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津田青楓君の画と南画の芸術的価値(つだせいふうくんのえとなんがのげいじゅつてきかち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 9:12:01  点击:  切换到繁體中文


 津田君の絵についてこういう新しい見馴れぬ矛盾や不合理を探せばいくらでもある。こういう点の多いという事がまさに君が新しい眼で自然を見つつある事実を証明するのである。在来のいわゆる穏健な異端でない画に対して吾人が不合理を感じないのは、そこに不合理がないという証拠では毛頭ない。ただそこには何らの新しい不合理を示していないというだけである。そしてこれは間接には畢竟ひっきょう新しい何物をも包んでいない事を暗示するのである。そうかと思うと一方で立体派や未来派のような舶来の不合理をそのままに鵜呑うのみにして有難がって模倣しているような不見識な人の多い中に、このような自分の腹から自然に出た些細ささいな不合理はむしろ一服の清涼剤として珍重すべきもののような感がある。
 鳥の脚が変な処にくっついている、樹の上で鳥が力学的平衡を保ち得るかは疑問である。樹の幹や枝の弾性は果してその重量に堪え得るや否や覚束ない。あるいは藁苞わらづとのような恰好をした白鳥が湿り気のない水に浮んでいたり、睡蓮すいれんの茎ともあろうものがはすのように無遠慮に長く水上にそびえている事もある。時にはひさしばかりで屋根のない家に唐人のような漱石先生が居る事もある。このような不思議な現象は津田君のある時期の画中には到る処に見出される。在来の型以外のものに対して盲目な公衆の眼にはどうしても軽視され時には滑稽視されるのは誠に止むを得ぬ次第であるが、そういう人でも先ず試みに津田君のこの種の絵と技巧の一点張の普通の絵と並べて壁間に掲げ、ゆっくりつ虚心に眺めて見るだけの手数をしたならば、多分今までとちがった心持で津田君の絵を見直すだけの余裕が出来ようかと思う。技巧を主とした絵は一見その妙に酔わされ感服させられる。しかし先ず大抵たいていの絵は少し永く見ていると直にそれほどの魅力はなくなる、そして往々一種の堪え難い浮薄な厭味が鼻につく場合も少なくない。技巧というものが畢竟それ限りのものであって、それ以上の何物をも有せぬものとすれば、これは当然な事ではあるまいか。津田君の絵はまさしくそれに反する。ちょっと見た時にはかつて夏目先生が云われたじじむさいような点や、一見甚だしく不器用なようみ見える描き方や、科学的幾何学的の不合理というようなものが目に付きやすい、それにかかわらず何とも名状の出来ぬ一種の清新な空気が画面にただようている事は極端な頑固な人でない限りおそらく誰でも容易に観取する事が出来るだろう。そしてもしその際自分の本当の感じを押し隠したり偽ったりする事さえしなければ、だんだん眺めていればいるほど前にじじむさいと思ったところや不合理と感じた事は何でもなくなって、従来のいわゆる穏健な絵からは受ける事の出来ない新しい活気のある面白味や美しさが際限もなく出て来るだろう。技巧派の絵からは吾人が自然そのものについて教えられ、また啓示される事は甚だ稀であるが、津田君の絵からは自分は常に様々な暗示を受け、新しい事を教えられるのである。本当の芸術上の創作というものはこういうものであるべきではあるまいか。
 仕上げの足りないという事やじじむさいという事は自分の要求するような意味の創作というものにはあるいはむしろ避くべからざる附き物ではないかと思う。一度草稿を作ってその通りのものを丹念に二度書き上げたものは、もはや半分以上魂の抜けたものになるのは実際止み難い事である。津田君はそういう魂のないものを我慢して画く事の出来ぬ性の人であるから、たとえ幾枚画き改めたところで遂に「仕上げ」の出来る気遣いはないのであろう。二枚目は草稿よりもとにかく一歩でも進まないではいられないのである。一体職工的の「仕上げ」という事が芸術品の価値にどれだけ必要なものであるか疑わしい。悪くおさまった仕上げはその作品を何らの暗示も刺戟もないものにしてしまう。完全和絃ばかりから構成されたものは音楽とはなり得ないように絵画でも幾多の不協和音や雑音に相当する要素がなければ深い面白味は生じ得ないではあるまいか。特に南画においてそういう必要があるのではあるまいか。然るに近代の多数の南画家の展覧会などに出した作品例えば御定まりの青緑山水のごときものを見ると、山の形、水の流れ、一草一木の細に至るまで実に一点の誤りもない規則ずくめに出来ている。そして全体の感じはどうであるかというと自分はちょうど主和絃ばかりから出来た音楽でも聞くか、あるいは甘いものずくめの料理を食うような心持がするのである。あるいは平凡な織物の帯地を見ているようなもので、綺麗は綺麗だがそこに何らの感興も起らなければ何らの刺戟も受けない。これに反して古来の大家と云われるほどの人の南画は決してそんなものではない。自分の知っている狭い範囲だけでも蕪村、高陽こうようのごとき人の傑作に対する時は、そこに幾多の不細工あるいは不恰好が優れた器用と手際との中に巧みに入り乱れ織り込まれて、ちょうど力強い名匠の音楽の演奏を聞くような感じがするのである。殊に例えば金冬心きんとうしん石濤せきとうのごとき支那人の画を見るがよいと思う。突飛な題材を無造作な不細工な描き方で画いているようではあるが、第一構図や意匠の独創的な事は別問題としても今ここに論じているような「不協和の融和」という事が非常にうまく行われているので、そこに名状の出来ぬ深みが生じ「内容」が出来ているのである。津田君の絵がまさにそうである。非常に不器用な子供の描いたようなところがあると思うとまた非常に巧妙な鋭利なところがある。不細工な粗放な線が出ているかと思うとまた驚くべく繊巧な神経的な線が現われている。云わば一つの線の交響楽シンフォニーのようなものではあるまいか。快活、憂鬱、謹厳、戯謔ぎぎゃくさまざまの心持が簡単な線の配合によって一幅の絵の中に自由に現われていると思うのである。
 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見べっけんするところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌じょうぜつな空談者と訥弁とつべんな思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁もとより悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。
 このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。近頃某氏のために揮毫きごうした野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法もっこつびょうほうの豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽シンフォニーが出来ている。この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来る事を望みたいと思うものである。
 津田君の絵についてもう一つ云い落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現われている。時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。
 このような色彩に対する敏感が津田君の日本画に影響を持たないはずはない。尤もある画を見ると色彩については線法や構図に対するほどの苦心はしていないかと思われるのもないではないが、しかし簡単な花鳥の小品などを見ても一見何らの奇もないような配色の中に到底在来の南画家の考え及ばないと思われる創見的な点を発見する事が出来る。例えば一見甚だ陰鬱な緑色のセピアとの配合、強烈に過ぎはしないかと疑われる群青ぐんじょうと黄との対照、あるいは牡丹ぼたんの花などにおける有りとあらゆる複雑な紫色の舞踏、こういうようなものが君の絵に飽かざる新鮮味を与え生気を添えている。こういう点だけでも自分の見るところでは津田君と同じような人が他に幾人求め得られるか疑わしい。自分が他の種々の点で優れたと思う画家の中でも色彩の独創的な事において同君と比肩すべき人を物色するのは甚だ困難である。
 津田君の絵についてもう一つの特徴と思われる事がある。君の絵はある点で甚だ無頓着に自由に且つ呑気そうに見えると同時に、また非常に神経過敏にあるいは少しく病的と思われるほど気むずかしいところがある。これも同君の絵について感ずる矛盾の調和の一つであって絵の深みを増す所以であある。このような点はある支那人や現代二、三の日本画家の作品にも認められるのみならず、また西洋でも後期印象派の作などにおいて瞥見するところである。あるいは却って古代の宗教画などに見られて近代のアカデミー風の画には薬にしたくもないところである。ルーベンスやゲーンスボローやないしはアルマタデマに無くしてセザンヌ、ゴーホあるいはセガンチニなどに存するところのものである。
 津田君の日本画とセザンヌやゴーホの作品との間の交渉は種々の点で認められる。単にその技巧の上から見ても津田君の例えばある樹幹の描き方や水流の写法にはどことなくゴーホを想起させるような狂熱的な点がある。あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎りんごや壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想れんそうせしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の※(「火+餡のつくり」、第3水準1-87-49)ほのおが、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更なおさらの事であろう。
 ある批評家はセザンヌの作品とドストエフスキーの文学との肖似しょうじを論じている。自分も偶然に津田君の画とこの露文豪のある作品との間に共軛点きょうやくてんを認めさせられている。殊に彼の『イディオット』の主人公の無技巧な人格の美に対して感じるような快感を津田君の画から味わい得られる。そして真率朴訥ぼくとつという事から出て来る無限の大勢力の前に虚飾や権謀が意気地なく敗亡する事を痛快に感じないではいられない。
 以上の比較は無論ただ津田君の画のある小さい部分についてはまるものであって、全体について云えば津田君の画はもとより津田君の画である事は申すまでもない。同君のような出発点を有する人の画を論ずるに他人のしかも外国人の画などを引合いに出したくはない。しかし外国人の事と云えば、これを紹介し祖述する事に敏捷びんしょうな人々の多い世の中に、津田君の画を紹介しようとする人の少ないのは不思議である。遂に自分のようなものでも差し出口をきかなければならないような事になるのはどういう訳であろう。
 ここまで書いて来て振り返ってみると自分ながら随分臆面もなくよくこれだけ書いたものだと思う。しかし自分として云いたいと思う事はまだなかなか十分の一も尽されていない。一番云いたいと思うような主要な第一義の事柄はこれを云い表わすだけの言葉がなかなか見付からない。それでやっと述べ得た事すらも多くは平凡でなければ不得要領であったり独り合点に終っているかもしれない。
 青楓せいふう論と題しながら遂に一種の頌辞しょうじのようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
 津田君の画はまだ要するにXである。何時いつ如何いかなる辺に赴くかは津田君自身にもおそらく分らないだろう。しかしその出発原点と大体の加速度の方向とが同君として最も適切なところに嵌っている事は疑いもない事である。そして既に現在の作品が群を抜いた立派なものである事も確かである。それで自分は特別な興味と期待と同情とをもって同君の将来に嘱目している。そして何時までも安心したりおさまったりする事なしに、何時までも迷って煩悶して進んで行く事を祈るものである。芸術の世界に限らず科学の世界でも何か新しい事を始めようとする人に対する世間の軽侮、冷笑ないし迫害は、往々にして勇気を沮喪そそうさせたがるものである。しかし自分の知っている津田君にはそんな事はあるまいと思う。かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。

(大正七年八月『中央公論』)





底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1997(平成9)年7月7日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「中央公論」
   1918(大正7)年8月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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