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レーリー卿(レーリーきょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-4 17:28:45  点击:  切换到繁體中文


 その後アメリカでローランド、マイケルソン、アンダーソン等によって優秀な金属製格子が作られ、またソープ、ウォーレス(Thorpe & Wallace)のセルロイド鋳型いがたなどが出来て、レーリーの転写は実用にはならなくなった。しかしレーリーの貢献はこの研究から導かれた分光器の分解能に関する理論的研究であった。今から見れば誰でも気の付きそうなこの問題に当時まだ誰も気が付いていなかったのである。レーリーは五年かかってこの研究を完成し、格子のみならず、プリズムの場合をも補足した。これらの結果を纏めて Phil. Mag. に出したとき "I wonder how it will strike others. To me it now seems too obvious." と私信の中に書いている。これも一つのコロンバスの玉子であろう。
 一八七九年の十一月五日にマクスウェルが死んだので、ケンブリッジではキャヴェンディッシ講座の後任者が問題となった。ウィリアム・タムソンは到底引受ける見込がなかったので、人々の目指すところはレーリー卿であった。タムソンはレーリーに手紙を書いた。「自分は生涯グラスゴーを離れられない因縁がある。貴方が引受けてくれれば誠に喜ばしい。しかし教授の職に附帯したうるさい仕事のために研究が出来なくなるという心配があれば、また適当な後任者の出来るまで当分の間だけ引受けるというのだったら、むしろ御断りになる方がいいと思う」という意味のことを忠告した。万事控え目なストークスは一切黙っていた。
 当時レーリーの家の財政は前述のようにかなり困難な状態にあった。相続当時計画していたような大規模な研究室を作り、数人の有給助手をおくような望みは絶えてしまった。こういう環境の下にレーリーは遂に就任を承諾した。そうして一八七九年十二月十二日にこの名誉な椅子に就いた。
 当時のキャヴェンディッシ研究室はかなり貧弱なものであった。日常の費用はマクスウェルの小使銭から出るような始末であったので、レーリーは取敢えず研究資金の募集にかかった。先ず自分で五〇〇ポンド、当時の名誉総長デヴォンシャヤー公が五〇〇ポンド出した。その他の寄附を合計して一五〇〇ポンドを得た。また教授のポケットにはいる学生の授業料もこの方につぎ込むということにした。
 学生に一般的な初歩の実験を教えるという案を立てたが、その頃まだ学生用の器械などは市場になかった。幸いにジェームス・スチュアルト教授の器械工場の援助を得て、簡単で安いガルヴァなどを沢山作らせることが出来た。
 マクスウェルから引継いだ助手は、事務家ではあったがあまり役に立たなかった。それが間もなく死んだので後任者を募集したときに出て来たのがジョージ・ゴルドン(George Gordon)であった。もとリヴァプールの船工であっただけに、木工、金工に通じていたのみならず、暇さえあれば感応コイルを巻いたり、顕微鏡のプレパラートを作ったりするような男であった。田舎弁で饒舌しゃべり立てるには少し弱ったが、しかし大変気に入って、これがとうとう終りまでレーリーの伴侶となったのである。レーリーの立派な仕事の楽屋にはこの忠実な田舎漢でんしゃかんのかくれていた事を記念したい。
 レーリーは器械が役に立ちさえすれば体裁などは構わなかった。それでゴルドンがいよいよ最後の「仕上げ」にかかる頃には、早速召し上げて行って使った。
 マクスウェル付きの demonstrator が辞任したあとへグレーズブルックとショー(R.T.Glazebrook & W. N. Shaw)が就任した。この二人の手を借りて学生の実験演習の系統的なコースを設立した。この、現在我国の大学でもやっているような規則正しいコースがケンブリッジに無かったのである。このコースを書物に纏めたのがすなわち Glazebrook & Shaw : Practical Physics である。感じ炎の実験などがあるところにレーリーの面影が出ている。
 レーリーの最初の講義は「物理器械使用法」で、次は「湿電気(galvanic electricity)と電磁気」であった。当時まだ galvanic electricity などという語が行われていたのである。聴講者はただの十六人であった。この数は彼の在職中あまり変化はなかった。当時の思い出を書いたシジウィック夫人(レーリー卿夫人の姉エリーノア)の記事に拠ると「彼が人々の研究を鼓舞し、また自分の仕事の援助者を得るに成効した所以ゆえんは、主に彼の温雅な人柄と、人の仕事に対する同情ある興味とであった」。彼はこの教授としての仕事を充分享楽しているよに見えた。「彼の特徴として、物を観るのに広い見地から全体を概観した。樹を見て森を見遁みのがすような心配は決してなかった。」「いつでも大きな方のはしっこ(big end)をつかまえてかかった。」「手製の粗末な器械を愛したのも畢竟ひっきょう同じ行き方であった。無用のものは出来るだけなくして骨まで裸にすることを好んだ。」
 ナイルの河船でレーリーから数学を教わったエリーノア嬢は、その後シジウィック夫人となってからはケンブリッジに居を構えていた。そうしてレーリーの在職中は絶えず彼の研究の助手となって働くことを楽しみとしていた。することが綿密丹念で手綺麗で、面倒な計算をチェックしたり、実験の読取りを記帳し、また自分でも読取りをやった。レーリーの論文にこの婦人と共著になったものがいくつかある。
 就任当時は従来やりかけていた「水のジェットに対する電気の作用」などをやっていたが、そのうちに彼の頭の中では大規模の仕事の計画が熟しつつあった。すなわち電気単位の測定を決定的にやり直すことであった。先ず最初にオームの測定にかかった。一八六三―六四年にマクスウェルその他の委員によって設定された B. A. 単位はその後コールラウシュ、ローランド、ウェーバー等の測定で十二パーセントの開きを生じていたのである。この仕事にはアーサー・シュスターが加担し、シジウィック夫人も手伝った。B. A. の方法によって一八八一年に得た結果は、これと同時にグレーズブルックが他の方法でやったものとよく一致した。またこの結果が熱の器械的等量の電気的測定の結果と器械的測定の結果との齟齬そごを撤回したので、ジュールはたいそう喜んだ手紙をレーリーに寄せた。しかしレーリーはこれだけでは満足せずに、更にロレンツ(Lorenz)の方法によってやり直しをして、その結果を確かめた。結局三年かかって得た彼の結果は、その後多数の優秀な学者によって繰返された測定によっても事実上なんらの開きを生じなかった。
 次にはアンペーアの測定にかかった。この際クラーク電池の長所を認めていわゆるH型のものを工夫した。レーリーの定めたこの電池の e. m. f. の価もその後の時の試煉に堪えたのである。
 電気単位に関する国際的会議のいきさつはここには略するが、この問題に関してレーリーの仕事が重要な要石かなめいしとなったことは明らかである。
 彼の指導を受けていたジェー・ジェー・タムソンが引続いて e. s. u. と e. m. u. との比を測定することにかかった。タムソンの仕事ぶりを見ていたレーリーは、"Thomson rather ran away with it." と云って一切をこの若者の手に任せてしまった。後進の能力を認めこれに信頼することの出来ない大御所的大家ではなかったのである。
 ケンブリッジ在職中の私生活も吾々にはなかなか興味がある。ここでもソリスベリーの別荘に住んでいた。講義のない日の午前はたいてい宅で仕事をしていた。昼飯の時には子息のためまた自分の稽古のために、なるべく仏語で話すことを主張した。それから二頭の小馬をつけた無蓋馬車をレーリー男爵夫人が自ら御して大学へ出勤し、そこで午後中、時には夜まで実験をやった。午後のお茶は実験室内の教授室で催され、夫人と姉のシジウィック夫人もしばしば列席した。茶瓶の口が欠けていたので夫人が新しいのと取換えようと云ったが、「これでも結構間に合う」と云って、そのままになった。夕食前の数分間には子供部屋をおとずれている彼を見かけた。一八八〇年七月には三番目の子息のジュリアンが生れた。その年の八月にはスコットランドに旅してアルジル公の客となり、ヨットに乗って「長湖」に浮んだり、公爵の子供の時に見たという狐火きつねび(will-o'-the-wisp)の話に興味をもったりした。
 一八八一年三月に Trinity の Honorary Fellow になった。マクスウェルの後を継いだのである。丁度ヘルムホルツも学位を受けに来合せて夫婦連れで二晩泊った。「ヘルムホルツは対話ではさっぱり要領を得なかったが、しかし彼は very fine head をもっている」と評した。
 一八八二年サザンプトンにおける大英学術協会では Section A の座長をつとめた。その時の座長の演説の中に物理学者の二つの流派、すなわち実験派と理論派との各自の偏見から来る無用の争いをいましめた一節は、そのまま現代にもあてはまるべきものである。会のあとでプリモースへ行ってそこで始めて電話というものを実見した。そして何よりもその器械の簡単さに驚いた。「これは確かに驚くべき器械である。しかし大した実用にはなりそうもない」と云っているのは面白い。
 一八八二年十月に発熱性のリューマチスに罹って数週間出勤が出来なかった。丁度この時に王立協会から恩賜賞(Royal Medal)を貰ったが受取りに出ることが出来なかった。実験室ではグレーズブルックとショーが引受けていて時々病床へ何かの相談に来た。加減のいい時は小説『岩窟王』を読んでいた。二、三年後長子と散歩していたときにこの話をして聞かせた。そしてこの主人公の復讐はクリスチャンとしてはあまりひど過ぎると云った。
 病後の冬休みにはイタリアへ転地し、フロレンス近くのバルフォーア家の別荘に落着いた。ピサの傾塔やガリレーの振子よりも彼を喜ばせたものはその浸礼堂の円塔の不思議な反響の現象であった。
 この病気は時々再発の気味があったので、再び転養のためにホンブルク(Homburg)に行った。そこで毎午前はマクスウェルの色の図に対する面倒な対数表計算をやった。夫人が一々験算をした。レーリーはこういう計算はあまり得意でなかったのである。ホンブルクからハイデルベルクへ行ってクインケ(Quincke)を訪ねた。ク教授は新醸のワインを取出して能書きを並べた。スイス行を思い立ってムルレン(Murren)まで行ったら病気が再発して動けなくなった。四日目に少しよくなったので、四人がきの椅子にのって山を下り一路ケンブリッジに帰った。それで次のクリスマスの休暇にはバス(Bath)に行って温泉療養をすることになった。浴槽の中でてのひらを拡げたまま動かすと指が振動する現象を面白がった。その時に浮んだ考えが三十年後の論文となっている(全集、五、p.315)。
 一八八四年カナダのモントリオルで大英学術協会が開かれたときにレーリーが会長に選ばれた。当時彼は四十二歳、こんなに若くて President になった例は珍しかった。彼は承諾はしたが、しかしその Presidential Address が苦になり、その予想にうなされ、そうしてひどく悄気しょげたりした。アーサー・バルフォーアは手紙で彼を激励した。「科学と英国と貴族とを代表しなければならない」と云い、また眼前の政治的危機に対するカナダ新聞界の判断は、レーリーの印象によって左右されるだろうと云ったりした。クェベックまでの航海中のある夜ロバート・オースチンがナンセンス科学演説をやった。レーリーはたいそう感心し、また乗客のあるものがそれを本気に受取っているのを見て嬉しがっていた。
 いよいよ彼の座長演説をやる日に、入場券を持たずに会場へ行って門番と押し問答をやった。この時の演説の一部は科学者の教育問題に触れ、古典的死語に代えるべき仏独語の効能を述べている。また、科学はマテリアリズムに導く、という一般的謬見びゅうけんを排し、計算や実験では解けない "higher mysteries of being" のあることを暗示した。この会のエキスペジションで彼はインディアンの国土を見舞い、シカゴで始めて電車を見、またマイケルソンやローランドと親しく言葉を交わし、またエジソンの有名な昼寝を驚かした。ケルヴィンの有名な Baltimore Lecture の一部にも顔を出した。これについてレーリーが後に息子にこんな話をした。「実にあの講義は驚くべき芸当だった。午前の講義を聞いていると、たった今、朝食のときに吾々の話していた問題がもう講義の種子になっているのを発見することがしばしばあった。」また母への手紙にもこの講義が「例のタムソン式で、つまり情熱的で、取り止めもなく声を出しながら考えるという行き方」であったと評している。
 カナダから帰るとすぐケンブリッジへ辞表を出した。在職五年間に出した論文の数は六十余あった。「あの調子で永くはとても続けられなかった」というのが後年の述懐であった。
 郷里ターリングに引上げてから、自分の研究室の準備にかかった。うまやの二階の物置を二つに仕切って一方を暗室とし、壁と天井を、すすとビールの混合物で塗った。この室の両窓にヘリオスタートを取付け、ここへ分光器その他の光学器械を据え付けた。片方の仕切りにはテプラーポンプや附属のマノメーターなどを置いた。後にアルゴンの発見されたのはこの室であった。感応コイルの第一次電路をピストルで切る実験もここで行われた。この室と煉瓦壁を隔てた一室が寝室であって、この隔壁に穴をあけて音響学実験の際に便利なようにした。実験室の階下が工場で、その隣室の「学校部屋」に棚を吊って薬品をならべた。ここで、液体運動の実験が行われ、また写真現像も出来た。彼の書斎は無頓着にいつでも取り散らされ、大きな机の上は本や論文でおおかた埋められてほんのわずかの面積だけが使われていた。机の片隅には彼が元服祝に貰った鳶色とびいろ革函かわばこが載っており、これに銭と大事な書類がしまってあった。右手の書架には学生中のノートブックがあり、ストークスの講義の筆記もその中にあった。自著『音響学』が一部、これは紙片にかいたノートがいっぱい這入はいっていた。彼が何かたいそう熱心に読んでいると思ったら大抵自分の書いたものだと云って家族達はよく笑った。室の照明は私設ガスタンクのガスによって、倹約と保守的な気分と面倒がりとのために電燈設備をしないでしまった。
 雑誌類は人に貸さなかった。ケルヴィンが Phil. Mag. を借りようとしたときも許さなかった。古い包紙やボール函や封筒なども棄てずに取っておいて使った。
 地下室の物置部屋へ行く隧道トンネルが著しい反響を示すことは彼の『音響学』に書いてある。この隧道の一端で、水面による干渉縞かんしょうじまの実験や、マイケルソン干渉計の実験が行われた。
 ターリングでやろうと計画していた研究の一つは、主要なガス元素の比重を精密に測定してブラウト方則を験しようというのであった。これは何でもないようでなかなかの大仕事であった。レーリーの手一つでは間に合わないので、ケンブリッジの助手前記のゴルドンを呼び寄せた。彼は家族を挙げてターリングの邸内に移り、死ぬまでここでレーリーの片腕となって働いた。村人は時々「旦那様の遊戯部屋」の「実験室」についてゴルドンに質問し "That ain't much good, is it?" などと云った。
 ガス比重測定は、一八四五年レニョー(Regnault)の発表したもの以来誰もやらなかった。レーリーはレニョーの実験における浮力の補正に誤りのあることに気付いたので、もう一度詳しくやり直す必要を感じたのである。
 地下室の中に作った天秤室てんびんしつの空気を乾かすのに、毛布を使ったりしたところにレーリーの面目が現われている。二つのガラス球の容積の差を補正するために添えたU字管に、眼に見えぬくらいの亀裂があったのを気付かないでいたために不可解な故障が起って、ほとんど絶望しかけたとき、珍しい低気圧がやって来て、その時の異常な結果からやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。
 酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。
 この頃『大英百科全書』の第九版の編輯へんしゅうが進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に "Aberration" と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。
 一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席があき、それにレーリーが推挙された。色々の雑務をなるべく他の人にやらせるからという条件で彼を説き伏せた。主な仕事は論文の審査であった。彼は四十年前の審査員に握り潰されていた論文反古ほごの中から J. J. Waterston という男の仕事を掘出し、それがガス論に関すジュール、クラウジウス、マクスウェルの仕事の先駆をなしていることを発見して、これを出版し、同時に隠れたこの著者の行衛ゆくえを詮索したりした。この奇人は数年前行衛不明になっていた。
 協会の集会に列席する以外は大抵ターリングに居て書信で用を足した。そうして一八九六年まで十一年間この職をつとめた。協会幹事として彼はウィラード・ギブスの酬われざる貢献を認めこれを表彰したいと望んだが、化学方面の評議員が「あれは化学じゃない」と云って承知せず、ケルヴィン卿までも反対した。レーリーはこう云ってこぼした。「ケルヴィンは、自分の考えがいろいろあるからだろうが、それならそれで、ちゃんとそれを発表すべきだと思う。」しかしずっと後になって最高の栄誉と考えられるコプリー賞牌しょうはいが授与されることになったのである。それ以前にギブスがレーリーに送った手紙に「自分でもこの論文は長過ぎるのが難だと思う。しかしこれを書いたときは、自分のためにも読者のためにも、時間の価値など考えなかった」とある。
 王立協会幹事在職中に色盲検査法に関する調査委員会の委員長をつとめた。一方ではこの期間に彼は政治界の嵐に捲込まれ、郷里で演説をしたり、弟の立候補の声援運動を助けたりした。義兄弟のバルフォーア、当時のアイルランド政務総監がターリングへ遊びに来た時は護衛の警官が十二人もついて来たりした。スコットランドへ旅行して鳶色とびいろをした泥炭地の河水の泡に興味を感じて色々実験をしたのもこの時代のことであった。
 家産の管理を引受けた弟のエドワードは始めは月給を貰っていたが、後には利益配当の方法によった。小麦が安くなったので、乳牛を飼い始め、一八八五年に十二頭だったのが一九一九年レーリーの死んだ年には八〇〇頭の牝牛と六十人の搾乳夫が居た。ロンドン中に八箇所の牛乳配達店をもっていた。王立美術協会の絵画展覧会に彼の肖像が出品された時に、観客の一人が「三四二号、ロード・レーリー、アー、あの牛乳屋か」と云っているのを聞いた友人があった。ある時は営業上の事で警察へ呼ばれたが、出頭しなかったので五ポンドの罰金を取られた。
 酸素と水素の比重を定めた次の仕事は当然窒素の比重を定めることであった。その結果がアルゴンの発見となったのは周知の事実である。空気から酸素と水素を除いて得たものと、 Vernon-Harcourt 法で得たものとのわずかな差違を見逃さなかったのが始まりである。彼はその結果を『ネーチュアー』誌に載せて化学者の批評と示教を乞うた。そうしてあらゆる方法で、あらゆる可能性を考慮して、周到な測定を繰返した後に、結局空気から得たあらゆる窒素と化学的に得られるあらゆる窒素とが、それぞれ一定のしかも異なる比重をもつという結果に到着した。その間に彼は、昔キャヴェンディッシが自分と同じ道をあるいていたことを知って驚いたりした。ラムゼーが同時に同じ目的の研究を進めていることが分ったが、喧嘩にはならないで、二人は手を携えて稀有ガス発見の途を進んで行った。「空気中の新元素アルゴン」と題する論文が王立協会で発表されたのは一八九五年の正月であった。これと一緒にこのガスの性質に関するオルツェウスキーとクルックスの論文も出た。同時に、この新元素に対する疑惑の眼も四方から光っていたために色々な不愉快も経験しなければならなかった。後年彼は「この仕事で得たものは愉快よりもむしろ苦痛の方が多かった」とつぶやいていた。しかし模範的に周到な注意によって築き上げた結果は、時の試練に堪えて、あらゆる懐疑者は泣寝入りとなった。アルゴンに次いで他の稀有ガスが発見された。今日我帝都の夜を飾るネオンサインを見る時に、吾々はレーリー卿の昔の辛苦を偲ぶ義務を感ずるであろう。
 一八九四―九六年に『音響学』の第二版が出た。これに増補された交流に関する章の一節は、十年ほど前に大英学術協会に提出したものであるが、その時どうした訳か出した論文原稿に著者の名が抜けていた。審査委員はつまらぬ人の寄稿だと思って危うくこの論文を落第させようとした。しかし著者の名が判ってから、早速及第ということになったのである。
 一八九五年に彼は再び心霊現象の実験に携わったが、やはり失望する外はなかった。この年の八月には Dieppe で疲労を休めた。その時母への手紙に "I suppose however that one's brain has a chance of recruiting itself." と書いた。
 一八九七年に王立研究所(Royal Institution)の自然科学教授になった。先任者ティンダルが病気でやめたその後を継いだのである。主な仕事は毎年復活祭の前の土曜の午後六回の講演をするのと、その外に一回金曜の晩専門的な研究結果の講演をするだけであった。講義には色々の実験をやって見せるのでその助手には例のゴルドンが任命された。ここの設備は極めて貧弱で、例えば標準抵抗一つさえなかった。午後の通俗講演の聴衆三百人ほどの中には専門家も居れば素人も居た。彼は一枚の紙片に書いた覚え書によって講演し、実験をやって見せる時にはちょっと手品師のような所作をして聴衆を喜ばせたりした。一八九九年このインスティテューションの創立百年記念式にはトーマス・ヤングの業績について講演した。レーリーが深くヤングに私淑していたであろうということは、二人の仕事の一体のやり口を比較すれば自ずから首肯されるであろう。レーリーの持っていたヤングの『自然科学講義』(一八〇七)は鉛筆でつけたしるしがいっぱいである。一九〇五年にこの椅子を去ったが、その後にも一九一〇年と一九一四年に金曜の講演をつとめた。

 ターリングにおける日常生活を紹介する。朝九時家族が集まって祈祷、寝坊して出ないものはにらまれた。それから朝飯まで書斎で書信の開封。朝飯中は手紙を読むか、さもなくば大抵黙っていたが、子供等には冗談を云ったり一緒に騒いだりした。朝飯後書斎で手紙の返事、十時に助手のゴルドン出勤、その日の仕事の打合せ、午前中は大抵読書か書きもの、Phil .Mag. か Ann. d. Ph. が来ると安楽椅子で約半時間それに目を通してから書棚へ入れる。書卓で実験の結果の計算、数式の計算または論文原稿執筆、途中で時々安楽椅子へ行って参考書を読んだり紙片へ鉛筆で何か書きながら黙想したり、天気のいい日は温室や庭を行ったり来たりして、午前中一、二度実験室をのぞいて何かと指図をする、昼飯前三十分くらい子供や孫に数学の教授、詰込主義でなくて子供等を自然に導くというやり方であった。昼飯時に午後のプランをきめた。例えば夫人と馬車でドライヴする相談、何時にどこへ行くというような事でも必ず先ず相手に意見を出させ、あとから自分の説を出すのが彼の流儀であった。食後新聞を一通り読む。新聞を熟読するのが彼の生涯の楽しみの一つであった。昼飯後コーヒーを出す習慣が始まった頃、どうもだんだん世の中が贅沢になって困ると云い云いコップを手にした。午後の散歩には農園を見巡る事もあった。豚とその習性に興味があった。夏は散歩の代りにローンテニスもやった。かなりうまかったが、五十歳後は止めてしまった。実験室で一、二時間仕事をしてからお茶になる。一杯の茶が有効な刺戟剤であった。仕事の難点が一杯の茶をのんでしまうとするすると解決するということも珍しくなかった。お茶の後、ことに冬季はよく子供達と遊んだ。ポンチの漫画を見せたり、また Engineering 誌の器械の図を見せたり、また「ロンドンを見せてやる」と称して子供に股覗またのぞきをさせ、股の間から出した腕をつかまえて、ひっくら返す遊戯をした。しかし子供の不従順に対しては厳格であった。「子供を打擲ちょうちゃくするのはいやなものだ、あと一日気持が悪い」と云った。六時に実験室へ行って八時まで仕事。着物をえて晩餐、食後新聞、雑誌、小説など。トランプもやった。若いうち就寝前の一時間を実験室か書卓で費やしたが、晩年はやめた。そうして、十一時から十二時頃までは安楽椅子でうたた寝をしてから寝室へ行くという不思議な癖があった。

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