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夏目漱石先生の追憶(なつめそうせきせんせいのついおく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 18:30:20  点击:  切换到繁體中文

 熊本くまもと第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わったころの事である。同県学生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を断たれる恐れがあったのである。
 初めて尋ねた先生の家は白川しらかわの河畔で、藤崎神社ふじさきじんじゃの近くの閑静な町であった。「点をもらいに」来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックのせんじ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套じょうとうな描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句はい句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本くまもとへ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へかよったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井うちつぼいに移っていた。立田山麓たつたさんろくの自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱くつぬぎ石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日などどろまみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二へやが共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣けんにんじがきの向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。
 先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者いなかものの自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅くずもちのようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規まさおかしきの所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江くりやがわせんこう平川草江ひらかわそうこう蒲生紫川がもうしせん(後の原医学博士)等の諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。
 先生のお宅へ書生に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある。裏の物置きなら明いているから来てみろと言って案内されたそのへやは、第一、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのであった。
 そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉かのうこうきち奥太一郎おくたいちろう山川信次郎やまかわしんじろうらの諸氏がいたようである。「二百十日」に出て来る一人が奥氏であるというのが定評になっているようである。
 学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教わった。松山まつやま中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーションを黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマーの詩句の数節を暗唱していたのをそっくり答案に書いて、大いに得意になったこともあった。
 教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
 科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采ふうさいであった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士みとろうしとでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
 暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったと見える。
 高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町かみねぎしうぐいすよこちょうに病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬いけいし合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。
 先生が洋行するので横浜よこはまへ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀はがさんと藤代ふじしろさんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶あいさつを送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側げんそくにもたれて身動きもしないでじっと波止場はとばを見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た。「秋風の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書いて神戸こうべからよこされた。
 先生の留学中に自分は病気になって一年休学し、郷里の海岸で遊んでいたので、退屈まかせに長たらしい手紙をかいてはロンドンの先生に送った。そうして先生からのたよりの来るのを楽しみにしていた。病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された。新橋しんばし駅(今の汐留しおどめ)へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す。
 帰朝当座の先生は矢来町やらいちょうの奥さんの実家中根なかね氏邸に仮寓かぐうしていた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋つちや君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと言われたので、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった。先生の手かばんの中から白ばらの造花が一束出て来た。それはなんですかと聞いたら、人からもらったんだと言われた。たしかその時にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻のりまきにはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老えびを残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい。
 千駄木せんだぎへ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。そのころはやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても、なんとか、かとか勝手な事を言っては横着にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見たりしていた。当時先生はターナーの絵が好きで、よくこの画家についていろいろの話をされた。いつだったか、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時に、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙ぞうげのブックナイフを買って来たのを見せられてたいそううれしそうに見えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた。「ねこ」以後には橋口五葉はしぐちごよう氏や大塚楠緒子おおつかなおこ女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅうほおや鼻へこすりつけるのであぶら滲透しんとうして鼈甲色べっこういろになっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗おうばくの坊さんの書の半折はんせつが掛けてあり、天狗てんぐ羽団扇はうちわのようなものが座右に置いてあった事もあった。セピアのインキで細かく書いたノートがいつも机上にあった。鈴木三重吉すずきみえきち君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これはすぎの葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹ようかんが好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。
吾輩わがはいは猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生のうちで開かれるようになった。先生の「猫」のつづきを朗読するのはいつも高浜たかはまさんであったが、先生は時々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである。
 自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「ねこ」の寒月かんげつ君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。
 高浜、坂本さかもと寒川さむかわ諸氏と先生と自分とで神田連雀町かんだれんじゃくちょう鶏肉屋とりにくやへ昼飯を食いに行った時、須田町すだちょうへんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「ねこ」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。
 上野うえのの音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた。ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒せいようけん前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウ/\/\というかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような気がする。
 自分の白いネルの襟巻えりまきがよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである。「君、服を新調したから一つ見てくれ」と言われるようなこともあった。服装については自分は先生からは落第点をもらっていた。綿ネルの下着が袖口そでぐちから二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげに鰹節かつおぶしをたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見てもわかるのである。

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