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科学的精神とは何か(かがくてきせいしんとはなにか)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-7 22:26:28  点击:  切换到繁體中文

 初めに引用というものに就いて述べる必要があると思う。引用の天才はかつての福本和夫氏であった。彼の論争文はその文章の殆んど五割に及ぶ内容が、論敵からの引用と、マルクス・エンゲルス・レーニン其の他及びこの人達によって批判された人間達からの引用、によって占められている。彼の手によって、論敵の思想は凡て、マルクス・エンゲルス・其の他によって批判攻撃された人間の文章に引き直されるか、そうでなければマルクス・エンゲルス・其の他の人の文章を借りて、福本その人から批判攻撃を受けるのだ。
 この場合、注意すべきは、この引用が古典的な乃至典型的な公式として役立っているということだ。彼は先行者の文章を公式として引用する。之は引用の第一の用途だろう。問題はただ、特殊の具体性をもったその時々の思想内容をば古典的な公式に還元することによって、折角の特殊性や具体性が失われはしないかという点にある。特殊性や具体性と思われたものが、実は単に末梢的な偏異にしか過ぎない場合は、之を公式に還元することは却って批判対象たる思想の固有な特色を浮き彫りにすることだが、もしそうでなくて、事実上問題の核心が規定の公式よりも一歩進んでいる場合、つまり公理や定理ではなくそれから導かれた一層細かい規定を有つ系のようなものが必要な場合この系を定理や公理という公式に還元してしまうことは、結局公理がその公理自身を証明するようなもので、認識の空まわりにしか過ぎぬだろう。公式が用いられたのではなくて、公式が単に反覆自らを証明したに過ぎぬ。これは科学的には、誤ってはいないにしても少なくとも無用な操作なのだ。
 勿論福本氏が論敵を攻撃する場合、論敵の論旨は古典的な公式より一歩も進んでいないばかりでなく、それよりも理論水準が逆行しているものと見做しているのだ。だから彼の場合あれでもよかっただろう。――だが万一公式自身が、科学的に正当であるかないかが問題にされる場合だとすると、勿論之だけでは科学的な操作ということが出来ない。公式が信頼されるのは、一つにはそれがその場の必要に応じていつでも実証的に検証・証明・され得るという場合であり、二つには公式が成立するまでに蓄積された認識の体系が歴史的陶冶に耐えて来たという自他の承認がある場合であり、三つには夫が世間の信用を博して世俗的な権威を生じている場合である。処がこの三つ目の権威なるものは、世間的に意味はあっても、科学的にはあまり意味がないばかりでなく、往々有害でさえあるのだ。神様の出現は、文化のどこの領域に於ても、科学的には有害な性質を持っている。で公式としての引用が、神様の引用であり、世間的俗習を手頼りにする引用なら、この引用は科学的ではないことになる。前例や範例が世間的には認識の決定者の一つの要素ではあり得ても、合理的にはいくらでも疑われ得るのには、理由があるので、ここにすでに伝統というものに就いての伝統主義的態度と批判的態度との区別も顔を出すのだが、その問題は別にして、とに角この「大審院的判例」は、それ自身は科学的な引用には値いしない。抑々科学的な合理性を守るためにしか、之に対する反対を封じる意味でしか、大審院的判例は科学的引用を許されない。判例は単なる権威ある前例としてではなくて、必要に応じていつまでも実証的に検証され得る可能性をもち、即ちまた合理的な根拠が用意されている、という条件を必要とする。
 福本氏の場合の、権威(?)の引用が何を意味したかを、今ここで議論する心算はない。問題は引用にあったのであり、それが氏の場合には公式としての引用であった。公式としての引用は勿論科学的に有益なもので又不可欠のものだが、夫が非科学的引用に終る二つの危険がある、というのだ。というのは所与を引用された公式へ還元して了うこと、即ち又公式の無用な反覆ということと、神様としての公式のかつぎ出しということとにあるのである。
 コケおどしのために世俗的な「権威」者の言葉を持ち出すことは、すでに論外で、公式としての引用のうちには数えられない。自分の言葉の不足を権威者のあれこれの都合のよい片言を以て補い、それによって権威者の言葉そのものでなく却って自分自身の言葉に権威をのり移らせるのは、作文上の「神仏の勧請」であって、科学的には全く馬鹿げたことだ。無用な装飾として引用をつけるのは、そうしないと論文にならないと思ったり何かすることは、もはや話しにならぬ。「如何にマルクスを引用すべからざるか」という論文もあるが、独りマルクス主義文献の引用に限ったことではない。寧ろ今日ではそうした引用はマルクス主義的論争に於ては過去のものとなった。引用の非科学性が色々の複雑な形で現われるのは今日では他の世界に於てである。私は実は夫を検討したいのだ。

 科学的に意義を有つ引用はまず右に述べた公式としての引用であったが、之をもっと一般化して考えると、之は実は典型的、代表的、な所論の文章を引用することに他ならない。それが今或る事物について考察を企てようとしている私なら私にとって、賛成すべきものであろうと、又反対なものであろうと、とに角沢山あるものから代表者として択ばれたものが、引用に値いするのである。そう考えると、この型式の引用なるものは、極めて広範な領域を占めるもので、元来賛同意見と反対意見との夫々の代表的なものを引例することによって、自分の論旨を裏表から直接間接に証明するディアレクティックな方法は、理論の欠くことの出来ない実質をなす。引用はまず第一に、このような証明の方法という意義を持っている。
 だが第二に、引用文が資料の意義をも持っている場合の多いことは云うまでもない。考察の対象となる現象をば云い表わしている言論を引用することによって、検討すべき対象に関する原資料が提供されるわけだ。論旨の証明に当ってその方法として役立つよりも、寧ろその方法の対象となる資料・与件・として択ばれるのが、この引用の意義である。この場合でも、なるべく典型的で代表的なものを選ぶのが当然であるが、併し資料は復原資料としての性質上、分量の上の問題も常に必要なので(単に統計を惹き出そうとする時には限らぬ)、代表的なものだけに限定出来ない場合が多いのだ。
 併しそれだけではない。引用の第三の形式は多分に対社会的な意義のあるものだ。と云うのは、例えば金融資本というテーマを検討するとすれば、金融資本についての従来の諸研究に一通り眼を通し、それに対する態度の決定とそれの消化とを用意するのが当り前だが、さて之を論文に書くなり何なりする段になると、筆者は自分がこの用意を怠ってはいなかったということを、一人の「学者」として、即ちそういう一人の世間人として、読者に示す必要のある場合もあるのである。このような意味の引用は尤も、絶対に必要なのでも何でもない。引用なしに話を進めることは常に可能だ。また相当優れた理論家にはそういうタイプも珍しくはない。だが或る程度まで一々の引用を実際に示すことは、論旨の進度を妨げたり自分自身の考察をスレッカラシにしたりしない限り、一種の親切と一種の具体味とを読者に感じさせる。そして之は科学的に云っても意味の大きいことだ。問題は示唆と啓蒙と教育とに関するからである。
 でつまり第四には、単に出来る限り自由な観念連合を与えるような示唆のために、又夫々の問題について常識として又学界常識として心得ておくべき文献にリファーするために、示唆的な、啓蒙的な、引用があるのである。之亦科学的に意義の深い引用のタイプであることは、勿論だ。
 大体科学的引用のタイプはこの四種類位いで尽きはしないかと思うが、この内にどうしても含まれないような引用は、恐らく科学的な引用でないか、科学的に無意味な引用であるか、それとも科学的に有害な引用だろうと考える。修辞の上で云えば随想的ともいうべき引用法がある。語を或る意味で「具体的」にして面白くする方法の一つだ。理論的分析も一つの文章となる限りは修辞の性質も持つのだから、この点関心に値いしないのではないが、併しそれは少なくとも、科学的に必要な引用ではない。必要なのは寧ろ、科学的な引用と随想的引用とを、厳重に区別して使い分けることにあるだろう。

 さて私は引用について少し長く述べすぎたようだ、元来、目的は引用にあったのではない。或いは寧ろ、目的は所謂引用というものだけにあったのではない。引用の精神が、従って又引用の正しい精神ばかりでなく引用の誤った精神が、思想、科学、其の他の文化技術の至る処に、意外な支配力を有っていることを指摘したかったからのことだ。
 引用とは取りも直さず文献の引用――形式的な又は内容的な――である。だから引用を科学的に意義あらしめるのも文献の役割ならば、引用を科学的に無意味・有害・ならしめるものも文献というものの魅惑なのだ。引用とは単に文章の書き方の上にばかりある問題ではない。元来物の考え方、検討の仕方、そのものに於ける引用精神の問題にぞくする。かくて引用の精神は文献的認識の精神だ。――そこで文献的認識は現代科学に於てどのような役割を果しているか。
 自然科学の研究に於ける文献の役割の大きいことを知らぬ人はない。「学術雑誌論文」こそは自然科学研究者から所謂「文献」と呼ばれている処のものだ。
 だがここでは普通の学界常識からすると、古典という意味に於ける文献の意義は、あまり重んじられていないのではないかと思われる。ニュートンのプリンキピアは一つの古典であるが、現代の物理学や力学にとって文献的な価値があるとは、普通考えられていない。更にルクレティウスの詩「自然物論」やギリシア自然学者の「物理学」の類は、もはや科学の古典でさえもなくて、単に一般思想上の遺産に過ぎないと考えられている。ここから現代自然科学にとっての何等かの意義を見出すものは、例えば故寺田寅彦博士のような多少ともディレッタント風な研究家の思い付きに過ぎぬ、というような感を、普通の自然科学アカデミッシャンは有つらしい。
 併し少し考えて見ると、自然科学上の古典的文献に対するこうした態度は、自然科学的認識についての皮相な理解に基くものでしかないことが判る。自然科学と雖も夫々の部門について又夫々のテーマについて纏められた結論が、科学的認識の発達に貢献する所以を明らかにするためには、その認識の歴史的由来を、正確に検討してかからねばならぬことはあきらかだ。自然科学各部門各テーマの系統的研究は、この意味で科学史的研究を俟たずには真に科学的ではあり得ない。科学の実証的、実験的、研究にとっても科学史的研究は不可欠であり、これに基いた科学の真に歴史的研究であって初めて、唯一の本格的な科学的研究になると云わねばならぬ。自然科学にとって、云わば科学的な認識論的省察が必要だとか、世界観の検討が要求されるとかいうことも、皆この点に帰着することを見透さねばならぬ。自然科学研究にとって、文献乃至引用の精神が持つ役割は、このように意外な重大性をもっている。
 文献の自然科学研究に於ける役割は併し、元来極めて健全なものだということが出来る。と云うのは、この場合の文献的精神、引用の精神は、実証的な、実験的な、技術的な、そして実践的な、規格を遵奉せざるを得ないものであって、事物の一片と雖も単なる文献と引用だけでは片づかないことが初めから明らかだからである。実験的研究から切り離された文献的研究が、正当な意味に於て今日の自然科学的研究でないことは、云うまでもない。――処が、それにも拘らず、この自然科学の背後にも、何等実証的なカテゴリーと関係を持たないような自然哲学的・観念的・精神主義的・其の他其の他の形而上学的世界観が現われることは、往々見られる現象だ。こうしたフラーゼオロギーは全く、文献的精神・引用の精神・の戯画であるが、それというのも、自然科学は自然科学、その背後の認識論の類は認識論、という風に、二つのものを切り離して考える俗物自然科学者の習慣に傚うからのことで、自然科学の研究そのものが、正に先に云ったように歴史的な認識に基く所以を、理解しないからのことに他ならぬ。

 社会科学・文化理論・哲学・などになると、文献と引用との科学的・又非科学的・役割は、遙かに大きくなり又露骨になる。社会学の書物の或る種の一群を見ると、凡ての書物の内容の大半が相互の引用によって占められている場合さえあるのだ。支那訳を媒介とする仏教教典を古典的文献とし、それからの文句及びカテゴリーの引用によって今日の現実の社会現象・文化現象・を分析しようというのは、日本の僧侶学者や夫につらなる一群の精神運動家達のやり方である。国学の古典から社会理論体系や政治学組織や経済理論までを導き出そうというのは、日本の復古主義的・伝統主義的・国粋論的・封建主義的・な反動日本主義者の政治イデオロギーであることを、読者は知っているだろう。
 そこにあるものが事実、如何にフラーゼと引用とによって、論旨の要点を支えられているかは、一見して明らかだ。その極端なものは、古代神話の叙述からの文献的引用を以て、現実の社会の理解の鍵としようとするのである。周代の社会機構に基く処の、或いは寧ろ漢代に這入って、社会のイデオロギーとして定着したところの儒教の古典から、直接の引用・間接の解釈・を以て徳川期の社会機構に君臨しようとしたものが、所謂腐儒であったとすれば、日本古代社会の機構を離れて、国学的な引用を以て二十世紀の日本的現実を理解しようという者は、何と呼ばれるべきであろうか。――だが之は単に極端な戯画にすぎない。ここまで露骨にならない普通の相貌を呈した同じ本質の科学上のナンセンスが、今日至る処にあるのだ。
 本来の意味での引用は勿論、一つの実証的な行為だ。文献学上の実証が引用なのだ。併し今問題になるのは、引用そのものよりも寧ろ引用の精神にある。引用そのものではなくて引用の精神の漲溢、これこそこの復古主義的・伝統主義的・国粋主義的・其の他其の他の文化反動の魂をなすものだ。――日本的現実をこの引用精神によって理解しようという動向は併し、必ずしも所謂反動的な文化理論家の専有物ではないのである。大いに革新的(?)で従って又進歩的(?)な評論家の類にさえ、最近この精神は旺盛なのである。日本「古典」の再認識という名の下に、単に日本のこの極度に対立拮抗した現実から、古典成立の時代の文物の内に逃れて、思いをロマン的回顧に沈めるばかりでなく、更に逆にそこから出発して、この日本的現実――世界の現実につらなるこの日本的一環――をこの古典文献の引用によって、或いは引用の精神によって、処理しようと云うものは、今日決して少なくないのだ。而も事実、こうした種類の表現法を見ると、大方フラーゼと引用とによる美文(ベルレートル)にしか過ぎない。それは先から云っている経緯上、避け難い結果で、必ずしもこの種の評論家の趣味の不健全や能力の制限からばかり来るのではない。今日新しい評論が現実的ではなくて回顧的・復古的・だと云われる現象は、決して偶然ではないので、夫には認識論上の深い根柢があるのである。曲者は古典その他の文献引用の精神の内にあったのである。

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