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マーカス・ショーとレビュー式教育(マーカス・ショーとレビューしききょういく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 6:26:23  点击:  切换到繁體中文


 筋の通った劇よりも、筋はなくて刺戟と衝動を盛り合わせたレビューの流行はやる現代に、同じような傾向が色々の他の方面にも見られるのは当然のことかもしれない。それについて先ず何よりも先に思い当るのは現代の教育のプログラムである。
 習字と漢籍の素読そどくと武芸とだけで固めた吾等の父祖の教育の膳立ては、ともかくも一つのイデオロギーに統一された、筋の通り切ったものであった。明治大正を経た昭和時代の教育のプログラムはそれに比べてたしかにレビュー式である。盛り沢山の刺戟はあるが、あとへ残るまとまった印象はややもすれば甚だ稀薄である。
 単に普通教育、中等教育の内容全体がそうであるのみならず、その中のある一つの科目の教科書がまたそれぞれにレビュー式である。読本とくほんをあけて見る。ありとあらゆる作者のあらゆる文体の見本が百貨店の飾棚のごとく並べられてある。今の生徒は『徒然草つれづれぐさ』や『大鏡』などをぶっ通しに読まされた時代の「こく」のある退屈さを知らない代りに、頭に沁みる何物も得られないかもしれない。
 自分等が商売がら何よりも眼につくのは物理学の中等教科書の内容である。限られた紙幅の中に規定されただけの項目を盛り込まなければならないという必要からではあろうが、実にごたごたとよく色々のことが鮨詰すしづめになっている。一頁の中に三つも四つもの器械の絵があったりする。見ただけで頭がくらくらしそうである。そうしてそれらの挿図の説明はというとほとんど空っぽである。全く挿図のレビューである。そのうちの一つだけにして他は割愛して、その代りその一つをもう少し詳しく分かるように説明した方が本当の「物理」を教えるためには有効でありそうに思われる。それからまた、近頃の教科書には本文とは大した関係のないしかし見た眼に綺麗なような色々の図版を入れることが流行はやるようである。これも一体「物理」とどんな関係があるのか少なくも本文をよんだだけではちっとも分からない。
 汽車弁当というものがある。折詰の飯に添えた副食物が、色々ごたごたと色取りを取り合せ、動物質植物質、脂肪蛋白澱粉でんぷん甘酸辛鹹かんさんしんかん、という風にプログラム的に編成されているが、どれもこれもちょっぴりで、しかもどれを食ってもまずくて、からだのたしになりそうなものは一つもない。
 物理の教科書を見るたびに何となくこの汽車弁当を思い出すのであったが、今度レビューを見学してからレビューと教科書の対照を考えさせられるような機会に接した。
 多くのレビューでは、見ている間だけ面白くて、見てしまったあとでは綺麗に忘れてしまうのがむしろその長所であり狙い所ではないかと思うが、物理やその他の科学の教科書はそれでは困りはしないか。
 三つのものを一つに減らしてもその中の一番根本的な一つをみっしりよく理解し呑込んでしまえば、残りの二つはひとりでに分かるというのが基礎的科学の本来の面目である。そうでなくても一つのものをよく玩味がんみしてそのうまさが分かれば他のものへの食慾はおのずから誘発されるのである。沢山に並べた栗のいがばかりしゃぶらせるような教科書は明らかに汽車弁当に劣ること数等であろう。
 一体「教えるためには教えない術が必要である。」というパラドックスが云わば云い得られなくはない。
 中学校でS先生から生物学の初歩を教わったときの話である。主に口授を筆記するのであったが、たまたま何かの教材の参考資料として、英国製で綺麗な彩色絵の上に仮漆ワニスを引いた掛図を持出し、その中のある図について説明をした。その図以外に色々珍しい何だか分からないものの絵が沢山あってそれが吾々の強い好奇心を刺戟したが、勿論講義に関係のないそれらの絵については先生は一言も触れなかった。その不可解な絵が妙に未知の不思議の世界に対する知識欲を刺戟しそれがいつとなく植物学全体への興味をあおるのであった。もしもあの時に先生が掛図の色々の絵の一つ一つを残らず通り一遍の簡単な説明ででて通ったのであったら、効果はおそらくまるで反対のものになりはしなかったかと想像される。
 教科書に挿入された色々な綺麗な図版などはおそらくこのS先生の掛図と同様な効果を狙ったものかもしれないが、これは失敗である。何故かと云えばS先生のは一と口うまいものを食わせておいて、その外に色々の旨そうなものをちらと見せたきり引込めてしまう流儀であるが、教科書は一向うまくない汽車弁当のおかずの品々を無理やりに口の中へ押し込むような流儀だからである。
 光の反射屈折に関する基礎法則を本当によく呑込ませることに全力を集注し、そうしてそれを解説するに最適切な二、三の実例を身にしみるように理解させれば、その余の複雑な光学器械などは、興味さえあらば手近な本や雑誌を見てひとりで分かることである。何も中学校で一々無理に教える必要はないと思われる。電流と磁気との基礎的な関係をゆっくり丁寧になるべく簡単な実験で十分徹底的に諒解させれば、ダイナモやモーターの色々な様式などは三文雑誌にでも譲って沢山であろう。しかし、そういう一番肝心な基礎的なことがよく分からないで枝葉のデテールをごたごたに暗記して、それで高等学校の入学試験をパスし、大学の関門を潜り、そうして極めてスペシァルなアカデミックな教育を受けて天晴あっぱれ学士となり、そうしてしかも、実はその専門の学問の一番エレメンタリーな第一義がまるで分かっていないというスペシァリストは愚か大家さえ出来るという実に不思議な可能性が成立するのである。
 物理のような基礎科学の教科書が根本の物理そのものはろくに教えないで瑣末さまつな枝葉の物理器械や工学機械のカタログを暗記させるようなものでは困ると思う。レビュー式でも本当に面白いレビューならまだしも、さっぱり面白くない百景を並べたのでは全く生徒が可愛相かわいそうである。結局は物理学そのものが嫌いになるだけであろう。
 レビュー見学のノートから脱線してつい平生胸に溜まっていた教科書の不平をこぼしてしまったが、こういう脱線もまた一つのレビュー的随感録の一様式中の一景として読者の寛容を願いたいと思う。
 政府の統制の下に組織された教育のプログラムがレビュー式であるくらいだから、民間の営利機関の手に成る大衆向けの教育機関であるところの雑誌や新聞のレビュー式ないしは汽車弁当式であることは当然である。たまたまレビュー式でない雑誌はあるが、そういうのは特別な関係の誌友類似の予約講読者のあるものに限るので、一般大衆を相手にするものは出来るだけレビュー式編輯法を採らなければ経営が困難だということである。誠に尤もな次第と思われる。
 一体レビュー式ということには何もそれ自身に悪い意味は少しもないはずである。善用すればむしろ非常に好い効果をあげ得べき可能性を多分にもっているものである。
 近頃ある薬学者に聞いた話であるが、薬を盛るのに、例えば純粋な下剤だけを用いると、どうも結果は工合よく行かない、しかし下剤とは反対の効果を生じるような収斂剤しゅうれんざいを交ぜて施用しようすると大変工合がよいそうである。つまり人間の体内に耆婆扁鵲ぎばへんじゃく以上の名医が居て、それが場合に応じて極めて微妙な調剤を行って好果を収めるらしいというのである。「それじゃ結局昔の草根木皮を調合した万病の薬が一番合理的ではないか」と聞いたら「まあ、そんなものだね」という返事であった。自分に必要なものを選択して摂取し、不用なもの有害なものを拒否し排出するのが、人間のみならずあらゆる生物の本性だということは二千年前のストア哲学者が既に宣言していることである。生物が無生物とちがうのもこの点においてである。
 これも近頃聞いた話であるが、稲の生長を助けるアゾトバクテルという黴菌ばいきんがある。また同じような作用をする原生動物プロトゾアがある。ところが最近の日本の学者の研究によると、この二つのものを別々でなく同時に作用させると両方の作用が単に加算的アディチブでなくてそれ以上に有効だということである。云わば一と一とで二以上になるというのである。お互いにセンシタイズするような作用をするらしい。
 人間が知識を摂取する場合でもよく似たことがある。自分に最も必要な知識は頭にしみやすく、あまり役に立たぬようなものは一度呑込んでもすぐに排出し忘れてしまう傾向がある。また甲乙二つの知識が単独には大した役に立たないのが二つ一処いっしょになったおかげで大変な役に立ったという例はいくらでもある。
 そういう考えからすれば、あまり純粋な化学薬品のような知識を少数に授けるよりは、草根木皮や総菜のような調剤と献立を用いることもまた甚だ必要なことと思われて来る。つまりここでうレビュー式教育も甚だ結構だということになるのである。
 そうかと云ってまた無理やりに嫌がる煎薬せんやくを口を割って押し込めば利く薬でももどしてしまい、まずい総菜をいるのでは結局胃を悪くし食慾を無くしてしまうのがおちである。下手なレビューを朝から夜中まで幕なしに見せられるようなものであろうと思われる。
 熱で渇いた口に薫りの高い振出ふりだしをのませ、腹のへったものの前に気の利いた膳をすえ、仕事に疲れたものに一夕の軽妙なレビューを見せてこそ利き目はあるであろう。
 雑誌や新聞ならば読みたいものだけ読んで読みたくないものは読まなければよいのであるが、学校の教育ではそういう自由は利かない。それをすれば落第させられる。無拠よんどころなく教程を鵜呑うのみにする結果は知識に対する消化不良と食慾不振である。
 教えるためには教えないことが肝心である。もう一杯というところで膳を取り上げ、もう一と幕と思うところで打出しにするという「節制」は教育においてもむしろ甚だ緊要なことではないか。この点について世の教育者、特に教科書の内容に関する一切の膳立ての任に当る方々の考慮を煩わしたいと思う次第である。
 教育者はそういう点から考えても時々はレビューでも映画でも大衆雑誌でも、およそ現代の少青年の心を捕える限りの民衆教育機関を見学し研究し、そうして、そういうものの如何なる因子が民衆に働きかけるかを分析して、その分析の結果を各自の仕事の上に応用すべきではないかと思われる。現代民衆の心理を無視した学者達が官庁の事務机の上で作り上げた教程のプログラムは理論上如何に完全に出来ていても、活きて動いている時代の人間の役に立つ教育には少しどうかと思われるのである。

 庭の霧島つつじが今盛りで、軒の藤棚の藤も咲きかけている。
 あらゆるレビューのうちで何遍繰返し繰返し観ても飽きない、観ればみる程に美しさ面白さの深まり行くものは、こうした自然界のレビューである。この面白いレビューの観賞を生涯の仕事としている科学者もあるようである。ずいぶん果報な道楽者だとも云われるであろう。
 ここまで書いて筆をくつもりでいたら、その翌日人に誘われて国宝展覧会を観に行った。古い絵巻物のあるものを見ていたらその絵の内容とその排列に今のレビューと実によく似たものがあることに気が付いた。やはりあめしたに新しいものは一つもないと思ってひとりで感心して帰って来たのであった。

(昭和九年六月『中央公論』)





底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年12月13日作成
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