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絶対矛盾的自己同一(ぜったいむじゅんてきじこどういつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 8:49:18  点击:  切换到繁體中文

    一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
 現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を有(も)ち、現実においてあるものは、何処までも決定せられたもの、即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。その背後に一を考えることもできない、多を考えることもできない。決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何(いか)に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩(いんゆ)的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιειという。無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
 時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
 世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。我々がそこに於(おい)てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noire【#「e」はアキュートアクセント付き】)、我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。

 哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。

 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。
 自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。動物的生命においては見るといっても、朦朧(もうろう)たるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。動作が本能的と考えられる所以である。本質的には表現作用的といっても、真に外に物を作るということはできない。動物はなお対象界を有たない、真に行為的直観的に働くということはない。動物にはいまだポイエシスということはない。作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない、故に作られたものから作るものへではない。それは生物的身体的形成たるに過ぎない。然るにモナド的に自己が世界を映すことが逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、いわば自己を外に見ることから働く。作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである。故に人間はポイエシス的である、歴史的身体的ということができるのである。而して表出即表現の立場から働くとして、それは論理的ということもできるであろう。
 右にいった如く、個物は何処までも個物として創造的であり、世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、形から形へと考えられる世界でなければならない。始に現在が現在自身を限定するといった如く、形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、かかる立場からは何処までも自己自身を形成する、形成作用的でなければならない。かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。私の形といっているのは、実在から遊離した、唯抽象的に考えられる、静止的な形をいうのではない。形から形へといっても、唯無媒介的に移り行くというのではない。多と一との矛盾的自己同一として、実在の有つ形をいうのである。生物現象というも、何処までも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、それは形成作用的と考えられねばならない。生物の有つ形というのは、機能的でなければならない。形と機能とは、生物において不可分離的である。形というのは、唯、眼にて見る形の如きものをいっているのではない。生物の本能という如きものも、形成作用である。文化的社会という如きも、形を有ったものでなければならない。形とはパラデーグマである。我々は種の形によって働くのである。而(しか)してそれは行為的直観的に見ることによって働き、働くことによって見るということでなければならない。作られたものから作るものへということでなければならない。
 右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、形から形へとして何処までも形成作用的である、即ち主体的である。これに無限なる環境が対立する。而して主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない、形相を否定するものでなければならない。一から多へというに対して、多から一へということでなければならない。主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。形相が質料となり質料が形相となるとか、形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、過去から考えることである、機械的に考えることである。これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。真に一から多へというには、何処までも時間的なものと考えなければなるまい、ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、つまり過去からということはないのである。純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、現実の世界があるのである。一瞬の前にも還(かえ)ることのできない純粋持続の世界には、現在というものもあることはできない。これに反し空間的なるものが自己否定的に時間的なる所に、即ち自己矛盾的に自己自身から動き行く所に、現実の世界があるのである。故に絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、何処までも主体と環境とが相対立し、主体が自己否定的に環境を、環境が自己否定的に主体を形成する。而して現実の世界の現在は、主体と環境と、一と多との矛盾的自己同一として、決定せられたもの即ち作られたものから、作るものへと動き行く。それが過去から未来へと動き行くということである。作られたものというのは既に環境に入ったものである、過去となったものである。しかも(無が有として、過去は過ぎ去ったものでありながらあるものとして)それは自己否定的に主体を形成するものである。
 世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、かかることがあることはできない、否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。然るに多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新なる主体が出て来ることである。かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、作られたものから作るものへと動き行くのである。而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、而してまた新に作り行くのである。
 それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である、現在が矛盾の場所である。抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、結合することができないから矛盾するというのである。しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。対立が即綜合(そうごう)である。そこに弁証法的論理があるのである。矛盾の尖端(せんたん)としては、時の瞬間の如きものが考えられるであろう。しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。時というものを抽象概念的に考えれば、過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。作られたものから作るものへということでなければならない。それが過去から未来へということである。時の現在の有つ形というのがその生産様式の形である。
 歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
 真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、なお過程的であって、真の現在というものはない。従って真の生産というものはない、創造というものはない。私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、単に主体的だという所以(ゆえん)である。然るに歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、作られたものと作るものとが対立する、而してまた作るものを作るのである。生産せられたものが単に過去に入り去るのでなくまた生産するものを生産するのである、そこに真の生産というものがあるのである。世界が一つの現在となるということは、世界が一つの生産様式となるということであり、それによって新な物が生れる、新な世界が生れるということである。それが歴史的創造の生産様式である、唯環境から因果的に物が出来るというのでもない、また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。創造ということは、ベルグソンのいうように、単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。無限なる過去と未来との矛盾的対立から、矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。直線的なるものが円環的なる所に、創造ということがあるのである、真の生産があるのである。
 歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、プラトンのいう如く非有が有である。歴史的現在においては、何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。これを私は歴史的生命の弁証法というのである。過去を決定せられたもの、与えられたものとしてテージスとすれば、それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、即ちアンティテージスが成立する。世界が矛盾的自己同一として創造的であり、生きた世界であるかぎり、かかるアンティテージスが成立せなければならない。而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、即ち真に矛盾的対立であればあるほど、矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、それがジンテージスである。現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。新なる世界が創造せられるということは、単に過去の世界が否定せられるとか、なくなるとかいうのではない、弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
 過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、現在が形を有(も)たなければならない。それが歴史的世界の生産様式である。個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、また作られたものから作るものへということができる。逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、歴史的現在であるのである。生物の形というのは機能的である。生物が機能的に働くということが、形を有つということである。而してそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、生産様式として一つの形を有つということである。しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、真の歴史的現在というものはない。矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうことはない。従って生物的動作は行為的直観的ではない。ヘーゲル的にいえば、それはなおアン・ジヒの状態である。世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において対立する歴史的社会的生産様式においては、現在が矛盾的自己同一として、何処までも動き行くものでありながら、現在が現在自身の形を有し、現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうのである。現在というものを唯抽象的に考えれば、現在から現在へなどということは、飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。綜合と対立とは何処までも二であって一でなければならない。而して実践的弁証法においては、綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、現実の世界の有つ形、現実の世界の生産様式というものでなければならない。無限の過去と未来とが何処までも相互否定的に結合する絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、それはイデヤ的ということができる。ヘーゲルのイデヤとは、此(かく)の如きものでなければならない。綜合は対立を否定する綜合ではない。故にそれはまた矛盾的自己同一として自己矛盾的に動き行くのである。
 過去と未来との矛盾的自己同一として自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越え行くことでなければならない。而してかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点であるという如き、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合するという世界において、我々は表現作用的に物を見、表現作用的に物を見るから働くということができるのである。それは機械的でもない、合目的的でもない、而してそれが真に論理的ということである。矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、我々が働くということはない。私の過去と未来とが現在において結合し、作られたものから作るものへ、現在から現在へという矛盾的自己同一は、我々の自己意識によっても分るであろう。我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、矛盾的自己同一的に爾(しか)考えているのであろう。しかし斯(か)くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を説明しようとするのではない。逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として即ちモナド的に爾あるのである。

 右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。歴史的世界においては単に与えられたものはない。与えられたものは作られたものである。環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。そこに生物的種との区別があるのである。イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。
 私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、単に文化的となるということではない。それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、イデヤがイデールとなることである。主体が環境を形成する。環境は主体から作られたものでありながら、単に作った主体のものではなく、これに対立しこれを否定するものである。我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。何処までも主体が生きるには、主体が更生して行かなければならない、絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。生産した所のものが世界性を有たなければならない、即ち世界的環境を作って行かなければならない。かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、主体がなくなるということではない、その特殊性を失って単なる一般となるということではない。無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、永遠に触れるということができるのである。すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、抽象的一般の世界となるということでもなければ、すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。種の主体的生存ということと、文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は世界歴史において生存することはできないであろう。イデヤは主体的生命の原理でなければならない。但(ただ)、作られたものとして既に環境的となったもの、而して作るものを作るという力を有せないものが、主体から遊離した文化である。世界を唯作られたものとして見るのが、単なる文化的見方である。

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