枚の切符を詐取しなければならない人がかりにあるとすれば、それほどに不幸な哀れな人がそうざらにたくさんこの世にあるであろうとは思われない。これに反して、こんな些細ささいな事実を元にしてこんな無用な空想をたくましゅうしていられるような果報な人間もいるのである。やはり切符をやればよかったのである。

     二 エレベーター

 百貨店のひどく込み合う時刻に、第一階の昇降機入り口におおぜい詰めかけて待っている。昇降箱が到着してとびらが開くと先を争って押し合いへし合いながら乗り込む。そうしてそれが二階へ来ると、もうさっさと出てしまう人が時々ある。出るときにはやはりすしづめの人々を押し分けて出なければならないのである。わずかに一階を上がるだけならば、何もわざわざ満員の昇降機によらなくても、各自持ち合わせの二本の足で上がったらよさそうにも思われる。自分の窮屈は自分で我慢すればそれでいいとしても、他の乗客の窮屈さに少しでも貢献することを遠慮したほうがよさそうにも思われる。
 それほど満員でない時に、たとえば三階四階間の上下にわざわざ昇降機を呼び止めて利用する人もある。この場合には自分のわずかな時間と労力の節約のために他の同乗者のおのおのから数十秒ずつの時間を強要し消費することになるのである。これも遠慮したほうがよさそうに思われる。
 しかし、昇降機のほうから言えば何階で止まるも止まらぬのもたいした動力のちがいはないであろうし、それが違ったところで百貨店の損益にも電力会社の経営にも格別重大な影響を及ぼす気づかいはないであろう。また運転嬢の労力にしたところで二階で出る人のためにとびらを開閉するのも二階ではいる人のために扉を開閉するのも同じであるからこれも別に問題にはならない。
 同乗客の側から言っても、他の便利のために少しの窮屈や時間の消費を我慢するくらいなことは当然な相互扶助の義務であろうから、なんの遠慮もいらないわけである。押し込まれるだけ押し込んでただ一階でも半階でも好きな所で乗って好きな所でおりればいいのである。また押し合いへし合うことのきらいな人間は遠慮なく昇降機を割愛して階段を昇降すればよい。それで問題はないのである。
 ただ問題になるのはこの昇降機というもののメンタルテストの前に人間が二色に区別されることである。
 何事でも人の寄る所へは押し寄せて行って群集を押し分けて先を争わないと気の済まない人と、そういう所はなるべく避けて少々の便宜は犠牲にしても人をわずらわさず人にわずらわされない自由の境地を愛する人とがある。この甲型の人の目から見ると乙型の人間は消極的退嬰的たいえいてきな利己主義者に見える。しかし乙はその自由のためにかえって甲の先をくぐって積極的に進出する事もあるし、自分の自由を尊重すると同時に人の自由を尊重するという意味では利他的である。反対に乙型の人間から見れば甲型の人々は積極的なようではあるが、また無用な勢力の浪費者であり、人の迷惑を顧みない我利我利亡者がりがりもうじゃのように見える。しかし甲はまたある場合に臨んで利害を打算せず自他の区別を立てないためにたのもしくあたたかい人間味の持ち主であることもありうるであろう。それはとにかくこの二つの型が満員昇降機のテストによってふるい分けられるように見えるところに興味がある。
 それとはまた別のことであるが昇降機の二つ三つ並んでいる前に立って、とびらの上にあるダイアルに示された各機の時々刻々の位置の分布を注意して見ていると一つの顕著な事実に気がつく。それは、多くの場合に二つか三つの昇降機がほとんど並んであい角逐かくちくしながら動いている場合が多いということである。理想的には、たとえば三つの内の一つが一階にいるときに他の二つはそれぞれ八階と四階のへんにいるほうがよさそうに思われる。換言すれば週期的運動の位相がほぼ等分にちがっているほうが乗客の待ち合わせる時間を均等にし従って乗客の数を均等に分布する点で便利であろうと思われる。しかし実際には三つがほぼ同時に同じ階を同じ方向に通過する場合が多いように思われる。もっともそういう場合だけに注意を引かれ、そうでない場合は特に注意しないために、匆卒そうそつな結論をしてはいけないと思って、ある日試みに某百貨店で半時間ぐらい実地の観測を行なってみた。観測の方法は、鉛筆と手帳をもって、数秒ごとに四つの昇降機のダイアルの示す数字を書き取るだけである。この観測の結果を調べた結果はやはり実際に予想どおりの傾向を示している。
 こういう現象の起こる原因は割合に簡単であって、ちょうど電車が幾台もつながってあるくようになるのとほぼ同様な原因によるらしい。すなわち、偶然二つが接近して同方向に動くようになるとそれからは、いつでも先へ立つほうが乗客の多いために時間をとってあとのを待ち合わせるような結果になるからである。これも結局は、多くの人間がただ眼前のことだけを見てその一つ先に来るものを見ようとしないことを示す一例に過ぎないであろう。これと似たことが人生行路にもありはしないかと思う。
 それはとにかく、先を争うて押し合う心理も昇降機の場合にはたいした恐ろしい結果は生じない。定員人数の制限を守りさえすれば墜落の恐れはめったにない。しかしこの同じ心理が恐るべき惨害をかもす直接原因となりうるのは劇場や百貨店などの火事の場合である。その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞へいそくして、大量的殺人現象が発生するのである。
 しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心てきがいしんとによって善導されればそれによって国難を救い戦勝の栄冠を獲得せしめることにもなるであろう。
 しかしまた、同じような考え方からすれば、結局ナポレオンも、レーニンも、ムソリニも、ヒトラーも、やはり一種のエレベーターのようなものかもしれないのである。 

     三 げじげじとしらみ

 父は満五十歳で官職を辞して郷里に退隠した。自分の九歳の春であったと思う。その九歳の自分が「おとうさんはげじげじだよ、げじげじだよ」と言って出入りの人々をつかまえては得意らしく宣伝したものだそうである。当時の陸軍では非職のことを「げじげじ」という俗称が行なわれていた。「非」の字の形がげじげじの形態と似通にかよっているためである。その当時だれかから聞きかじったこのげじげじという名称が、子供心になんとなく強く深い印象を与えたものと思われる。
 中六番町なかろくばんちょうの家を引き払おうという二三日ぐらい前の夜半に盗賊がはいって、玄関わきの書生部屋しょせいべや格子窓こうしまどを切り破って侵入した。ちょうど引っ越し前であったから一つ所に取りまとめてあった現金や貴重品をそっくりそのままきれいにさらって行った。かなり勝手を知った盗賊であろうという事であったが、結局犯人は見いだされなかった。この、姿を見せないで大きな結果だけを残して行った「盗賊」と、形は見えないがわが家の生活に大きな変化をもたらした「げじげじ」とが幼時の記憶の中で親密に握手をしている。
 家を引き払ってからしばらくの間、鍛冶橋外かじばしそとの「あけぼの」という旅館に泊まっていた。現在鍛冶橋ホテルというのがあるが、ほぼあれと同位置にあったと思われる。
「あけぼの」の二階の窓から見おろすと、橋のたもとがすぐ目の下にあった。そこに乞食こじきが一人、いつ見ても同じ所で陽春の日光に浴しながらしらみをとっていた。言葉どおりにぼろぼろの着物をきて、ほおかぶりをした手ぬぐいの穴から一束の蓬髪ほうはつが飛び出していたように思う。
 しらみを取っているのだということはもちろんはじめは知らなかった。だれかから教わって始めて覚えたことである。きたない着物を引っぱっては何かしら指の先でつまみ取り、そうして口へ運んではかみつぶしている光景が、ひどく珍しく不思議なものに思われた。それがいつのぞいて見ても根気よく同じことを繰り返しているのである。ほかには何もすることがなくて、ただしらみを取るだけがこの男の一日じゅうの仕事であるかのように思われた。

[1] [2] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告