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亮の追憶(りょうのついおく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 17:25:40  点击:  切换到繁體中文



 りょうは自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科学上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出来事でも、その事がらの表面に現われている現象よりも、その現象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奥底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶はんもんはおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、りょうはどんなに気らくであったろう。
 こういう不安と煩悶はんもんをいだきつつ、学校へ出ては発酵化学の実験をやり、バクテリヤの培養などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席よせや芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麦そば汁粉しるこを食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。
「本日は弟と歌舞伎座かぶきざに行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、学業に対する不忠実、このようなものが入り乱れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない。しかし芝居のようなざわざわしている所がいちばん『忘れる』に適している。」
 その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。学校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭すえひろていへ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ。」
 心のさびしさが不養生をさせ、その結果がさびしさを増していたのである。
 四十三年一月下旬に父の春田居士しゅんでんこじが死んだ。その年の三月からりょうは学校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州そうしゅうへんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に国へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から学校へかよっていたが、翌年にそれでもどうにか卒業した。
「……ことしで、はや、三度学校をしくじって、今度やっと末席で卒業する事ができた。しかし卒業したのはやはりうれしかった。そして神田かんだの西洋料理でやった謝恩会へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた。」こんな事が「どうなりゆくか」と題した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業はともかくもりょうにとっても一つの一大転機であった。
 この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
 かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでのりょうはだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
 交際という事には全く慣れず、あらゆる実務という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任当座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違い多きを恐れて、ますます間違いを生ず」という文句が入学式のあった日の日記にあるのも、そのへんの消息を語っているように見える。しかし格別の大失態というほどの事もなくて、後には教頭や舎監も勤めているのを見ると、そういう地位にでもどうにか適応するだけのものはやはり備えていたものと見える。亮の子供の時からの外見だけで彼を判断していた老人などは、そういう役目の勤まるのをむしろ不思議に感じていたらしい。
 いつだったか、かの地からよこした手紙に、次のような意味の事があった。
 今までは、何物にもぶつかるという事なしに、遠くからガラスの障子越しにながめるばかりで、それでいろんな事を空想しては恐ろしがってばかりいたが、今日ではもういやでも物にぶつからなければならない。そうなると空想をするだけの余裕はなくなる。そして存外勇気が出て来る。
 またこんな事もあった。「うまく物事をやろうというような気の出るのがいちばん困る。」
 卒業就職の後ともかくも神経衰弱は大部分えたようであった。ただかの地の冬の冷湿の気候が弱いからだにこたえはしまいかと心配していたが、割合にしばらくは無事であった。
 かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外国文学の輪講会をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満足させるだけの環境はあったらしい。静かな田舎いなかで地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン・ローランを読んだりセザンヌや親鸞しんらんの研究をしたり、生徒に化学などを授けると同時に図画を教えたり、時には知人の肖像をかいてやったりするような生活は、おそらくりょうが昔から望んでいた理想によほど近いものではなかったかと思う。前に出した「どうなりゆくか」の中にも「単純な仕事に、他の事は考えるひまなく、忙しく働いた後、湯にでもはいってゆったりして、本でも読むか、紅茶でも飲みながら、好きな絵でも見るような生活がやってみたい」とあるが、この望みはいくらか遂げられたのではないかと思われる。
 セザンヌの好きであった彼のそのころの日記にこんな事がある。「セザンヌの絵のような境地に至りたいと思いながら、今までその内容すなわちそれまでに至る努力を考えなかった。神にすべてをまかせて、安心して、自己の真を打ち出して、運命を直視し、苦しみ悲しみながら進もう。そしてシンプルな、落ち着いた、セザンヌの絵のような境地に達しよう。」またこんな事もある。「トルストイは人生の帰趣を決めてしまおうとした。そこに不自然があり無理がある。そこに芝居気が生ずる。」
 学校の職務について苦労のない事はなかった。学校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の断片のようなものなどから判断してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛の足りない事を悔やんでいたようである。
 生徒にはそれでも相当に厳格であったらしい。舎監としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまたりょうに「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきややせてひょろ長く、猫背ねこぜを丸くしている格好などから名づけたものであろう。実際そういえばそうらしい様子もあった。しかし彼の風貌ふうぼうにはどことなく心の奥底のやさしみと美しさが現われていたように思う。生徒のこのあだ名から私はどうしても単純な憎悪や嫌忌けんきを読み取る事ができない。
 友だちといっしょに酒を飲んだりする時には、どうかすると元気がよくて、いつになく高談放語したり、郷里の昔の武士の歌った俗謡をどなったりする事もあったそうであるが、これはどうもやはりりょうのおもな本性ではなかったように私には思われる。ただもう少し健康で、もう少し体力が盛んであったら、こういう方面がもう少し平生にも現われたかもそれはわからない。
 弱いからだにとうとう不治の肺患が食い込んでしまった。東京の医師にてもらうために出て来て私のうちで数日滞在してから、任地近くの海岸へしばらく療養に行っていたが、どうもはかばかしくないので、学校を休職して郷里の浜べに二年余り暮らした。天気がいいと油絵のスケッチに出たりしていたようである。ほんとうに突っ込んでかきたいと思っても、ついめんどうでいいかげんにごまかしてしまうのが残念だというような事を手紙の端に書いてあったりした。そのころのスケッチ帳に亮の妻が亮の寝顔を写生したのがあるが、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言っていとまごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。
 急を聞いて国へ帰っていたりょうの弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような心持ちがした。ほとんど予期されていた亮の最後が、それほど安らかで静かで美しいものであったと知った時には、思わず「それはよかった」といったような不倫な言葉が自然に口から出た。そうしてそのあとから水のにじみ出るようなさびしさが襲って来るのであった。
 散るべくしてわずかに散らないでいたきりの一葉が、風のない静かな夕べにおのずから枝を離れて落ちたような心持ちがした。自分の魂の一部分がもろく欠け落ちて永久に見失われたというような心持ちもした。
 りょうの死の報知が伝わった時に、F町の知友たちは並み並みならぬ好意を故人の記念の上に注いでくれた。生前から特別な恩典を与えて心安く療養をさせてくれた学校当局は、さらに最後の光栄を尽くさしてくれた。親しかった人々は追悼会や遺作展覧会を開いてくれ、またいろいろの余儀ない故障のために親戚しんせきのものだれ一人片付けに行く事のできなかった遺物の処理までも遺憾なく果たしてくれた。そしてこの処理の中に一通りならぬ濃まやかな心づかいのこもっているのを感じないわけには行かなかった。
 そのほかの知友の中でも、中学時代からの交遊の跡を追懐した熱情のこもった弔詞を寄せられた人や、また亮が読むべくしてついに読む事のできなかった倉田くらた氏の著書の巻頭に懇篤な追悼文を題して遺族に贈られた人もあった。
 私はここでそういう人々の名前をあげて感謝の意を述べたいような気がする。しかし私の頭にある故人のある資質を考えると、かえってそうしないほうがよいようにも思う。
 ただそれらの人たちに対する遺族や一門の厚い感謝の念は、故人の記憶の消えない限り消える事はあるまい。
 年取って薄倖はっこうりょうの母すらも「亮は夭死ようしはしたが、これほどまでに皆様から思っていただけば、決してふしあわせとは思われない」とそう言っている。私もほんとうにそう思う。
 これだけの好意を人から寄せられるには、やはりよせられるだけのある物があったに相違ない。そのある物がこの世に残っている限り、死ぬという事はそんなにさびしい事ではあるまい。
 亮には一人の子供もなかった。そして子供をほしがっていた時代もあった。死の迫るを知った時になってどう思ったかわからないが、ただなんとなくそれがさびしくはなかったかと思う。
 りょうはたしかに弱い男には相違なかった。しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平静な水面のような外見の底に不断に起こっていた渦巻うずまきがいかに強烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強い人々よりも幾倍も強い男であったかもしれない。
 亮のような柔らかい心臓と彼のような透明な脳とを同時にもって生まれるという事は、現世にあっては不幸な事かもしれない。防御のない急所を矢弾やだまの雨にさらすようなものかもしれない。その上にまた亮は弱い健康には背負いきれない「生」の望みを背負っていた。そういう不調和の結合から来るいろいろの苦悩は早くから亮の心を宗教に向かわせた。始めはキリストの教えを通ってついには親鸞しんらんの門にはいった。最後にどこまで進んでいたかはわからないが、ただ彼の短い生涯しょうがいが決してそれほど短いものでなかったという事だけは言えるように思う。

(大正十一年五月、明星)





底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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