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上海の渋面(シャンハイのじゅうめん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 7:08:11  点击:  切换到繁體中文

上海の顔貌はなかなか捉え難い。
 上海には二十数ヶ国の国民が居住していて、現在の人口は四百万以上だと云われている。このうち固より大多数を占める支那人中には、戦火を避けて租界に遁入して来た者甚だ多く、充分の職場を求むるに由なく、徒らに蝟集している観さえある。租界中央の競馬場から黄浦江岸バンドの高層建築街に至る中間の支那街路は、全く喧騒雑沓の巷である。この辺でたまに、拳銃の音が聞えることもあり、拳銃を手にして駆けている工部局警官の姿が見えることもあるが、行人はあまり振向きもしない。そんなことはもうつまらなくなってしまってるのであろう。黄包車を挽く苦力と云い争いをしている乗客や、苦力を殴りつけている警官なども、時折見かけるけれど、弥次馬のたかること甚だ少い。それも日常事の一つとなってるのであろう。
 だが、群集のこうした無関心さには、他に何か別な根深いものがあるようである。南京路辺の雑踏中のアパートの上層で、他地から移ってきた大学分校の授業が続けられてるのは、種々の事情上やむを得ないことであるとしても、北京路辺の元からある小学校などでは、隣家の裏口の洗濯の音が、教室内にまで遠慮なく飛びこんで来るのがある。また四川路あたりには、街路の壁に立てかけた掛枠に草双紙類がずらりと並んでる周囲に、子供たちや中には大人まで集まって、僅かな料金でその貸本を借り、自動車や黄包車や通行人の雑沓のなかに街路に屈みこんで、一心に読耽ってるのが見られる。夏になると、そうした貸本屋が出る日陰の場所は、また恰好な凉み場所でもあるのだと、或る人は云った。子供の時からこういう風に鍛えられてきた神経は、長ずるに及んで如何様になるであろうか。
 斯かる神経は、如何なる喧騒にも堪え得るであろうし、また、如何なる生活にも堪え得るであろう。そしてまた、喜怒哀楽を表わさない底知れぬ表情をも作り得るだろう。
 上海は一面騒音の都市であるが、支那宿の騒々しさはまた特別である。蘇州や楊州などのような比較的早く寝静まる都市に於ても、支那旅館では、深夜まで放談高笑の声が絶えず、マージャンの音が絶えず、夜中の三四時頃まで続く。この騒々しさの中にあっても、眠りたい旅客は平然と早くから眠りにはいるそうである。上海の租界では、メトロポールの如き入念な建築のホテルでも、四方から騒音が窓辺に襲来してくる。支那旅館は殆んど終夜狂宴の場所だという。
 賭博場内の有様は妙である。その内部は予想に反してひっそりとしている。人々はただ黙々として金を受け渡してるだけで、その顔を見ただけでは勝ったのか負けたのか見当もつかず、喜びや悲しみを浮べてる眼付は見えず、勝負を度外視してただ賭博そのものだけを享楽してるようである。その顔付は、傍の小房内で阿片吸飲に陶然としてる人々のそれと、ちょっと見たところでは区別がつかない。斯かる賭博場は日本人には禁止の場所であるが、日本人が多少出入しているハイアライなどで、馬券よりも遙かに小額のその券を買って、あらわに喜んだり悄気たりしてるのは大抵日本人で、支那人は最も平然としている。
 斯かる表情の、そして更に斯かる神経の、重積してる群集の中にはいると、往々、自分がその中で溺れ、窒息しそうな幻影に囚われることがある。大陸的神経ということが云われる。然しそれだけでは言葉が足りないのを私は感ずる。これは大陸的神経などという吾々の概念からはみ出すところのものだ。
 こうした大衆が上海には充満している。その最も貧窮なものには、黄包車挽きなどを生業としてる苦力がある。蘇州河の数ある橋のうちでも、ガーデン・ブリッジは自動車の往来が最も頻繁であり、南北四川路をつなぐ橋は人間の往来が最も頻繁であり、この後者の橋の袂には、早朝から深夜に至るまで黄包車が群がっている。荷物をさげた人でもあろうものなら、一時に多数押寄せて来て四方から荷物に手を出し袖を引張る。客がそれらを払いのけて一人を選べば他の者等は直ちにけろりとして一抹の未練気も示さない。選ばれた一人は、客を車に乗せ梶棒を上ぐるや、梶棒の向いた方向へ真直に走り出す。車上から右とか左とか、足を踏みならしながら指図する客も屡々見受けられる。それらの苦力の感情の動きについては、外部からの窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)は不可能である。
 この苦力等のうちの、更に最も貧窮なのは、上海に流れこんでる窮民たちである。彼等は一日一弗(上海通貨の)で黄包車一台を親方から借りる。三四人組んで一台借りるのもある。稼ぎがよければ一弗余の収入になることもあり、悪ければ僅か数銭だという。
 この難民区は悲惨を極めている。北停車場の南にある英警備区域内のそれは最も惨めで、空地にテントほどのアンペラ小屋を立て並べ、屋内も寝所だけどうにか作っただけの土間で、一つの小屋に三家族も同居してるのがあり、女子供ばかりの家では屑拾いをしている。アンペラ小屋の間の通路は漸く人が通れるだけのもので、雨が降れば泥水が溢れる。大抵の者は眼病と皮膚病とにかかっているらしく見える。
 日本警備区域内では、北四川路の森永菓子店のすぐ近くに難民区があるのには驚かれる。此処にもアンペラ小屋のものもあるが、戦禍による半壊の家屋を使用してる者が多いのは幸で、世帯整理もよく行届き、長春里第×号などと洒落た名称がついている。この日本地区のみにて窮民二万を数うる由である。
 この両難民区に於て、薄暗い小屋の中でマージャンの牌を弄んでるもの数組を見かけた。吾々が表から覗きこんでも、ただ曖昧な微笑を浮べるだけで、中には見向きもしないで牌を見つめたきりのもいる。公然と数銭の金を賭けているのがある。その悲惨な不潔な環境のなかで正視し難い光景だ。それらの難民はさし迫ってる上海復興のために必要な労力となる筈のものであるが……とY氏は言葉尻を濁した。
 かような数万の難民に比べて上海市内に乞食の数は意外に少い。これは工部局で時折乞食狩りをなすからだという。乞食を見当り次第トラックに積みこんで数十キロ距った田舎に運び出すのである。其処で放たれた者たちは、再び市内にまい戻る者もいくらかあるが、多くは四方に散り失せてしまうそうである。
 さて、私は上海に蝟集してる大衆の一面を、そのどん底まで述べたが、彼等にその当面の必須事たる安居楽業を得さしてやるだけでも、容易なことではあるまい。趙正平氏は私達に、氏が政治の要諦と観じているらしい老子研究の自著を贈られたが、上述の大衆はこの研究の対象からもはみ出すものを持ってるもののように思われる。
      *
 上海の知識階級の人々は右のような大衆とは甚だしく異った雰囲気の中に生きてるようである。大衆は極端に現実主義で個人主義で、自己の周辺についてさえ冷淡で、政治などには殆んど無関心である。然るに、上海の現在の知識階級の人々は、政治情勢への顧慮なしには生活し難い状態である。蘇州河以南の租界に住んでる彼等の多くは、其処が未だ日本に対する敵性の濃い英米の勢力圏内であり、随って重慶政府と密接な繋りを持っているだけに、単に一身の安全を図るためにも、抗日救国を口にせざるを得ないのである。
 新支那中央政府の要人たる傳式説氏や趙正平氏などを中心とする文芸科学社関係のグループや、中華日報や新申報への関係の人々を除いては、たとえ和平派に心を寄せ東亜新秩序建設に志ある人々でさえ、表面上灰色的態度を取らざるを得ず、日本人と会談することなどは甚だしく警戒する。A氏の所で私達が逢った某シナリオ作家は、自然に自分の名前が知られるのを待つだけで自ら名乗ろうとはしなかったし、同じく氏の所で私が偶然同席した頼もしげな一青年は、互の姓名を知り合うことなどには全く無関心な態度を取った。数名の大学教授や文学者などと私達がひそかに会談し得たのも、彼等の間に信望のある自然科学研究所の上野太忠氏の斡旋に依るものだった。そして日本側と関係のある人々の許には、鉄血鋤奸団などというものからの脅迫状が舞い込んでいる。
 彼等は何かしら憂鬱そうである。私達と会談しても、どこか心の扉を閉してる様子があり、日本に対する不満の点さえも明らさまには口にしない。その心境には孤独の影がさしているらしい。過去の信条が崩壊して未だ新たな確信を掴みきっていない悩みもあろう。
 現在上海には、思想文芸の能才は甚だ少い。多くは奥地に遁入してしまっている。市内に潜んでいる者は之を見出すこと容易ではない。嘗て八・一三事件後、文化界救亡協会というのが共産党員によって作られていたが、文化人の奥地への遁入甚だしいため、新たに国民党系の人々によって文芸界救亡協会というのが結成され、その発会式には両派の激しい抗争があったそうであるが、それらの人々も今は求むる術がない。また嘗て魯迅と親交がありその一派から親しまれていた内山完造氏の周囲には、上海在住の文芸愛好者達から成る芸文会という集まりがあるが、その会合にも今は殆んど中国人の出席を見ないそうである。雑誌は数十種刊行されているが微々たるものであり、ただ新聞のみは賑かで、汪派の中華日報や新申報と、重慶派の申報や新聞報や大美晩報其他との間に、激越な政治的論争が繰返されている。
 上海の文化活動の復興はいつのことであろうか。それには固より、新中央政府の実力が重慶政府を圧倒するのを俟たなければなるまいし、或は蘇州河以南の租界地域が政治的に清掃されるのを俟たなければなるまいが、更に根本に於ては、強力な新思想が表明され確立されるのを俟たなければなるまい。そしてさし当っては、上海にある少数の少壮能才に対して強い援助協力の手を差伸べてやり、将来に対する彼等の希望を輝かしいものにしてやらなければなるまい。
 彼等の多くは、共産抗日の波濤をくぐりぬけて、漸く頭を水面上に持挙げたばかりのところである。そして彼等の眼には何が映ずるであろうか。
 蘇州河は、重慶政府のテロから身を護るためには、越え難い一種の境界であろう。バンドに立並ぶ高層建築は、欧米勢力の重圧と感ぜられるであろう。それに対抗すべき淅江財閥の富は、主人公の逃避と共に活動を停止してるものが多かろう。ジョッフル街のうまい菓子や珈琲は食べ得ても、たまに麗都やシロスやハリウッドなどにはいりこめば、そこの一流美人のダンサーは他国人とばかり踊っていて、却ってこちらが異邦人の感があるだろうし、キャバレーの美酒も何となく舌ざわり悪い感があるだろう。幼な心には馴染のありそうな新世界や、大世界も、今ではもう俗悪極まるものに思えるだろうし、南京路の各百貨店の娯楽場も同じく俗悪に思えるだろう。そして周囲は、精神的に一種の感覚遅鈍な大衆の群れである。斯くて彼等の胸には、文化的「孤島」上海の感が響いて来るに違いない。
 ただ、上海では料理や酒はうまい。北京、四川、広東、杭州、蘇州、楊州、南京、其他、本場の第一流のものに劣らぬ料理があるし、鍋のなかに煙筒を立てる回教料理もあるし、フランスやイタリアの本式な料理もあれば、日本のテンプラやスキヤキの上等もある。日本酒や洋酒は質が劣ってきたが、紹興本場の美事な老酒は豊富にある。ただそれらも、一時の旅客の財布がこれをもちこたえ得るだけで、上海インテリの小さな財布ではなかなか対抗し難い。店頭にぶら下っている家鴨や豚の内臓などでも、日常の用にはなし難い。金を得んがためにも、賭博場にはなかなかはいりかねるし、土曜日曜の草競馬や、カニドロームや、ハイアライや、ビンゴーや、詩文会などでも、賭ければ損をするにきまっている。それにまた、多欲的生活はもう禁物である。それに対抗するだけの精神力は充分に出来ている。婦人達でさえも、「慈倹婦女」のグループなどは、新生活運動に乗り出しているのだ。
 ただ「孤島」に於ける孤独の感じは如何ともし難いだろう。その時彼等もやはり自然を想い、また旅を想うであろうか。――私は彼等の心と相通ずるものを懐いて上海からちょっと旅に出た。
      *
 上海ほど自然の美に恵まれない都会も少い。また上海ほど、事変による廃墟や戦場を除いて、名所古跡に乏しい都会も少い。僅か百年ばかりの間に急激に発展した海港だけに、人口が増すにつれて必要な、建築物だけが立ち並んだに過ぎない。街路が狭くて並木を植える余地もなく、並木らしい並木はジョッフル街に見られるくらいなものである。支那家屋にしても、街路からはただ、薄暗い室房の重畳が見られるだけで、その白壁や屋根の景観を得ようとすれば、百貨店などの屋上に登らなければならない。
 古い歴史と伝説とを持ってるものとしては、呉の時代からのものとされてる静安寺があるきりで、支那第六泉の称があったと伝えられてるその井戸も、今では、街路の中央に跡形だけを止めてるに過ぎないし、他に旧跡の見るべきものも殆んどない。北部の新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり、西部のジェスフィールド公園はただ老人の散歩場所にふさわしく、学生などがここを歩いてるのも他に逍遙の場所がないからのことである。また蘇州の東呉大学ほどの美しい大学も上海には恐らくあるまい。
 郊外のクリークのほとりには、多少の鄙びた美景もあるかも知れないが、戦火に荒された後のこととてそれを探る由もない。然し汽車の窓から眺めたところでは、青々たる麦畑の中を大きい帆が悠々と滑りゆくような蘇州辺の光景は、上海郊外には何処にも見られなかった。張継の詩で有名な寒山寺横の楓橋あたりの運河の眺めは、平凡ななかに特殊な風趣を含んだものであるが、それに似寄りのものでも一つ上海郊外に欲しいと思われるのであった。
 或は、そういう場所が上海郊外にも見出せるかも知れない。然し誰も探しに行こうと思う者さえない。上海は人を市内に引止めて離さないのだ。ここにも上海の何かの特殊性があるのであろう。
 蘇州郊外の霊岩山からの太湖の眺めや、鎮江の甘露寺からの揚子江の眺めや、杭州の銭塘江の鉄橋上からの眺めなど、そういう贅沢なものまでほしいとの要求を上海にはなすまい。また、杭州の西湖は別として、楊州の通称西湖は大運河の名残りの川沼であり、南京の秦淮河は灌水の濠であり、そこに浮ぶけちな画舫ぐらいなものは上海にもあってよかろうと、甚だ謙遜な要求をもなすまい。玄武湖から見る南京城壁の美観はともかく、多少の城壁ぐらいは上海にもあってよかろうと、つまらぬ要求をもなすまい。実は上海には何もなくても、人をその市内に繋ぎ止める。この自然の美も名所旧跡もない上海へ数日の旅から戻って来て、私は何となく一種の郷里へ戻ったような安易さを覚えた。
 何故であろうか。昔はそれぞれ王城の都たりし杭州でも蘇州でも南京でも、その夥しい名所旧跡や美景にも拘らず、今では、文化的に、上海に比ぶれば田舎町の感じがするからである。そして上海にこそ、語感が互に通じ合い親しく語り合うことが出来そうな未知の友人が数多くいそうな感じがするからである。
 然るに、ああ然るに、上海は前述のような文化的孤島の現状であり、そこの文化人は前述のような状態であるとするならば、その上なお、東洋文化を軽蔑圧迫せんとする或種の気風が其処に巣喰っているとするならば、如何にしてこれを新たに明朗に建て直すべきであろうか。
 上海は、租界なるものがあるために、パスポートなくして上陸出来る恐らくは世界で唯一の海港であろう。このために思わぬ功徳をなすこともある。ナチ・ドイツから逐われたユダヤ人で、上海に逃げこんで来てる者が既に一万八千人ある。うち一万一千は日本警備地区の楊樹浦辺に住んでいる。多少の財産ある者はいろいろな商売を始めていて、その一つのバー・タバリンは相当名を知られており、酒は粗末だが、気易いダンスが行われ、主人は頭の禿げた愛嬌者で、興至れば自ら歌い且つ踊って見せる。けれども二千二百は全くの窮民で、幾団かに分れて共同生活をし、炊出しの救済を受けている。この救済費用がアメリカから来ると聞いて、私は云うべき言葉を知らなかった。だがこのユダヤ人問題の衝に当ってるI氏は、彼等の国有の伝統的生活を立派に営ませてやるつもりだと断言された。ただ、目下救済を受けてる人々のうち、青年や壮年の者までが多くぶらぶら遊んでいるのは奇異の感を懐かせる。彼等はみな相当の知識人で、労働には適せず、適当な仕事を待っているのだそうであるが、いつそれが与えられるようになるであろうか。
 海からはパスポートなしに上陸されるが、上海の上空は一層無防禦で各種のラジオ放送が自由に流れこんでくる。そしてここに、奇怪な放送戦が展開されている。互に妨害し合いまた進出し合っているらしいが、或る処で偶然聞いた重慶からの放送には、盛んに日本軍敗退のデマが飛ばされ損害其他詳しい説明までなされていた。このうち、日本語のもの二回あったが男声のは明かに内地人の声ではなかったけれど、女声のはその抑揚から音調に至るまで清澄な東京弁であった。ただその声に一種悲痛な胸迫るものあるのが感ぜられたのは、強制的に放送をさせられてるとの予想の下に、祖国につながる女性の血を想いやる憐愍の情からの故であったのであろうか否か。
 これら種々のことは容易に頭の中でも整理がつかない。Y君が紹介してくれた街の伊達者某君は、瀟洒な華奢な青年だが、恐らくは百数十名にのぼる支那人の子分たちを駆使しながら、華かなまた闇黒な巷を闊歩している。私は彼に或る世話になったが、次で彼の姿を求めようとすれば、もはや彼は何処かへ没し去って、捉えん術もなかった。私は一人街路を彷徨し、好きな老酒を飲みながら、額を押えて中国人の未知の友のことなどを考え耽るばかりであった。
 その老酒の、六十二年たったという秘蔵の珍品を、ふとしたことから私はさる料理店主から一瓶分入手して、ホテルの卓上に据えていたところへ、丁度三木清君が上海にやって来た。私達三人は三木君を拉して、南京料理屋へ赴き、六十二年の老酒の杯を挙げ、私はなお足りずに、そこの老酒をしたたか飲み、随分と酔ってしまった。上海の未知の友には逢えなかったが、日本の友に会したのが嬉しかったのである。
 茲に私事をつけ加えれば、私達三人というのは、上海行を共にした加藤武雄君と谷川徹三君と筆者とのことである。谷川君は各種の調査や骨董あさりに疲れながら、上海の騒音が睡眠の妨害をなすことに不平ばかり云っており、加藤君は唐詩選の中などの愛詩を口ずさみながら、目覚むるばかりの美人に逢えない不運をかこっており、私はただ何にも分らず老酒に酔ってばかりいて、両君に迷惑をかけはしなかったかを今では恐れるのである……とこう書いてしまえば、三人とも甚だ怪しからぬ者のようにも聞えるだろうが、これはただ愛嬌で、実は相当に働きもしたのである。
 そこで、この一文を上海の渋面とする所以は、上海の各方面を大急ぎで駈け廻って、さてそれで上海の顔貌を組立ててみると、そこに一種の渋面が出来上るからである。その渋面のなかにぽつりと、印度人警官の姿が浮んでくる。黒い長髭にかこまれ、頭にターバンを巻いてる、彫像のように整ったその顔、その逞ましい直立の体躯は、他の何物よりも立派であり、蘇州河岸に立ってるパークスの銅像よりも立派である。だが、それもやはり上海渋面の一点をなすに過ぎない。この渋面をして明朗な笑顔たらしめるためには、各方面の多大な努力が必要であろう。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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