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小さな出来事(ちいさなできごと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 9:06:00  点击:  切换到繁體中文


「簑虫鳴く」という俳句の季題があるのを思い出したから、調べついでに歳時記をあけてみると清少納言の『枕草紙』からとして次のような話が引いてある。「簑虫の父親は鬼であった。親に似て恐ろしかろうといって、親のわるい着物を引きかぶせてやり、秋風が吹く頃になったら来るよとだまして逃げて行ったのを、そうとは知らず、秋風を音にきき知って、父よ父よと恋しがって鳴くのだ」というのである。どういうところから出た伝説だか、あるいは才女の空想から生み出された事だか、とにかく現代人の思いも付かないような事を考えたものである。しかしこの清少納言のオーソリティが九百年もそのままに保存されて来たとすると、自然界に対する日本人の知識がいかに長い間平和安穏であったかという事を物語っている。
 その後も二階へ上がる度に気をつけて見ると、簑虫の数は一つや二つではない。大小さまざまのが少なくも七つ八つは居るらしい。長い棒の付いたのはまだ外にも居た。中にはちょうど一本足の案山子かかしに似たのもある。あるいは二本の長い棒を横たえた武士のようなのも居る。皆大概はじっとしているが、午頃ひるごろには時々活動しているのを見受ける。彼等にも一定の労働時間や食事の時間があるのかと思ったりした。ある時大きなのがちょうど紅葉の葉を食っているところを見付けたが、頭をさしのべて高いところの葉を引き曲げかいこが桑を食うと同じようにして片はしから貪り食うていた。近辺の葉はもうだいぶ喰い荒されているのであった。こんなところを見ているうちに簑虫に対する自分の心持はだんだんに変って来た。そして虫の生活が次第に人間に近く見えて来ると同時に、色々の詩的な幻覚イリュージョンは片端から消えて行った。
 M君が来た時に、この話をしたら、M君は笑って、「だいぶ暇だと見えるね」と云った。しかし、M君自身もやはりだいぶ暇だと見えて、この間自分で蟻の巣を底まで掘り返してみた経験を話して聞かせた。

      四 新星

 毎年夏になってそろそろ夕方の風が恋しい頃になると、物置にしまってある竹製の涼み台が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の単調な一年中の生活に一つの著しい区切りを付ける重要な日になっている。もう明日あたりは涼み台を出そうじゃないかという事が誰かの口から云い出される。しかしその翌日が雨であったり、そうでなくても色々の事に紛れたりしてつい一日二日と延びる。そのうちにいよいよ今日はという事になって朝のうちに物置の屋根裏から台が取り下ろされ、一年中の塵埃やかびが濡れ雑巾で丁寧に拭い清められ、それから裏庭の日蔭で乾かされる。そしていよいよ夕方になってから中庭に持ち出されると、それで始めて私の家に本当に夏が来たという心持になるのである。
 涼み台の外に折り畳み椅子が三つ同時に並べられて一同が中庭へ集まる。まだ明るい宵のうちには縄飛びをする者もあれば、写生帖を出しておばあさんの後姿をかいているのもある。明朝咲く朝顔のつぼみを数えて報告するのもある。幼い女児二人は縁側へいろいろなお花を並べて花屋さんごっこをする事もある。暗くなると花火をしたり、お伽噺をしたり、おばあさんに「お国の話」をさせたりしている。幼い子等には、まだ見たことのない父母の郷国が、お伽噺の中の妖精国のように不思議な幻像に満たされているように思われるらしい。例えば郷里の家の前の流れに家鴨あひるが沢山並んでいて、夕方になると上流の方の飼主が小船で連れに来るというような何でもない話でさえ、何かしら一種の夢のようなものを幼い頭の中に描かせると見える。それでいつも「おくにの話」をねだってはおしまいに「あたしもお国へ行きたいなあ」と一人が云うと、もう一人が同じ言葉を繰返すのである。子供等の亡祖父の若かった頃の昔話もしばしば出る。私自身が子供の時分に幾度も聞かされた話が、また同じ母の口から出るのを聞いていると、それがもう遠い遠い昔の出来事であって、数年前まで生きていた私の父に関する話とは思われないような気がする。まして祖父を見た事のない、あるいは朧気にしか覚えていない子供等には、会津戦争や西南戦争時代の昔話は書物で見る古い歴史の断片のようにしか響かないだろう。そしてそれだけにかえって祖父に対するなつかしみは浄化され純化されて子供等の頭の中の神殿に収められるだろうと思ったりする。
 今年の夏始めに、涼み台が持ち出されて間もなく、長男が宵のうちに南方の空に輝く大きな赤味がかった星を見付けてあれは何かと聞いた。見るとそれは黄道に近いところにあるし、チラチラ瞬きをしないからいずれ遊星にはちがいないと思った。そして近刊の天文の雑誌を調べてみるとそれが火星だという事がすぐに判った。星座図を出して来てあたってみるとそれは処女宮ヴィルゴの一等星スピカの少し東に居るという事がわかった。それでその図の上に鉛筆で現在の位置をしるし、その脇へ日附をかいておいて、この夏中のこの遊星の軋道を図の上で追跡してみようという事にした。
 それが動機になって子供は空のよくはれた晩には時々星座図を出して目立った星宿せいしゅくを見較べていた。その頃はまだ織女しょくじょ牽牛けんぎゅうは宵のうちにはかなりに東にあった。西の方の獅子宮には白く大きな木星が屋根越しに氷のような光を投げていた。
 星座図にある「変光星」というのは何かという疑問も出た、私は簡単な説明をしてやってちょうど見えていた「織女ヴェガ」のすぐ隣のベータ・ライラの面白い光度の変化を注意させた。それから夜ごとに気を付けて見ていると果して天文雑誌にある予報の通りに光が変るという事実が子供の頭にどういう風に感ぜられたか、それは私には分らなかった。
 空を眺めているうちに時々流星が飛んだ。私は流星の話をすると同時に、熱心な流星観測者が夜中空を見張っている話をして、それからいわゆる新星ノヴァの発見に関する話もして聞かせた。おもだった星座を暗記していれば素人しろうとでも新星を発見し得る機会チャンスはあるという事も話した。
 一秒時間に十八万六千マイルを走る光が一ヶ年かかって達する距離を単位にして測られるような莫大な距離をへだてて散布された天体の二つが偶然接近して新星の発現となる機会は、例えば釈迦の引いた譬喩ひゆ盲亀もうき百年に一度大海から首を出して孔のあいた浮木にぶつかる機会にも比べられるほど少なそうであるが、天体の数の莫大なために新星の出現はそれほど珍しいものではない。ただ光度の著しく強いのが割合に稀である。
 こんな話よりも子供を喜ばせたのは、新星の光が数十百年の過去のものだという事であった。わが家の先祖の誰かがどこかでどうかしていたと同じ時刻に、遠い遠い宇宙の片隅に突発した事変の報知が、やっと今の世にこの世界に届くという事である。
 しかしそう云えばいったいわれらが「現在」と名づけているものが、ただ永劫な時の道程の上に孤立した一点というようなものに過ぎないであろうか。よく考えてみるとそんなに切り離して存在するものとは思われない。つまりは遠い昔から近い過去までのあらゆる出来事にそれぞれの係数を乗じて積分インテグレートした総和が眼前に現われているに過ぎないのではあるまいか。
 こんな事を考えたりしながら、もう聞き古した母の昔話を今までとは別な新しい興味をもって聞く事もあった。
 八月になってから雨天や曇天がしばらく続いて涼み台も片隅の戸袋に立てかけられたままに幾日も経った。
 ある朝新聞を見ていると、今年卒業した理学士K氏が流星の観測中に白鳥星座に新星を発見したという記事が出ていた。その日の夕方になると涼み台へ出て子供と共にその新星を捜したらすぐ分った。しばらく見なかった間に季節が進んでいる事は織女牽牛が宵のうちに真上に来ているのでも知られた。そして新星はかなり天頂に近く白鳥座の一番大きな二等星と光を争うほどに輝きまたたいているのであった。
「しばらく怠けたので新星の発見をし損なったね」と云ったら、子供はどう思ったか顔を真赤にして、そしてさも面白そうに笑っていた。
 私は冗談のつもりで云ったのだが子供には私の意味がよく分るまいと思った。それで誤解をしないために次のような説明をしておかなければならなかった。
 新星の出現する機会チャンスはきわめて少ない。われわれ素人が星座の点検をする機会もまたはなはだ少ない。従って先ず新星が現われて、それからわれわれがそれを発見するという確率プロバビリティは、二つの小さな分数の相乗積であるから、つまりごく小さいもののまだ小さい分数に過ぎない。これに反して毎晩欠かさず空の見張りをしている専門家にとっては、「偶然」はむしろ主に星の出現という事のみにあって、われわれの場合のように星と人とに関する二重の「偶然」ではない。強いて云えば天気の晴曇や日常の支障というような偶然の出来事のために一日早く見付けるかどうかという事が問題になるだけであろう。
 この説明は子供には、よく分らないらしかった。
 そのうちにまた曇天が続いて朝晩はもう秋の心地がする。どうかすると夜風は涼し過ぎる。涼み台もつい忘れられがちになった。従って星の事ももう子供の頭からは消えてしまっているらしい。新星の今後の変化を研究すべき天文学者の仕事はこれから始まるので、学者達は毎晩曇った空を眺めては晴間を待ち明かしている事であろう。

      五 幼い Ennui

 夏休み中に一度は子供等を連れて近くの海岸へ日返りの旅をするのが近年の常例になっていた。その以前には一週間くらい泊りがけで出かける事にしていたが、そうするときっときまったように誰かが転地先で病気をした。ある年は母がひどい腸加答児カタルに罹って半年ほど後までも祟られた。またある年は父子三人とも熱が出たり腸を害したりして、不安心な怪しげな医者の手にかからねばならなかった。そのうちに知人のある者は保養地で疫痢えきりのために愛児を亡くしたりした。それでもう海水浴というものが恐ろしくなって、泊りがけに行く気にはなれなくなってしまった。それでも一度も行かないのは子供等に気の毒なような気がするので、日返り旅行という事を考えついてそれにきめていたのである。子供等はそれでも十分に満足していたようである。
 今年は自分が病気で行かれない事になった。のみならず二人の男の子も健康に故障があって旅行はあまり望ましくなかったので、とうとうどこへも行かない事にきめた。その代りに銘々めいめいに何か望みの本や玩具を買ってやる事にして、それで現代が生み出したこの一種の新しい父親の義務といったようなものをゆるしてもらう事にした。
 年とった方の子供等は書籍を買った。近頃絵が面白くなった末から二番目の八重子は水彩絵具と筆とを買って規定の金額は一度に使ってしまった。末の冬子は線香花火や千代紙やこまごました品を少しずつしか買わないので、配当されたわずかな金が割合に長く使いでがあるようであった。そういう事実は多少小さな姉や兄の注意をひいているらしかった。
 学校へ出ている子等は毎朝復習をしていた。まだ幼稚園の冬子はその時間中相手になってくれる人がないので、仲間はずれのわびしさといったようなものを感じているらしかった。それで自分も祖母の膝の前へ絵雑誌などをひろげてやはり一種の復習をしている事もあった。
 この四、五月頃から父親が毎日絵を描いていたのが子供等に影響して、みんなが熱心な自由画家になってしまった。誰の発案だか小さな「絵の雑誌」をこしらえた。五人の子供が銘々に隠しあって描いたのを長女が纏めて綴った後に発表する事にしていた。「みそさざい」という名前をつけて一週間に一回くらいずつ発行したのが存外持続して最近には第九号が刊行されたようである。表紙画は順番で受け持つ事になっているらしい。
 出品画を書いているうちは、ひどく人の見るのを厭がって、みんな方々の部屋の隅へ頭をつっこんで描いていた。時々兄さん達が無理に覗きに来ていけないという訴えが小さい子等から母や祖母の前に提出されているようであった。画家の中には未成品を人に見られる事を厭がる人がずいぶん多いようであるが、これには無論種々な複雑な実際的の理由もあるに相違ない、しかしその外にやはり子供の時から既にっている一種の妙な心理作用も手伝っている場合がありそうに思われた。
 五人の描く絵が五人ながら、それぞれの小さな個性を主張しているのがかなり目立って見えた。のみならず銘々にもう既にきまった一種の型のようなものが芽を出しかけているのであった。何と云ってもいちばん多くの独創的な点をもっているのはいちばん小さい冬子の自由画であったが、その面白い点が一度認められ賞められるとそれがもう十八番になって、例えば富士山が出だすとそれがいかなる絵にでも必ず現われるのであった。今度は趣向を変えて驚かしてやろうというような気はさすがにまだ無かった。
 そのうちにまた「みそさざい」文章号というのが発行された。私が読書している隣りの室で、八重子と宗二とがひそひそ話し合っては、宗二が何か半紙へ書いていると思ったら、それは八重子作の御伽噺を兄が筆記しているのであった。出来上がったのを見ると、ずいぶん色々の文章や歌があった。長男のは感想的のもので姉や弟の絵や文章の傾向が論じてあったりした。八重子の日記にはおやつおかずの事がだいぶ詳しくかいてあった。冬子の「ホシ」と題した歌のようなものがあったが、意味のどうしても分らない全く未来派のようなものであった。
 子供等がこんな事をして割合に仲よく面白く遊んでいるうちに夏休みは容赦もなく経って行った。もう幾つ寝ると学校や幼稚園が始まるかという事が幼い子等によって毎日繰返されるようになった。そう思って見るせいか、子供等の顔にはどこかに倦怠の影がうかがわれた。私は親類や知人の誰彼が避暑先からよこした絵葉書などを見る度に、なんだか子供等にまだなんらかの負債をしているような心持を打消す事が出来なかった。
 ある夕方一同が涼み台と縁側に集まっていろんな話をしている間に、去年みんなである夜銀座へ行ってアイスクリームを食った時の話が出た。それを聞くと八重子と冬子が今年も銀座へ連れて行ってくれと云い出した。実際昨年行ったきりでその後一度も行かなかったのである。
 翌日の夕方は空もよくはれ夕立のおそれも無さそうであるし、風も涼しくて漫歩には適当であったから、妻に五人の子供を連れさして銀座へ遊びにやった。末の二人はどんな好いところへ行くかと思われるように喜んで、そして自分等の好みで学校通いの洋服を着せてもらって、一時間も前から靴をはいて勇んで飛び廻っていた。私はこの二人のむしろ見すぼらしい形ばかりの洋服を見比べているうちに一種の佗しさを感じた。その佗しさはおそらく吾々階級の父親がこのような場合に感ずべき共通のものだろう。
 子供等が出て行った後で私は涼み台で母とただ二人で話していた。座敷の電気もおおかた消してしまったので庭は暗かった。家中が珍しくしんとして表庭の方で虫の音が高く聞えていた。
 十時頃に床へはいって本を読んでいると門の戸が開いて皆がどやどや帰って来た。どうしたのか冬子が泣きながらはいって来て、着物をきかえ床へはいってもまだしくしく泣いていた。どうしたかと聞いてみても何も云わないし、外のものにも何故だか分らなかった。
 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何遍も聞いたそうである。ここが銀座だと説明しても分らなかった。どうも銀座というのはアイスクリームのある家の事と思っていたらしいという事である。宅の門までは元気よく帰って来たのが、どうしたか門をはいると泣き出したそうである。
 私は「珍しく繁華な街へ行ったからかんでも起ったのだろう」と云った。私がこれを云うと同時に冬子は急に泣き止めた。そして何か考えてでもいるような風であったが間もなくすやすや寝入ってしまった。

(大正九年十一月『中央公論』)





底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
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