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化け物の進化(ばけもののしんか)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 18:45:05  点击:  切换到繁體中文


 そのような化け物の一例として私は前に「提馬風たいばふう」のお化けの正体を論じた事がある。その後に私の問題となった他の例は「鎌鼬かまいたち」と称する化け物の事である。
 鎌鼬の事はいろいろの書物にあるが、「伽婢子おとぎぼうこ」という書物によると、関東地方にこの現象が多いらしい、旋風が吹きおこって「通行人の身にものあらくあたればもものあたり縦さまにさけて、剃刀かみそりにて切りたるごとく口ひらけ、しかも痛みはなはだしくもなし、また血は少しもいでず、うんぬん」とあり、また名字正しき侍にはこの害なく卑賤ひせんの者は金持ちでもあてられるなどと書いてある。ここにも時代の反映が出ていておもしろい。 雲萍雑誌うんぴょうざっしには「西国方さいごくがた風鎌かざかまというものあり」としてある。この現象については先年わが国のある学術雑誌で気象学上から論じた人があって、その所説によると旋風の中では気圧がはなはだしく低下するために皮膚が裂けるのであろうと説明してあったように記憶するが、この説は物理学者には少しふに落ちない。たとえかなり真空になってもゴム球か膀胱ぼうこうか何かのように脚部の破裂する事はありそうもない。これは明らかに強風のために途上の木竹片あるいは砂粒のごときものが高速度で衝突するために皮膚が截断せつだんされるのである。旋風内の最高風速はよくはわからないが毎秒七八十メートルを越える事も珍しくはないらしい。弾丸の速度に比べれば問題にならぬが、おもちゃの弓で射た矢よりは速いかもしれない。数年前アメリカの気象学雑誌に出ていた一例によると、麦わらの茎が大旋風に吹きつけられて堅い板戸に突きささって、ちょうど矢の立ったようになったのが写真で示されていた。麦わらが板戸に穿入せんにゅうするくらいなら、竹片が人間の肉を破ってもたいして不都合はあるまいと思われる。 下賤げせんの者にこのわざわいが多いというのは統計の結果でもないから問題にならないが、しかし下賤の者の総数が高貴な者の総数より多いとすれば、それだけでもこの事は当然である。その上にまた下賤げせんのものが脚部を露出して歩く機会が多いとすればなおさらの事である。また関東に特別に旋風が多いかどうかはこれも充分な統計的資料がないからわからないが、小規模のいわゆる「塵旋風ちりせんぷう」は武蔵野むさしののような平野に多いらしいから、この事も全く無根ではないかもしれない。
 怪異を科学的に説明する事に対して反感をいだく人もあるようである。それはせっかくの神秘なものを浅薄なる唯物論者の土足に踏みにじられるといったような不快を感じるからであるらしい。しかしそれは僻見へきけんであり誤解である。いわゆる科学的説明が一通りできたとしても実はその現象の神秘は少しも減じないばかりでなくむしろますます深刻になるだけの事である。たとえば鎌鼬かまいたちの現象がかりに前記のような事であるとすれば、ほんとうの科学的研究は実はそこから始まるので、前に述べた事はただ問題の構成フォーミュレーションであって解決ソリューションではない。またこの現象が多くの実験的数理的研究によって、いくらか詳しくわかったとしたところで、それからさきの問題は無限である。そうして何の何某が何日にどこでこれに遭遇するかを予言する事はいかなる科学者にも永久に不可能である。これをなしうるものは「神様」だけである。
鸚鵡石おうむいし」という不思議な現象の記事を、※(「車+酋」、第3水準1-92-47)軒小録ゆうけんしょうろく提醒紀談ていせいきだん笈埃随筆きゅうあいずいひつ等で散見する。これは山腹に露出した平滑な岩盤が適当な場所から発する音波を反響させるのだという事は今日では小学児童にでもわかる事である。岩面に草木があっては音波を擾乱じょうらんするから反響が充分でなくなる事も多くの物理学生には明らかである。しかしこれらの記録中でおもしろいと思わるるのは、ある書では笛の音がよく反響しないとあり、他書にはかね鼓鈴のごときものがよく響かないとある事である。笈埃随筆では「この地は神跡だから仏具を忌むので、それで鉦や鈴は響かぬ」という説に対し、そんなばかな事はないと抗弁し「それならば念仏や題目を唱えても反響しないはずだのに、反響するではないか」などという議論があり、結局五行説ごぎょうせつか何かへ持って行って無理に故事こじつけているところがおもしろい。五行説は物理学の卵であるとも言われる。これについて思い出すのは十余年前の夏大島おおしま三原火山みはらかざんを調べるために、あの火口原の一隅いちぐうに数日間のテント生活をした事がある。風のない穏やかなある日あの火口丘の頂に立って大きな声を立てると前面の火口壁から非常に明瞭めいりょうな反響が聞こえた。おもしろいので試みにアー、イー、ウー、エー、オーと五つの母音を交互に出してみると、ア、オなどは強く反響するのにイやエは弱く短くしか反響しない。これはたぶんあとの母音は振動数の多い上音オバートーンに富むため、またそういう上音オバートーンはその波長の短いために吸収分散が多く結局全体としての反響の度が弱くなるからではないかと考えてみた事がある。ともかくもこの事と、鸚鵡石おうむいしかねや鈴や調子の高い笛の音の反響しないという記事とは相照応する点がある。しかしこれも本式に研究してみなければよくはわからない。
 近ごろは海の深さを測定するために高周波の音波を船底から海水中に送り、それが海底で反響するのを利用する事が実行されるようになった。これを研究した学者たちが、どの程度まで上記の問題に立ち入ったか私は知らない。しかしこの鸚鵡石で問題になった事はこの場合当面の問題となって再燃しなければならないのである。 伊勢いせの鸚鵡石にしても今の物理学者が実地に出張して研究しようと思えばいくらでも研究する問題はある。そしてその結果はたとえば大講堂や劇場の設計などに何かの有益な応用を見いだすに相違ない。
 余談ではあるが、二十年ほど前にアメリカの役者が来て、たしか歌舞伎座かぶきざであったかと思うが、「リップ・ヴァン・ウィンクル」の芝居をした事がある。山の中でリップ・ヴァン・ウィンクルが元気よく自分の名を叫ぶと、反響がおおぜいの声として「リーッウ・ウァーン・ウィーンウール」と調子の低い空虚な気味の悪い声であざけるように答えるのが、いかにも真に迫っておもしろかったのを記憶する。これは前述のような理由で音声の音色が変わる事と、反射面に段階のあるために音が引き延ばされまた幾人もの声になって聞こえる事と、この二つの要素がちゃんとつかまれていたからである。思うにこの役者は「木魂こだま」のお化けをかなりに深く研究したに相違ないのである。
伽婢子おとぎぼうこ」巻の十二に「大石おおいし相戦あいたたこう」と題して、上杉謙信うえすぎけんしん春日山かすがやまの城で大石が二つある日の夕方しきりにおどり動いて相衝突し夜半過ぎまでけんかをして結局互いに砕けてしまった。それからまもなく謙信が病死したとある。これももちろんあまり当てにならない話であるが、しかし作りごとにしてもなんらかの自然現象から暗示された作りごとであるかもしれない。私の調べたところでは、北陸道ほくりくどう一帯にかけて昔も今も山くずれ地すべりの現象が特に著しい。これについては故神保じんぼ博士その他の詳しい調査もあり、今でも時々新聞で報道される。地すべりのるものでは地盤の運動は割合に緩徐で、すべっている地盤の上に建った家などぐらぐらしながらもそのままで運ばれて行く場合もある。従って岩などもぐらぐら動き、また互いに衝突しながら全体として移動する事もありそうである。そういう実際の現象から「石と石がけんかする」というアイデアが生まれたかもしれないと思われる。それで、もし、この謙信居城の地の地すべりに関する史料を捜索して何か獲物でも見つかれば少しは話が物になるが、今のところではただの空想に過ぎない。しかしこの話がともかくもそういう学問上の問題の導火線となりうる事だけは事実である。
 地変に関係のある怪異では空中から毛の降る現象がある。これについては古来記録が少なくない。これは多くの場合にたぶん「火山毛」すなわち「ペレ女神の髪の毛」と称するものに相違ない。江戸でも慶長寛永寛政文政のころの記録がある。 耽奇漫録たんきまんろくによると文政七年の秋降ったものは、長さの長いのは一尺七寸もあったとある。この前後伊豆いず大島おおしま火山が活動していた事が記録されているが、この時ちょうど江戸近くを通った台風のためにぐあいよく大島の空から江戸の空へ運ばれて来て落下したものだという事がわかる。従ってそれから判断してその日の低気圧の進路のおおよその見当をつける事が可能になるのである。
 気象に関係のありそうなのでは「たぬきの腹鼓」がある。この現象は現代の東京にもまだあるかもしれないがたぶんは他の二十世紀文化の物音に圧倒されているためにだれも注意しなくなったのであろうと思う。ともかくも気温や風の特異な垂直分布による音響の異常いじょう伝播でんぱと関係のある怪異であろうと想像される。今では遠い停車場の機関車の出し入れの音が時として非常に間近く聞こえるといったような現象と姿を変えて注意されるようになった。たぬきもだいぶモダーン化したのである。このような現象でも精細な記録を作って研究すれば気象学上に有益な貢献をする事も可能であろう。
天狗てんぐ」や「河童かっぱ」の類となると物理学や気象学の範囲からはだいぶ遠ざかるようである。しかし「天狗様のおはやし」などというものはやはり前記の音響異常伝播の一例であるかもしれない。
 天狗和尚てんぐおしょうとジュースの神のわしとの親族関係は前に述べたが、河童や海亀うみがめの親類である事は善庵随筆ぜんあんずいひつに載っている「写生図」と記事、また※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)庭雑録いんていざつろくにある絵や記載を見ても明らかである。河童の写生図は明らかに亀の主要な特徴を具備しており、その記載には現に「亀のごとく」という文句が四か所もある。そうだとするとこれらの河童かっぱ捕獲の記事はある年のある月にある沿岸で海亀うみがめがとれた記録になり、場合によっては海洋学上の貴重な参考資料にならないとは限らない。
 ついでながらインドへんの国語で海亀うみがめを「カチファ」という。「カッパ」と似ていておもしろい。
 もっとも「河童かっぱ」と称するものは、その実いろいろ雑多な現象の総合とされたものであるらしいから、今日これを論ずる場合にはどうしてもいったんこれをその主要成分に分析して各成分を一々吟味した後に、これらがいかに組み合わされているか、また時代により地方によりその結合形式がいかに変化しているかを考究しなければならない。これはなかなか容易でないが、もしできたらかなりおもしろく有益であろうと思う。このような分析によって若干の化け物の元素を析出すれば、他の化け物はこれらの化け物元素の異なる化合物として説明されないとも限らない。CとHとOだけの組み合わせで多数の有機物が出るようなものかもしれない。これも一つの空想である。
 要するにあらゆる化け物をいかなる程度まで科学で説明しても化け物は決して退散も消滅もしない。ただ化け物の顔かたちがだんだんにちがったものとなって現われるだけである。人間が進化するにつれて、化け物も進化しないわけには行かない。しかしいくら進化しても化け物はやはり化け物である。現在の世界じゅうの科学者らは毎日各自の研究室に閉じこもり懸命にこれらの化け物と相撲すもうを取りその正体を見破ろうとして努力している。しかし自然科学界の化け物の数には限りがなくおのおのの化け物の面相にも際限がない。正体と見たは枯れ柳であってみたり、枯れ柳と思ったのが化け物であったりするのである。この化け物と科学者の戦いはおそらく永遠に続くであろう。そうしてそうする事によって人間と化け物とは永遠の進化の道程をたどって行くものと思われる。
 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。それをひもといてその怪異に戦慄せんりつする心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。
 私は時々ひそかに思う事がある、今の世に最も多く神秘の世界に出入するものは世間からは物質科学者と呼ばるる科学研究者ではあるまいか。神秘なあらゆるものは宗教の領域を去っていつのまにか科学の国に移ってしまったのではあるまいか。
 またこんな事を考える、科学教育はやはり昔の化け物教育のごとくすべきものではないか。法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬どうけいを吹き込む事が第一義ではあるまいか。これには教育者自身が常にこの不思議を体験している事が必要である。既得の知識を繰り返して受け売りするだけでは不十分である。宗教的体験の少ない宗教家の説教で聴衆の中の宗教家を呼びさます事はまれであると同じようなものであるまいか。
 こんな事を考えるのはあるいは自分の子供の時に受けた「化け物教育」の薬がきき過ぎて、せっかく受けたオーソドックスの科学教育を自分の「お化け鏡」の曲面に映して見ているためかもしれない。そうだとすればこの一編は一つの懺悔録ざんげろくのようなものであるかもしれない。これは読者の判断に任せるほかにない。
 伝聞するところによると現代物理学の第一人者であるデンマークのニエルス・ボーアは現代物理学の根本に横たわるある矛盾を論じた際に、この矛盾を解きうるまでにわれわれ人間の頭はまだ進んでいないだろうという意味の事を言ったそうである。この尊敬すべき大家の謙遜けんそんな言葉は今の科学で何事でもわかるはずだと考えるような迷信者に対する箴言しんげんであると同時に、また私のいわゆる「化け物」の存在を許す認容の言葉であるかとも思う。もしそうだとすると長い間封じ込められていた化け物どももこれから公然と大手をふって歩ける事になるのであるが、これもしかし私の疑心暗鬼的の解釈かもしれない。識者の啓蒙けいもうを待つばかりである。

(昭和四年一月、改造)





底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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