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備忘録(びぼうろく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 6:07:51  点击:  切换到繁體中文


     線香花火

 夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。
 はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹ぼたんの花弁のように放出され、その反動で全体は振り子のように揺動する。同時に灼熱しゃくねつされた熔融塊ようゆうかいの球がだんだんに生長して行く。炎がやんで次の火花のフェーズに移るまでの短い休止期ポーズがまた名状し難い心持ちを与えるものである。火の球は、かすかな、ものの煮えたぎるような音を立てながら細かく震動している。それは今にもほとばしり出ようとする勢力エネルギーが内部に渦巻うずまいている事を感じさせる。突然火花の放出が始まる。目に止まらぬ速度で発射される微細な火弾が、目に見えぬ空中の何物かに衝突して砕けでもするように、無数の光の矢束となって放散する、その中の一片はまたさらに砕けて第二の松葉第三第四の松葉を展開する。この火花の時間的ならびに空間的の分布が、あれよりもっと疎であってもあるいは密であってもいけないであろう。実に適当な歩調と配置で、しかも充分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。私の母はこの最後のフェーズを「散り菊」と名づけていた。ほんとうに単弁の菊のしおれかかったような形である。「チリギクチリギク/\」こう言ってはやして聞かせた母の声を思い出すと、自分の故郷における幼時の追懐が鮮明によび返されるのである。あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇よいやみである。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。
 実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。
 ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光せんこうは光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。これも日本固有文化の精粋がアメリカの香のする近代文化に押しのけられて行く世相の一つであるとも言いたくなるくらいのものである。
 線香花火の灼熱しゃくねつした球の中から火花が飛び出し、それがまた二段三段に破裂する、あの現象がいかなる作用によるものであるかという事は興味ある物理学上ならびに化学上の問題であって、もし詳しくこれを研究すればその結果は自然にこれらの科学の最も重要な基礎問題に触れて、その解釈はなんらかの有益な貢献となりうる見込みがかなりに多くあるだろうと考えられる。それで私は十余年前の昔から多くの人にこれの研究を勧誘して来た。特に地方の学校にでも奉職していて充分な研究設備をもたない人で、何かしらオリジナルな仕事がしてみたいというような人には、いつでもこの線香花火の問題を提供した。しかし今日までまだだれもこの仕事に着手したという報告に接しない。結局自分の手もとでやるほかはないと思って二年ばかり前に少しばかり手を着けはじめてみた。ほんの少しやってみただけで得られたわずかな結果でも、それははなはだ不思議なものである。少なくもこれが将来一つの重要な研究題目になりうるであろうという事を認めさせるには充分であった。
 このおもしろく有益な問題が従来だれも手を着けずに放棄されてある理由が自分にはわかりかねる。おそらく「文献中に見当たらない」、すなわちだれもまだ手を着けなかったという事自身以外に理由は見当たらないように思われる。しかし人が顧みなかったという事はこの問題のつまらないという事には決してならない。
 もし西洋の物理学者の間にわれわれの線香花火というものが普通に知られていたら、おそらくとうの昔にだれか一人や二人はこれを研究したものがあったろうと想像される。そしてその結果がもし何かおもしろいものを生み出していたら、わが国でも今ごろ線香花火に関する学位論文の一つや二つはできたであろう。こういう自分自身も今日まで捨ててはおかなかったであろう。
 近ごろフランス人で刃物を丸砥石まるといしでとぐ時に出る火花を研究して、その火花の形状からその刃物の鋼鉄の種類を見分ける事を考えたものがある。この人にでも提出したら線香花火の問題も案外早く進行するかもしれない。しかしできる事なら線香花火はやはり日本人の手で研究したいものだと思う。
 西洋の学者の掘り散らした跡へはるばる遅ればせに鉱石の欠けらを捜しに行くもいいが、われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかしそれを掘り出すには人から笑われ狂人扱いにされる事を覚悟するだけの勇気が入用である。

     金米糖

 金米糖こんぺいとうという菓子は今日ではちょっと普通の菓子屋駄菓子屋だがしやには見当たらない。聞いてみるとキャラメルやチョコレートにだんだん圧迫されて、今ではこれを製造するものがきわめてまれになったそうである。もっとも小粒で青黄赤などに着色して小さなガラスびんに入れて売っているのがあるが、あれは少し製法がちがうそうである。
 この金米糖のできあがる過程が実に不思議なものである。私の聞いたところでは、純良な砂糖に少量の水を加えてなべの中で溶かしてどろどろした液体とする。それに金米糖の心核となるべき芥子粒けしつぶを入れて杓子しゃくし攪拌かくはんし、しゃくい上げしゃくい上げしていると自然にああいう形にできあがるのだそうである。
 中に心核があってその周囲に砂糖が凝固してだんだんに生長する事にはたいした不思議はない。しかしなぜあのようにつのを出して生長するかが問題である。
 物理学では、すべての方向が均等な可能性をもっていると考えられる場合には、対称シンメトリーの考えからすべての方面に同一の数量を付与するを常とする。現在の場合に金米糖が生長する際、特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない、それゆえに金米糖は完全な球状に生長すべきであると結論したとする。しかるに金米糖のほうでは、そういう論理などには頓着とんちゃくなく、にょきにょきと角を出して生長するのである。
 これはもちろん論理の誤謬ごびゅうではない。誤った仮定から出発したために当然に生まれた誤った結論である。このパラドックスを解くかぎはどこにあるかというと、これは畢竟ひっきょう、統計的平均についてはじめて言われうるすべての方向の均等性という事を、具体的に個体にそのまま適用した事が第一の誤りであり、次には平均からの離背が一度でき始めるとそれがますます助長されるいわゆる不安定の場合のある事を忘れたのが第二の誤りである。
 平均の球形からの偶然な統計的異同 fluctuation が、一度少しでもできて、そうしてそのためにできた高い所が低い所よりも生長する割合が大きくなるという物理的条件さえあればよい。現在の場合にこの条件が何であるかはまだよくわからないが、そのような可能性はいくらも考え得られる。
 おもしろい事には金米糖の角の数がほぼ一定している、その数を決定する因子が何であるか、これは一つのきわめて興味ある問題である。
 従来の物理学ではこの金米糖の場合に問題となって来るような個体のフラクチュエーションの問題が多くは閑却されて来た。その異同がいつも自働的に打ち消されるような条件の備わった場合だけが主として取り扱われて来た。そうでない不安定の場合は、言わば見ても見ぬふりをして過ぎて来た。畢竟ひっきょうはそういうものをいかにして取り扱ってよいかという見当がつかなかったせいもあろうが、一つにはまた物理学がその「伝統の岩窟がんくつ」にはまり込んで安きをぬすんでいたためとも言われうる。
 物理学上における偶然異同の現象の研究は近年になっていくらか新しい進展の曙光しょこうを漏らし始めたように見えるが、今のところまだまだその研究の方法も幼稚で範囲もはなはだ狭い。
 そういう意味から、金米糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい。
 同じ意味で将来の研究問題と考えられる数々の現象の一つは、リヒテンベルクの放電図形である。これも従来はほとんど骨董的こっとうてき題目だいもくとして閑却され、たまたまこれを研究する好事家こうずかは多くの学者の嘲笑ちょうしょうを買ったくらいである。ところが皮肉な事には最近に至ってこの現象が電気工学で高圧の測定に応用される可能性が認められるようになって、だんだんこの研究に従事する人の数を増すように見える。しかし今までのところまだだれもこの現象の成因について説明を試みた人はない。しかるにこの現象はその根本の性質上おのずから金米糖の生成とある点まで共通な因子をもっている。そしておそらく将来ある「一つの石によって落とさるべき二つの鳥」である。
 生物学上の「生命」の問題に対しては、今のところ物理学はなんら容喙ようかいの権利をもたない。ロード・ケルヴィンは地球上の生命の種子が光圧によって星の世界から運ばれたという想像を述べた。しかしそれは生命そのものの起原に対しては枝葉の問題である。今のままの物理学ではおそらく永久に無力であろうが、もし物理学上の統計的異同の研究が今後次第に進歩して行けばこの方面から意外のかぎが授けられて物質と生命との間に橋を架ける日が到着するかもしれないという空想が起こる。
 街上を往来している人間の数についてある統計を取ってみると、その結果は、個々の人間もあたかも無生のガス分子ででもあると同様な統計的分布を示す事が証明される。もし人間以外のあるものが他の世界からこれら街上の人間についてただこのような統計的分布に関係した事がらのみを観察していたならば、そのものの目には、人間は無生の微分子としか見えないであろう。そうして、その同じ微分子が、一方で有機的な国家社会的の機関を構成しているのを見てその有機体の生命の起原を疑い怪しむに相違ない。
 このアナロジーから喚起される一つの空想は、もしや生命の究極の種が一つ一つの物質分子の中にすでに備わっているのではないかという事である。物理学者はおそらくただその統計的の現われのみを観察しているのではないだろうか、そうして無生の微粒と思っているものが生物という国家を作り社会を組織しているのに会って驚き怪しんでいるのではないだろうか。
 同一元素の分子の個々のものに個性の可能性を認めようとした人は前にもあった。ついでに原子個々にそれぞれ生命を付与する事によって科学の根本に横たわる生命と物質の二元をひとまとめにする事はできないものだろうか。
 金米糖の物理から出発したのが、だんだんに空想の梯子はしごをよじ登って、とうとう千古の秘密のなぞである生命の起原にまでも立ち入る事になったのはわれながら少しく脱線であると思う。近年の記録を破ったことしの夏の暑さに酔わされた痴人の酔中語のようなものであると見てもらうほうが適当かもしれない。
 それにしてもこのおもしろい金米糖が千島ちしまアイヌかなんぞのように滅びて行くのは惜しい。天然物保存に骨を折る人たちは、ついでにこういうものの保存も考えてもらいたいものである。

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