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震災日記より(しんさいにっきより)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 8:54:26  点击:  切换到繁體中文


 そのうちに助手の西田君が来て大学の医化学教室が火事だが理学部は無事だという。N君が来る。隣のTM教授が来て市中所々出火だという。縁側から見ると南の空に珍しい積雲せきうんが盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青こんじょうの秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭はげいとうに輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。
 夕方藤田君が来て、図書館と法文科も全焼、山上集会所も本部も焼け、理学部では木造の数学教室が焼けたと云う。夕食後E君と白山はくさんへ行って蝋燭ろうそくを買って来る。TM氏が来て大学の様子を知らせてくれた。夜になってから大学へ様子を見に行く。図書館の書庫の中の燃えているさまが窓外からよく見えた。一晩中くらいはかかって燃えそうに見えた。普通の火事ならば大勢の人が集まっているであろうに、あたりには人影もなくただ野良犬が一匹そこいらにうろうろしていた。メートルとキログラムの副原器を収めた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人掛りで消していたが耐火構造の室内は大丈夫と思われた。それにしても屋上にこんな燃草をわざわざ載せたのは愚かな設計であった。物理教室の窓枠の一つに飛火が付いて燃えかけたのを秋山、小沢両理学士が消していた。バケツ一つだけで弥生町やよいちょう門外の井戸まで汲みに行ってはぶっかけているのであった。これも捨てておけば建物全体が焼けてしまったであろう。十一時頃帰る途中の電車通りは露宿者で一杯であった。火事で真紅に染まった雲の上には青い月が照らしていた。

九月二日 曇
 朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。兵燹へいせんという文字が頭に浮んだ。また江戸以前のこの辺の景色も想像されるのであった。電線がかたまりこんがらがって道を塞ぎ焼けた電車の骸骨が立往生していた。土蔵もみんな焼け、所々煉瓦塀の残骸が交じっている。焦げた樹木の梢がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のように焼けずに残っている。松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑くむせっぽく眼にみて進めない。その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難して来る人々の中には顔も両手も癩病患者らいびょうかんじゃのように火膨ひぶくれのしたのを左右二人で肩にもたらせ引きずるようにして連れて来るのがある。そうかと思うとまた反対に向うへ行く人々の中には写真機を下げて遠足にでも行くような呑気のんきそうな様子の人もあった。浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂きょううんどう病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台するがだいは全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。神保町じんぼうちょうから一ツ橋まで来て見ると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えているので巡査が張番していて人を通さない。自転車が一台飛んで来て制止にかまわず突切って渡って行った。堀に沿うてうしふちまで行って道端でいこうていると前を避難者が引切りなしに通る。実に色んな人が通る。五十恰好の女が一人大きな犬を一匹背中におぶって行く、風呂敷包一つ持っていない。浴衣ゆかたが泥水でも浴びたかのように黄色く染まっている。多勢の人が見ているのも無関心のようにわき見もしないで急いで行く。若い男で大きな蓮の葉を頭にかぶって上から手拭でしばっているのがある。それからまた氷袋に水を入れたのを頭にぶら下げて歩きながら、時々その水をあおっているのもある。と、土方どかた風の男が一人縄で何かガラガラ引きずりながら引っぱって来るのを見ると、一枚の焼けトタンの上に二尺角くらいの氷塊をのっけたのを何となく得意げに引きずって行くのであった。そうした行列の中を一台立派な高級自動車が人の流れにかれながらいるのを見ると、車の中には多分掛物でも入っているらしい桐の箱が一杯に積込まれて、その中にうずまるように一人の男が腰をかけてあたりを見廻していた。
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊はいかいするから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がるであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
 夕方に駒込の通りへ出て見ると、避難者の群が陸続と滝野川の方へ流れて行く。表通りの店屋などでも荷物をまとめて立退用意をしている。帰ってみると、近所でも家を引払ったのがあるという。上野方面の火事がこの辺まで焼けて来ようとは思われなかったが万一の場合の避難の心構えだけはした。さて避難しようとして考えてみると、どうしても持出さなければならないような物はほとんど無かった。ただ自分の描き集めた若干の油絵だけがちょっと惜しいような気がしたのと、人から預かっていたローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらいである。妻が三毛猫だけ連れてもう一匹の玉の方は置いて行こうと云ったら、子供等がどうしても連れて行くと云ってバスケットかなんかを用意していた。

九月三日 (月曜) 曇後雨
 朝九時頃から長男を板橋へやり、三代吉を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする。自分は大学へ出かけた。追分の通りの片側を田舎へ避難する人が引切りなしに通った。反対の側はまだ避難していた人が帰って来るのや、田舎から入り込んで来るのが反対の流れをなしている。呑気そうな顔をしている人もあるが見ただけでずいぶん悲惨な感じのする人もある。負傷した片足を引きずり引きずり杖にすがって行く若者の顔にはどこへ行くというあてもないらしい絶望の色があった。夫婦して小さな躄車いざりぐるまのようなものに病人らしい老母を載せて引いて行く、病人が塵埃で真黒になった顔を俯向うつむけている。
 帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が漸次に波及して行く様が歴然とわかった。帰ってから用心に鰹節かつおぶし、梅干、缶詰、片栗粉などを近所へ買いにやる。何だか悪い事をするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子なす、醤油、砂糖など車に積んで持って来たので少し安心する事が出来た。しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持込むのはかなり気の引けることであった。
 E君に青山の小宮君の留守宅の様子を見に行ってもらった。帰っての話によると、地震の時長男が二階に居たら書棚が倒れて出口をふさいだので心配した、それだけで別に異状はなかったそうである、その後は邸前の処に避難していたそうである。
 夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のように見えたので大島の噴火でないかという噂があったそうである。

(昭和十年十月)





底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
※生前未発表稿。
※単行本「橡の実」に収録。
※「八月三十日」の「三十」には編集部によって〔三十一〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
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