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一つの思考実験(ひとつのしこうじっけん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 6:06:42  点击:  切换到繁體中文


 私はこの二三年ロンドンタイムスの週刊を取っている。これがロンドンで出てから私の目にはいるまでにはどうしてもひと月以上はかかる。しかし私はそれがために、英国や欧州のみならず世界じゅうにおける重要な出来事をあまりにおそく知ったために、著しい損をしたと思った事がまだないように思う。のみならず、こちらの新聞の電報欄の不徹底な記事で読んだ時はなんの事だかわからずにいたいろいろの事がらが、これを読んで始めてふに落ちる事もしばしばある。これはおそらく自分のような迂闊うかつなものに限った事ではなく、始めにあげたようないわゆる善良にしてまじめな大多数の日本国民について同様に当てはまる事ではあるまいか。
 もしそうだとすれば、内国におけるいわゆる重要な出来事を十日ないし一月おくれて、そのかわりまとまった形でかなり確実に知るという事もそれほど不都合であろうとは思われない。それで不都合を感ずる人はもちろんあってもそれは前に繰り返して指摘しておいた少数の除外例に過ぎない。そうしてそれらの人は日刊新聞がなくなったところで決して困りはしない。困るとしたところでそういう人々の便宜のために大多数の幸福を犠牲にする必要は少しもない。

 あらゆる記事の中で、ほんとうにその日その日に知らなくては意味のないものは、捜してみると案外少ないものである。
 まず天気予報などがその一つである。これは今のところ一週間も前から予報を出す事は困難であり、またきのうの天気予報はきょうにとっては無意味であるから、どうしてもこれだけは日々に知らしてもらう必要がある。もっとも天気予報というもののほんとうの意味や価値はとかく誤解されがちであって、てんで始めから当てにしていない人がかなり多数である。そういう人は天気予報など知る必要を感じないでもあろうが、多少でも天気予報の原理に通じ、予報の適用の範囲を心得ている人にとっては、これは時にとっては非常に重宝なありがたいものである。しかしこれとても必ずしも新聞によらなくても他に報知する方法はいくらでもある。処々の交番なり電車停留所に掲示するもいいだろうし、処々に信号の旗を立てるもいいだろう。
 不幸の広告なども一週間とは待てない種類のものだと考えられるかもしれない。しかし私の考えでは、不幸の知らせは元来書状でほんとうの意味の知友にのみ出すべきもので、それ以外の人は葬式などがすんで後に聞き伝え、あるいは週刊旬刊でゆっくり知ってもたいしたさしつかえはないはずである。もしも国民の大多数の尊敬しあるいは憎悪するような人が死にでもすればそのうわさは口から口へいわゆる燎原りょうげんの火のように伝えられるものである。三月三日に井伊大老いいたいろうの殺された報知が電信も汽車もない昔に、五日目にはもう土佐とさ高知こうちに届いたという事実がある。今なら電報ですぐ伝わる。
 知名の人の旅立ちでも、新聞があるために妙な見送り人が増して停留場が混雑する。この場合にも前と同じ事が言われうる。
 展覧会、講演会、演芸、その他の観覧物も新聞広告で予告を受けて都合のいいものかもしれない。しかしこれらの大多数は十日ぐらい前からプログラムの作れぬものでもなし、またそうでなくても適当な掲示やビラによって有効に知らせる事ができる。一般の人々が毎朝起きて床の中でいながらに知らなければならない性質の事でもない。そういう刺激の目にふれないという事は、仕事に没頭している多くの人のためにはむしろ有利なくらいである。
 こういう新聞広告がなくなっても、芝居やキネマの観客が減る心配はないという事は保証ができる。興行者と常習的観客の間には必ず適当な巧妙な通信機関がいろいろとくふうされるに違いない。
 その他の多くの広告はたいてい日刊新聞によらなくてもすむものである。たとえば書籍雑誌の広告にしたところで、おそらく日本ほど多数でぎょうぎょうしいのはどこの国にもないかもしれない。そして広告のぎょうぎょうしさと書籍の内容は必ずしも伴なわない。これも実は断然やめたほうがいい。私だけの注文を言えば、書店の店頭の大きな立て札もやめてもらいたいくらいである。そのかわりにまじめな信用のできる紹介機関がほしい。なるべく公平な立場からあらゆる出版物を批評して、読者のために忠実な指導者となるものがあってほしい。これは完全を望む事は困難でもある度までは不可能ではない。たとえば科学の方面で言えばネチュアーの巻頭の紹介欄のようなものでもかなり便利である。たとえいくらか批評の見地が偏する恐れはあっても、利害を離れたそれぞれの専門家の忠実な紹介である限り、勝手のわからぬ読者がとんだにせ物を押しつけられる恐れは少ない。
 その他あらゆる商品の広告についても全く同様の事が言われる道理である。
 単に体裁の上からでも毒々しい広告欄をのけてしまったら今の新聞はもう少し気持ちのいいものになりはしないだろうか。われわれが朝の仕事に取りかかる際に、もう少し清らかな頭をもって、神聖であるべきその日の勤めに対する事ができはしまいか。そうしてただいたずらにいらだたしい心持ちから救われて、めいめいの大事な仕事の能率を高める事ができはしまいか。
 広告の次にいわゆる三面記事を取ってしまったらどのくらい気持ちがいいものになるだろう。昔「日本」という新聞があった。三面記事が少しもなくて、うるさいルビーがなかった。私は毎朝あれをただあけて見るだけで気持ちがよかった。ああいう新聞は今日では到底存在を維持しにくいそうである。
 今年の正月にノースクリッフきょうがコロンボでタイムスの通信員に話した談話の中に、「東洋の新聞の中では日本のがいちばん信用ができる。ただしいわゆる『第三面サードページ』として知られた notorious scandal のためにそこなわれてはいるが」とあった。この人のいう事がどこまで信用できるか私にはよくわからないが、ともかくも「第三面」は世界的の notoriety を保有している事になってはいると見える。
「三面」記事も純客観的に正しく書かれれば有益でありうる。たとえば議会や公判の筆記でも、それが忠実なものなら、すべての人の何かの参考になり、少なくも心理学者の研究材料ぐらいにはなる事が多い。それで日刊廃止の場合にこれに代わるべきものの社会記事はできるだけ純客観的で科学的であってほしい。そういう意味で有益なおもしろい記事をタイムス週刊の第一ページや処々の余白の埋め草に発見する事がある。
 もしかりに私がこのような週刊や旬刊の社会欄を編集するとしたらどういう記事をおもに出すだろうと考えてみた。人殺しや姦通かんつうなどを出すとしても、それらはなるべく少なくそして簡単にしたい。書くならばできるだけほんとうの径路を科学的に書く事によってすべての人の頭の奥に潜む罪の胚子はいしに警告を与えるようなものにしたい。しかしそういう例外な事件の記事よりも、日常街頭や家庭に起こりつつある、一見平凡でそうして多数の人が軽々に看過していて、しかも吾人の現在の生活に対して重要な意味のあるような事実を指摘し報道して、いくらかでも人々の精神的の幸福を増し不幸を予防するように努めるだけは努めたいものである。
 裏町の下水に落ちている犬を子供が助けてやった事実でも、自転車が衝突して両方であやまっていた実例でも適当に描かれれば有意義である。公園の花だよりでも動物園の鳥獣の消息でもなんらかの深い観察があれば何物かを読者に与える。それよりも起こるべくしてわずかに起こらないでいるあらゆる過失や危険の芽を摘発し注意を与える事がいっそう有益である。たとえば電車や公共建築物設備の不完全あるいは破損のために将来当然に起こるべきけがや病害を、とかく不手回りがちな当局者に先だって発見し注意したい。電車の不完全な救助網や不潔な腰掛け、倒れそうな石垣いしがきやくずれそうながけ、病菌や害虫を培養する水たまりやごみため、亀裂きれつが入りかかって地震があり次第断水を起こすような水道溝渠すいどうこうきょ、こわれて役に立たぬ自働電話や危険な電線工事、こういう種類のものを報道して一般の用心と当局の注意を喚起したい。
 社会の風教を乱すような邪教淫祠いんし、いかがわしい医療方法や薬剤、科学の仮面をかぶった非科学的無価値の発明や発見、そういうものに世人の多くが迷わされて深入りしない前にそれらの真価を探求したい。官衙かんがや商社における組織や行政の不備や吏員の怠慢に対しても犀利さいりな批評と痛切な助言を加えたい。
 これらのあらゆる探究摘発批評の動機が純粋に好意的のものでありたい。不備に対して当事者を攻撃し誹謗ひぼうする事よりもむしろ当事者の味方になり、そうして一般読者とともにその不備を除去する方法を講究する機関となる事を心がけたいものである。そういう心持ちがもう少しはっきり現われていさえすれば、現在の新聞でももう少し気持ちのよいものになりはしまいか。
 以上の理想を実現させるためには新聞社はあらゆる実務や学術技芸はもちろん一般思想上の各方面について第一流の人たちを記者として網羅もうらしなければならない。これはずいぶん困難な事かもしれない。しかし私は「社会の先導者」としての新聞のほんとうの使命を果たすためには、それはむしろやむを得ない当然の事ではないかと思っている。あらゆる方面の文化の先達となるためには、なるだけの根底を作らなくては無理ではあるまいか。

 このような考えから私の「実験」は一つの夢のような大新聞の設立に移って行った。
 この社の主脳を形成するものは、あらゆる官庁学校商社のみならず、各政党や宗教家思想家のあらゆる団体の代表的人物を網羅したものでなければならない。そしてそれらの社員は単に寄書家という格で外様大名とざまだいみょうのような待遇を受けるのでなくて、その社の仕事の全体に参与しかつ責任を負うものでなくてはならない。これらの記者たちはそれぞれ専門の方面で一般のために有益であるべきあらゆる重要事項の正確な報道紹介や、災害の防止に関する適切な助言や注意を提供し、また公共事業に対する問題を提出して最善の方案を公衆に求める事を努めなければならない。もちろんこれらの人々は一方ではそれぞれの本来の職務に従事しているが、その職務時間の若干をさいて公衆のためにこれらの記事を草するという事は少しも不都合とは思われないのみならず、むしろそういう事は職務に付帯した義務の一部分と考えられない事はない。またそういうものを記述する事によって各自の職務の遂行上有益な啓示ヒントを得る場合もかなり多いだろうと思われる。
 こういう大新聞社の経営を少数な資本家の手にゆだねるのは穏当ではあるまい、これはむしろ全国民自身か、少なくもその大部分の共同経営によるものとしなければなるまい。そうするためには経営維持に必要な費用は租税などと類似の方法で一般から集め、記者や編集員らも適当に組織された選挙制度によって定めるべきであろう。しかしこういう選挙制度にいつも付きまとう弊害を防止するためにはこれらの記者の地位を決して物質的に有利なものにしてはならない。記者たる事によって一身の利益を計るに便宜を得るような可能性は始めから除去するような制度組織が必要である。ほんとうに社会の利益のみしか考えない人ばかりならばその必要はないが、この用心はだれも知るとおり今のところどうしても必要である。
 もしこのような新聞社ができたとすれば、それは従来の意味の新聞社とはだいぶちがったものになる。むしろ国民社会一般の幸福安寧に資すべき調査研究報告機関のようなものになってしまう。こういうものは全国にただ一つあって、各地には適当に支局を分配して、中央を通じて相連絡すればよい。
 政治経済教育宗教学芸産業軍事その他ありとあらゆる方面にわたる現実の正確な知識を与え、一般の輿望よぼうに基づいて各当局の手の回らぬところを研究し補助して国家社会のあらゆる機関の円滑な融合を計るがために、こういう特別な一大組織を設けるという事は、むしろ一国の政府自身としても当然考えなければならない事のように思われる。単に小官衙しょうかんがの片すみの一課などに任しておくべきものではないとも思われる。
 もっともいうまでもなく現在の新聞というものも本来はこの仮想的の一大機関と同じような役目を果たすために生まれたものであろう。ただそれが遺憾ながら理想的に行っていないために、ここにこのような問題が起こったわけである。

 私の思考実験はまだわずかにこの程度までしか進んでいない。充分な洗錬を経ない以上、基礎前提にもまた推考の論理にも欠陥が多いかもしれない。それにもかかわらず私はこれだけの「実験」によって新聞というものに対する自分の考えにいくぶんかの進展を得、そして従来とはいくらか違った目で新聞に対する事ができるようになった。
 こんな実験をやっている矢先に都下の有力な新聞で旬刊が発行されるようになった。私の思考実験の一半はすでに現実化されたようでもあるが、残る半分すなわち日刊の廃止という事はちょっと実現される蓋然性がいぜんせいが乏しい。
 しかし旬刊週刊等の発行によって個人個人にこの実験を不完全ながらも遂行する事が可能になったように見える。すなわち旬刊週刊だけを読んで日刊には手を触れない事にすれば目的は達せられそうである。
 私は軽卒にこの実験を人にうる気はないが、ともかくもまず自分で試みたいという希望はもっている。しかし現在の旬刊や週刊が依然として日刊と並行して出ている限り、またその編集方法が私の考えているのと同一でないとすると、結局私の考えている思考実験は到底実行する事はできそうもない。
 日刊全廃というような問題を直ちに実行問題として考えるという事はあまりに現実を無視した痴人の夢であるかもしれない。しかし前にも述べたように、これをともかくも一つの思考実験としてできるだけ慎重に徹底的に考えてみるという事は、新聞読者にとってもまた新聞当事者にとってもかなりおもしろくもありまた有益な仕事であるに相違ない。そしてその結果はおそらくだれにもなんらの損害をも与えるような性質のものではないと信じている。

(大正十一年五月、中央公論)





底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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