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高尾ざんげ(たかおざんげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 7:26:24  点击:  切换到繁體中文

 終戦後、その秋から翌年へかけて、檜山啓三は荒れている、というのが知人間の定評でありました。彼が関係してる私立大学では、十月から授業を開始しましたが、彼は一回も講義をしませんでした。家庭では、習慣的に書斎に籠ることが多かったようですが、家人の言うところに依りますと、殆んど読書はせず、漫然と画集を眺めたり、座布団を二つに折って枕とし、朝からうとうと眠ったりして、そしてやたらに煙草ばかりふかしてるそうでした。来客に対しては、すべて無口で不愛想でした。もっとも、それらのことだけでは別に問題ではありませんが、彼はひどく酒に耽溺して、その先が荒れるのでした。日本酒やビールに酔ってくると、あとはウイスキーをあおりました。彼がいつも飲みに行く新橋花柳地区の杉茂登には、二箱ばかりのサントリーが預けてあるとの噂もありましたが、真偽のほどは分りかねます。酔っぱらってからの彼は、ひどく怒りっぽくて、友人たちに対しても女たちに対しても、些細なことで突っかかっていきました。それも、相手に向ってではなく、自分自身に向って腹を立ててるような調子でした。或る時、突然席を立って帰りかけ二階から階段を逆様に匐い降りたことがありました。滑らかに拭きこまれてる階段を、手先と肱で逆様に匐い降りてゆき、終りまでは持ちこたえず、横倒しに転げ落ちました。また、冬には珍らしい大雨のあと、街路の一部に水溜りが出来ていました時、彼はわざわざそこに踏みこんで、最も深いところを選み、膝まで水に浸って、ざぶざぶ渡って行きました。この種の話は他にいくらもあります。消費した金も相当なもので、彼は戦争中に軍報道部の秘密な仕事に関係していて、終戦時に可なりの金額を手に入れたとの噂もありましたが、これも真偽は明らかでありません。
 そういう檜山でしたが、然し、最後に踏み止まる一線をまだ持っているようでした。いくら酔っても、そのままつぶれてしまうことはなく、杉茂登に泊りこむことはなく、遅くなっても必ず自宅に帰ってゆきました。もっとも、これは菊千代の微妙な心遣いによることも多かったようでした。
 飲み疲れても檜山はまだ立ち上ろうとせず、一人ぽつねんと、脇息にもたれ、両腕を組んで、憂鬱そうな溜息をつくことがありました。菊千代はかいがいしく卓上の小皿物などを取り片付け、きれいにウイスキーの瓶だけにして、足附きグラスを檜山の前に差し出しました。
「さあ、おしまいにもう一杯、元気をつけていらっしゃいよ。それとも、ハイボールにしてきましょうか。」
 眼鏡の下にうすら閉じかけてる眼を、檜山はびっくりしたように見開いて、菊千代を眺めました。
「君、まだいたのかい。」
「だって、僕が帰るまで帰っちゃいけないって、恐ろしい見幕だったわ。いつもそうなのよ。」
「そうなんだ。だから… 感心してるよ。」
「感心はいいけれど……。」
「ちっと、迷惑なんだろう。」
「いいえ。ただね、檜山さん少し心細いわ。」
 菊千代が深々と見入ってくるのを、檜山は避けて、ウイスキーを一息に飲み干しました。そして真摯な眼色になりました。
「君の言うことは分るよ。だが、まあ当分は大丈夫だろう。」
「足がかりが出来てきたの。」
「出来やしないさ。だが、そう易々と滑り出しもしないよ。」
「危いもんね。」
「いよいよの時は、君を足がかりにするからね。」
 菊千代は頭を振りました。
「それは、無理よ。」
「いや、そんな意味じゃない。ただ足がかりだけだ。」
 菊千代はじっと檜山を見て、顔を伏せました。
「あたしも、そんなら、いよいよの時には、檜山さんを足がかりにしようかしら。」
「よかろう。約束しよう。」
 そして、二人は握手をしましたが、菊千代は寒そうに肩をすくめ、檜山はまた溜息をつきました。
 足がかりの話が、いつしか、二人の心の繋がりともなっていました。――檜山は荒れてるという友人間の説が、菊千代にはどうもぴったりこず、檜山さんはただ足をしっかり踏みしめることが出来ないでいるのだ、と感じました。菊千代自身、いくらかそういう状態でした。そして彼女は、むかし、朋輩に誘われて、山王下のスケート場に遊びに行った頃のことを思い出しました。おずおずと、手摺につかまったり、友の手につかまったりして、氷の上を歩いているうちは、まだよかったのですが、独り立ちで滑りはじめる段になると、全然見当がつかなくなりました。足だけが軽く、上体がいやに重く、前後左右いずれへか引っくり返って気絶をするか、或は急速に真鍮の手摺りまで持ってゆかれて大怪我をするか、とにかく無事にはすみそうにありませんでした。リンクの中を燕のように飛んだり舞ったりしてる人々の弧線の中に、彼女は呆然として、両手をついてしまいました。その最初の、危い足で突っ立ってた時の状態、それを彼女は檜山さんにあてはめてみたのでした。酔ったはずみに、二人きりの時、そのことを話してみましたら、檜山さんは急に真顔になって、考えこんでしまいました。普通なら、生意気言うなと怒られるか、豪いことを言うぞと笑われるか、どうせ碌なことにはならないのに、聊か調子違いの結果になってしまったと、菊千代はあとで思いました。
 戦争がすんで花柳界が復活してから、熱海の移転先から戻って来て、我儘なお座敷勤めをしている菊千代から見れば、客筋はたいてい、口先ではいろんなことを言いながらも、戦争のことなどはけろりと忘れてしまってる、心身ともに肥え太った人たちのようでした。彼女が五年間世話になっていた梶さんの、一番親しい仲間の一人だった永井さんまでが、やはりそのようでした。いくら酒席の冗談にしても、あまりにひどすぎることを、彼は平気で言ってのけました。
「ねえ、菊ちゃん、君はまだあいてるんだろう。空家払底の当節だから、用心しなけりゃいかんよ。うっかり人をもぐりこませたら、もう決して立ち退かないからな。」
 それが、大勢の人中でのことでした。菊千代は捨鉢につっかかってゆきました。
「ええどうせあたしは空家ですよ。月ぎめの人でも、年ぎめの人でも、先口に貸してあげるわ。」
 なにか口惜しさがこみあげてきて、たて続けに酒を飲んでやりました。――菊ちゃんなどと、昔通りの呼び方をして貰いたくなかったのです。空家などという露骨なたとえも、浮気封じの底意かと善意に解釈しても、永井さんの口から出るべきものではなかったでしょう。
 梶秀吉がなにか特別の用務を帯びて南方へ渡る途中、台湾沖で乗船を沈められて亡くなったことを、正式に菊千代のもとへ知らせてくれたのも、永井さんでしたし、未亡人恒子さんの旧怨をすてた意向を受けて、告別式に出られるようそれとなく計らってくれたというのも、永井さんでした。菊千代は梅葉姐さんと一緒に、人中に隠れるようにして霊前に焼香しましたが、そのすぐあと、立ち並んでる遺族のなかの未亡人とおぼしいあたりへ、足をとめて頭を下げた時、自分でも思いがけなく涙をほろりとこぼして、それから暫くは顔が挙げられませんでした。
 梶さんは出発に際して、生命の危険を覚悟していたようでした。菊千代にも当分の生活に困らないだけのことをしておいてくれました。だが、南方行きの事情については、梶さんはあまり語らず、菊千代もあまり尋ねませんでした。二人の仲は、互に愛し合ったというのではなく、旦那と芸者との最も普通な水準だったでありましょうか。
 それでも、菊千代の心に深く残ってることがありました。梶さんの出発間際に、公開の舞踊の会がありまして、菊千代は『高尾ざんげ』を出しました。戦争は次第に苛烈さを増して、踊りの会などもそれが最後かと思われました。梶さんは忙しい時間をさいて、永井さんと一緒に来てくれました。
 菊千代は心をこめて高尾の霊を踊りました。塚の出から廓の物語など、自分でも気持ちよいほどみごとに運びましたが、どうしたことか、終りになってつまずきました。照明が変って夜明けの色が漂うあたりで、彼女の心は唄の文句から離れてゆき、稲妻の光りが交叉し、世の人の煩悩につきまとわれるあたりになると、もう彼女は高尾の霊になりきれず、なにか夢を追い求める一抹の気が、責め呵まれる形を崩してしまいました。そして最後に、塚の中へひっこむことが一瞬ためらわれる、そこのところを、別な気持ちから漸く調子を合せました。
 楽屋で、お師匠さんは鋭い眼付きで菊千代をじっと眺めましたが、何にも言いはしませんでした。菊千代も、てれたように黙っていました。自分のうちに何かを見出したような心地でした。あすこのところまで高尾の霊になりきるには、すべてを捨て去らねばならなかったでしょう。それが出来なかったのは、やはり、梶さんに対する情愛のせいだったのでしょうか。それよりも寧ろ、梶さんの平安を祈る人間らしい意気、そういう風なものだったのでしょう。
 それらのことすべて、敗戦によって押し潰されてしまいました。菊千代は空家になったばかりでなく、肥え太った人々の間でそれが公言されました。彼女は反撥して酒を飲みました。檜山啓三とはよい飲み相手でした。

 気儘な勤めとはいえ、菊千代はさすがに、永井さんから呼ばれると、故人梶秀吉との義理合いもあって、顔を出さないわけにはゆきませんでした。永井さんははじめ、会社関係の人たちと一緒に来ましたが、次第に、一人で来ることが多くなり、菊千代の身辺のことについて、話の合間にそれとなく、根ほり葉ほり探りを入れました。そうなってくると、菊千代がどうしても胸に納めかねてる空家一件のことも、他を封じて自分に靡かせようとする下心が無意識にせよあったのが、自然と浮き出してきました。
 だが、永井さんの調子は、いつも、本気とも冗談ともつかず、掴みどころがないのを、更に高笑いで覆い隠されるのでした。その上、未亡人梶恒子さんの噂も、時折持ち出されました。
 或る寒い夜、永井さんはへんに真面目に言い出しました。――来年は梶さんの五周忌で、盛大な法事が行われる予定になっていること、その席へは未亡人の希望で菊千代にも出て貰いたいこと、どうやら未亡人は菊千代が好きになってるらしいこと……。
 菊千代は細長い眼を見張りました。
「だって、あたし、まだ奥さんにはお目にかかったことがありませんのよ。」
「ところが、奥さんの方ではあるのさ。葬式の時に一度……それから、梶君が南方へ出発する前、踊りの会で、君が何か……踊ったことがある。あの時に奥さんも見に来ていたよ。それから、まだある筈だ。」
「あら、あの踊りの会に……。」
「そうだ、気がつかなかったろう。」
 そして永井さんは声高く笑いました。
 その笑い声に、菊千代はぞっと総毛立つ思いをしました。――あの舞踊の会に奥さんが来ていた筈はありませんでした。菊千代は公然と座席の方へ梶さんに挨拶に行き、暫く話しこんだことなど、いまだに覚えていました。梶さんとしても、あすこへ奥さんを連れてくるような人ではありませんでしたし、奥さんだってまさか、梶さんに内緒でやって来るような人ではなかったでしょう。それを……そんな分りきった嘘を、なぜ永井さんは言うのでしょうか。
 菊千代は永井さんの顔を見つめました。
 永井さんは杯を取りあげて微笑していました。
「まあ万事、僕に任せておけよ。梶未亡人とも対等に交際出来るようにしてあげよう。実は、未亡人の方では、君と梶君とのことをはっきり知ってはいないんだよ。」
 菊千代は頬の筋肉が震えてくるのを押えつけて、無理に微笑みました。
「お願いがあるんですけど……。」
 永井さんは顔をつき出しました。
「清香さんをかけて下さらない。お義理を返したいのよ。」
 きょとんとしてる永井さんをそのまま、返事も待たないで、菊千代は自分で立っていきました。お上さんに清香のことを頼んで、俥も待たないで外へ出ました。もうこれから永井さんのお座敷なんかへ、出るものか出るものかと、口の中で呟きながら、杉茂登へと急ぎました。街路にはほんのりと白く雪がありました。それを蹴散らして行くのが痛快に思われました。
 杉茂登で、檜山さん一人と聞くと、菊千代は階段を駆け上ってゆきました。
 息を切らして、挨拶もせず、卓上に両前腕をついて、眼をつぶりました。
 僅かな埋め火の炬燵に足を差し入れたまま檜山は黙っていました。菊千代が細そり眼を開くと、檜山は眉根に皺を寄せて、思いを遠くへやってるようでした。菊千代は大きく眼を開いて、吐息をつきました。
「遅くなって、御免なさい。でも、ほんとに、雪を蹴立てて駆けつけてきたのよ。」
「まだ降ってるの。」
「降った方がいいわね。雪見酒、今夜はあたしにも飲まして頂戴。」
 日本酒とウイスキーとのちゃんぽんには、体が温まるのか冷えるのか分りませんでした。銚子を持って来た女中に、菊千代はウイスキーの瓶をさげさせようとしました。檜山はそれを遮りました。
「身体には毒でも、精神には薬さ……飲んでしまうことがね。」
 終戦間際に、も少しのところで、檜山は北京へ行くことになっていました。東京在住の或る有力な回教徒に連絡がついており、それと同行して北京へ行き、蒙古から北支へかけての回数徒等に、特殊な働きかけをなす予定だったのです。上層部の講和運動、本土決戦の一般宣言など、後に明らかになった支離滅裂な動きのなかの小さな一つに、その回教徒工作がありました。回教徒の解放独立という純真な主旨だけ抽出して、それに尽力しようとした檜山は、終戦後次第に暴露されてゆく当時の日本の現実にすっかり圧倒されてしまいました。その上、北京行きの手当の金の一部を、既に彼は受け取っていまして、それは返還の仕方がない事情にありました。なお、多量のウイスキーまで分与されていました。それらのものを、彼は杉茂登で消費にかかったのでした。――そういうことを、檜山はしみじみと語りました。
「君によく分るまいけれど、男の世界というものは、浅間しいものさ。」
「そうでもないわ。檜山さんのお気持ち、立派だったと思うわ。」
「どこが立派だい。ばかばかしい。金はもう殆んど使ってしまったが、酒はまだ残ってるらしい。使いはたし、飲みつくして……。」
「それから、どうなさるの。」
「それが、危いものさ。」
 気弱に言いながら、檜山は眼鏡の奥からへんに眼をぎらぎら光らして、菊千代を見つめました。毒気……とも言えるものを菊千代は感じて、ちょっと身を退きかけましたが、瞬間、別な力に引き戻される心地で、それを、ウイスキーの瓶に踏み止めました。
「そんなら、飲んでおしまいなさいよ。あたしもすけてあげるわ。」
「飲めなかったら、打ち割るまでさ。」
 床の間に、花は活けずにただ青銅の花瓶が置いてありました。それをめがけて、檜山は酒瓶を振りあげました。とたんに、菊千代は両袖でその手首を抱きかかえました。
「ばかだね、身振りだけしてみたんだよ。」
「あたしも、お芝居をしてみたのよ。」

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