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宿命(しゅくめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 9:18:52  点击:  切换到繁體中文



 球轉がし

 曇つた、陰鬱の午後であつた。どんよりとした太陽が、雲の厚みからさして、鈍い光を街路の砂に照らしてゐる。人人の氣分は重苦しく、うなだれながら、馬のやうに風景の中を彷徨してゐる。
 いま、何物の力も私の中に生れてゐない。意氣は銷沈し、情熱は涸れ、汗のやうな惡寒がきびわるく皮膚の上に流れてゐる。私は壓しつぶされ、稀薄になり、地下の底に滅入つてしまふのを感じてゐた。
 ふと、ある賑やかな市街の裏通り、露店や飲食店のごてごてと竝んでゐる、日影のまづしい横町で、私は古風な球轉がしの屋臺を見つけた。
「よし! 私の力を試してみよう。」
 つまらない賭けごとが、病氣のやうにからまつてきて、執拗に自分の心を苛らだたせた。幾度も幾度も、赤と白との球が轉がり、そして意地惡く穴の周圍をめぐつて逃げた。あらゆる機因(チヤンス)がからかひながら、私の意志の屆かぬ彼岸で、熱望のそれた標的に轉がり込んだ。
「何物もない! 何物もない!」
 私は齒を食ひしばつて絶叫した。いかなればかくも我我は無力であるか。見よ! 意志は完全に否定されてる[#「意志は完全に否定されてる」に傍点◎]。それが感じられるほど、人生を勇氣する理由がどこにあるか?
 たちまち、若若しく明るい聲が耳に聽えた。蓮葉な、はしやいだ、連れ立つた若い女たちが來たのである。笑ひながら戲れながら、無造作に彼女の一人が球を投げた。
「當り!」
 一時に騷がしく、若い、にぎやかな凱歌と笑聲が入り亂れた。何たる名譽ぞ! チヤンピオンぞ! 見事に、彼女は我我の絶望に打ち勝つた。笑ひながら、戲れながら、嬉嬉として運命を征服し、すべての鬱陶しい氣分を開放した。
 もはや私は、ふたたび考へこむことをしないであらう。


 鯉幟を見て

 青空に高く、五月の幟が吹き流れてゐる。家家の屋根の上に、海や陸や畑を越えて、初夏の日光に輝きながら、朱金の勇ましい魚が泳いでゐる。
 見よ! そこに子供の未來が祝福されてる。空高く登る榮達と、名譽と、勇氣と、健康と、天才と。とりわけ權力ヘのエゴイズムの野心が象徴されてる。ふしぎな、欲望にみちた五月の魚よ!
 しかしながら意志が、風のない深夜の屋根で失喪してゐる。だらしなく尾をたらして、グロテスクの魚が死にかかつてゐる。丁度、あはれな子供等の寢床の上で、彼の氣味の惡い未來がぶらさがり、重苦しく沈默してゐる。どうして親たちが、早く子供の夢魔を醒してやらないのか? たよりない小さい心が、恐ろしい夢の豫感におびえてゐる。やがて近づくであらう所の、彼の殘酷な教育から、防ぎたい疾病から、性の痛痛しい苦悶から。とりわけ社會の缺陷による、さまざまの不幸な環境から。
 けれども朝の日がさし、新しい風の吹いてくる時、ふたたび魚はその意志を囘復する。彼等は勇ましくなるであらう。ただ人間の非力でなく、自然の氣まぐれな氣流ばかりが、我我の自由意志に反對しつつ、あへて[#「あへて」に傍点◎]子供等の運命を占筮する。


 記憶を捨てる

 森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶。みじめな、泥水の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。


 情緒よ! 君は歸らざるか

 書生は町に行き、工場の下を通り、機關車の鳴る響を聽いた。火夫の走り、車輪の※り、群鴉の喧號する巷の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、さうして港の倉庫の方へ、税關の門をくぐつて行つた。
 十月下旬。書生は飯を食はうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音樂の忍び居り、蟋蟀のやうに鳴くのを聽いた。
 ――情緒よ、君は歸らざるか。


 港の雜貨店で

 この鋏の槓力でも、女の錆びついた銅牌(メダル)が切れないのか。水夫よ! 汝の隱衣(かくし)の錢をかぞへて、無用の情熱を捨ててしまへ!


 死なない蛸

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに[#「そこに」に傍点◎]生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。


 

 鏡のうしろへ※つてみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん!


 

 見よ! 彼は風のやうに來る。その額は憂鬱に青ざめてゐる。耳はするどく切つ立ち、まなじりは怒に裂けてゐる。
 君よ! 狡智[#「狡智」に傍点◎]のかくの如き美しき表情をどこに見たか。


 吹雪の中で

 單に孤獨であるばかりでない。敵を以て充たされてゐる!


 銃器店の前で

 明るい硝子戸の店の中で、一つの磨かれた銃器さへも、火藥を裝填してないのである。――何たる虚妄ぞ。懶爾(らんじ)として笑へ!


 虚數の虎

 博徒等集まり、投げつけられたる生涯の機因(チヤンス)の上で、虚數の情熱を賭け合つてゐる。みな兇暴のつら魂(だましひ)。仁義(じんぎ)を構へ、虎のやうな空洞に居る。


 自然の中で

 荒寥とした山の中腹で、壁のやうに沈默してゐる、一の巨大なる耳を見た。


 觸手ある空間

 宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍從しながら、甍(いらか)に於て怒り立つてゐる。


 大佛

 その内部に構造の支柱を持ち、暗い梯子と經文を藏する佛陀よ! 海よりも遠く、人畜の住む世界を越えて、指のやうに尨大なれ!


 

 人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。


 黒い洋傘

 憂鬱の長い柄から、雨がしとしとと滴(しづく)をしてゐる。眞黒の大きな洋傘!


 國境にて

 その背後(うしろ)に煤煙と傷心を曳かないところの、どんな長列の汽車も進行しない!


 恐ろしき人形芝居

 理髮店の青い窓から、葱のやうに突き出す棍棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、夢中になぐられ、なぐられて居る。


 齒をもてる意志

 意志! そは夕暮の海よりして、鱶の如くに泳ぎ來り、齒を以て肉に噛みつけり。


 

 これは墓である。蕭條たる風雨の中で、かなしく默しながら、孤獨に、永遠の土塊が存在してゐる。
 何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅かばかりの物質――人骨や、齒や、瓦や――が、蟾蜍(ひきがへる)と一緒に同棲して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名譽も。またその名譽について感じ得るであらう存在もない。
 尚ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も殘りはしない。我我の肉體は解體して、他の物質に變つて行く。思想も、神經も、感情も、そしてこの自我の意識する本體すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我我は死後を考へ、いつも風のやうに哄笑するのみ!
 しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我は不運な藝術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤獨に耐へて、ただ後世にまで殘さるべき、死後の名譽を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花輪を捧げ、數萬の人が自分の名作を讚へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名譽を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後にも尚ほ且つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならない[#「生きて居なければならない」に傍点◎]のだ。
 蕭條たる風雨の中で、さびしく永遠に默しながら、無意味の土塊が實在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我我はそれを知らない。これは墓である! 墓である!


 神神の生活

 ひどく窮乏に惱まされ、乞食のやうな生涯を終つた男が、熱心に或る神を信仰し、最後迄も疑はず、その全能を信じて居た。
「あなたもまた、この神樣を信仰なさい。疑ひもなく、屹度、御利益がありますから。」臨終の床の中でも、彼は逢ふ人毎にそれを説いた。だが人人は可笑しく思ひ、彼の言ふことを信じなかつた。なぜと言つて、神がもし本當の全能なら、この不幸な貧しい男を、生涯の乞食にはしなかつたらう。信仰の御利益は、もつと早く、すくなくとも彼が死なない前に、多少の安樂な生活を惠んだらう。
「乞食もまた神の恩惠を信ずるか!」
 さう言つて人人は哄笑した。しかしその貧しい男は、手を振つて答辯し、神のあらたかな[#「あらたかな」に傍点]御利益につき、熱心になつて實證した。例へば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天が雨を降らさぬやうに、時時その神に向つて祈願した。或はまた金十錢の飯を食ふべく、それだけの收入が有り得るやうに、彼の善き神に向つて哀願した。そしてまた、時に合宿所の割寢床で、彼が温き夜具の方へ、順番を好都合にしてもらへることを、密かにその神へ歎願した。そしてこれ等の祈願は、概ねの場合に於て、神の聽き入れるところとなつた。いつでも彼は、それの信仰のために惠まれて居り、神の御利益から幸福だつた。もちろんその貧しい男は、より以上に「全能なもの」を考へ得ず、想像することもなかつた。
 人生について知られるのは、全能の神が一人でなく、到るところにあることである。それらの多くの神神たちは、野道の寂しい辻のほとりや、田舍の小さな森の影や、景色の荒寥とした山の上や、或は裏街の入り込んでゐる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間共の侘しげな世界の中で、しづかに情趣深く生活して居る。


 郵便局

 郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人人は窓口に群がつてゐる。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくつて押し合つてゐる。或る人人は爲替を組み入れ、或る人人は遠國への、かなしい電報を打たうとしてゐる。
 いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに來て手紙を書き、そこに來て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舍の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤獨に暮らしてゐる娘の許へ、秋の袷や襦袢やを、小包で送つたといふ通知である。
 郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて亂れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。我我もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我我の家なき魂は凍えてゐるのだ。
 郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]だ。


 航海の歌

 南風のふく日、椰子の葉のそよぐ島をはなれて、遠く私の船は海洋の沖へ帆ばしつて行つた。浪はきらきらと日にかがやき、美麗な魚が舷側にをどつて居た。
 この船の甲板(でつき)の上に、私はいろいろの動物を飼つてゐた。猫や、孔雀や、鶯や、はつか鼠や、豹や、駱駝や、獅子やを乘せ、さうして私の航海の日和がつづいた。私は甲板の籐椅子に寐ころび、さうして夢見心地のする葉蘭の影に、いつも香氣の高いまにら[#「まにら」に傍点]煙草をくはへて居た。ああ、いまそこに幻想の港を見る。白い雲の浮んでゐる、美麗にして寂しげな植民地の港を見る。
 かくの如くにして、私は航海の朝を歌ふのである。孤獨な思想家の VISION に浮ぶ、あの[#「あの」に傍点◎]うれしき朝の船出を語るのである。ああ、だれがそれを聽くか?


 

 海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人人は早い疲勞を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寢ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不滿の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲勞を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切斷から、限りなく單調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白晝(まひる)の太陽が及ぶ限り、その「現實」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味氣がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に來て見れば、海は我我の疲勞を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそり[#「げつそり」に傍点]とし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人人は熱情から――戀や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人人の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲勞から、にはかに老衰してかへつて行く。
 海の巨大な平面が、かく人の觀念を正誤する。


 建築の Nostalgia

 建築――特に群團した建築――の樣式は、空の穹窿に對して構想されねばならぬ。即ち切斷されたる球の弧形に對して、槍状の垂直線や、圓錐形やの交錯せる構想を用意すべきである。
 この蒼空の下に於ける、遠方の都會の印象として、おほむねの建築は一つの重要な意匠を忘れてゐる。


 初夏の歌

 今は初夏! 人の認識の目を新しくせよ。我我もまた[#「我我もまた」に傍点◎]自然と共に青青しくならうとしてゐる。古きくすぼつた家を捨てて、渡り鳥の如く自由になれよ。我我の過去の因襲から、いはれなき人倫から、既に廢つてしまつた眞理から、社會の愚かな習俗から、すべての朽ちはてた執着の繩を切らうぢやないか。
 青春よ! 我我もまた鳥のやうに飛ばうと思ふ。けれども聽け! だれがそこに隱れてゐるのか? 戸の影に居て、啄木鳥(きつつき)のやうに叩くものはたれ? ああ君は「反響(こだま)」か。老いたる幽靈よ! 認識の向うに去れ!


 女のいぢらしさ

「女のいぢらしさは」とグウルモンが言つてる。「何時(いつ)、何處(どこ)で、どこから降つて來るかも知れないところの、見たことも聞いたこともない未來の良人を、貞淑に愼(つつ)ましく待つてることだ。」と。
 家の奥まつた部屋の中で、終日(ひねもす)雀の鳴聲を聽きながら、優しく、惱ましく、恥かしげに、思ひをこめて針仕事をして居る娘を見る時、私はいつもこの抒情味の深い、そして多分に加特力教的な詩人の言葉を思ひ起す。
 いぢらしくもまた、私の親しい友が作つた、日本語の美しい歌を一つ。

[#ここには室生犀星の詩が引用されている]
 若い未婚の娘たちは、情緒の空想でのみ生活して居る。丁度彼女等は、昔の草双紙に物語られてる、仇敵討ちの武士みたいなものである。その若く悲しい武士たちは、何時(いつ)、何處(どこ)で、如何にして※り逢ふかも解らない仇敵(かたき)を探して、あてもなく國國を彷徨(さまよ)ひ歩き、偶然の奇蹟を祈りながら、生涯を疲勞の旅に死んでしまふ。
 昔のしをらしい娘たちは、かうした悲しい物語を、我が身の上にひき比(くら)べ、行燈の暗い灯影で讀み耽つた。同じやうにまた、今日(けふ)の新時代の娘たちが、活動寫眞や劇場の座席の隅で、ひそかに未來の良人を空想しながら、二十世紀の草双紙を讀み耽つて居る。その新しい草双紙で、ヴアレンチノや林長二郎のやうな美男が扮する、架空の人物を現實の夢にたづねて、いぢらしくも處女(をとめ)の胸をときめかして居る。そして目算もなく、計畫もなく、偶然の※合のみを祈りながら、追剥の出る街道や、辻堂や笹原のある景色の中を、悲しく寂しげに漂泊して居る。昔の物語の作者たちは、さうした悲しい數數の旅行の後で、それでも、漸く最後に取つて置きの籤(くじ)をひかせて、首尾よく願望を成就させた。だが若し、現實の人生がさうでなければ! そもそも如何に。女のいぢらしさは無限である。


 

 父は永遠に悲壯である。


 

 敵は常に哄笑してゐる。さうでもなければ、何者の表象が怒らせるのか?


 物質の感情

 機械人間にもし感情があるとすれば? 無限の哀傷のほかの何者でもない。


 物體

 私がもし物體であらうとも、神は再度朗らかに笑ひはしない。ああ、琴の音が聽えて來る。――小さな一つの倫理(モラル)が、喪失してしまつたのだ。


 自殺の恐ろしさ

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考へるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身體が空中に投げ出された。
 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃めいた。その時始めて、自分ははつきり[#「はつきり」に傍点]と生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。斷じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身體は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!
 この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事實が、實際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの實驗を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽靈である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戰慄する。


 

 龍は帝王の欲望を象徴してゐる。權力の祥雲に乘つて居ながら、常に憤ほろしい恚怒に燃え、不斷の爭鬪のために牙をむいてる。


 時計を見る狂人

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、爲すこともなく、毎日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、「時」を持て餘して居る人間が此處に居る、と私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覽なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでせう。「默れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去つて行く。Time is life! Time is life!」と。


 群集の中に居て
      群集は孤獨者の家郷である。 ボードレエル

 都會生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣な交渉もなく、その上にまた人人が、都會を背景にするところの、樂しい群集を形づくつて居ることである。
 晝頃になつて、私は町のレストラントに坐つて居た。店は賑やかに混雜して、どの卓にも客が溢れて居た。若い夫婦づれや、學生の一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に坐つて、彼等自身の家庭のことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人人と關係がなく、大勢の中に混つて、彼等だけの仕切られた會話であつた。そして他の人人は、同じ卓に向き合つて坐りながら、隣人の會話とは關係なく、夫夫また自分等だけの世界に屬する、勝手な仕切られた話をしやべつて居た。
 この都會の風景は、いつも無限に私の心を樂しませる。そこでは人人が、他人の領域と交渉なく、しかもまた各人が全體としての雰圍氣(群集の雰圍氣)を構成して居る。何といふ無關心な、伸伸とした、樂しい忘却をもつた雰圍氣だらう。
 黄昏(たそがれ)になつて、私は公園の椅子に坐つて居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の坐つてる前を通つて行つた。どの組の戀人たちも、嬉しく樂しさうに話をして居た。そして互にまた、他の組の戀人たちを眺め合ひ、批判し合ひ、それの美しい伴奏から、自分等の室にひろがるところの、戀の樂しい音樂を二重にした。
 一組の戀人が、ふと通りかかつて、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑ひながら、羞かみながら嬉しさうに囁いて居た。それから立ち上り、手をつないで行つてしまつた。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さへも、全く認識しないやうであつた。
 都會生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別別の人間が別別のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活――群集としての生活――なのである。その同じ都會の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何處へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり竝んで坐つてる、淺草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯ともし頃の都會の情趣を、無限に侘しげに見せるのである。
 げに都會の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の單位であつて、しかも全體としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全體の動く意志の中で、私がまた物を考へ、爲し、味ひ、人人と共に樂しんで居る。心のいたく疲れた人、重い惱みに苦しむ人、わけても孤獨を寂しむ人、孤獨を愛する人によつて[#初出の『四季』第四號・昭和十年二月號では「孤獨を愛する人にとつて」となっている]、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都會は私の戀人。群集は私の家郷。ああ何處までも、何處までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に歩いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。


 

 すべての橋は、一つの建築意匠しか持つてゐない。時間を空間の上に架け、或る夢幻的な一つの觀念(イデア)を、現實的に辨證することの熱意である。
 橋とは――夢を架空した數學である。


 詩人の死ぬや悲し

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に殘るべき著作を書いてる。その上にも高い名聲がある。」
 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、眞劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに感情を隱す男が、その時顏色を變へて烈しく言つた。
「著作? 名聲? そんなものが何になる!」
 獨逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂氣の頭腦に追憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
 あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以來の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める爲に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖國に對する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大將やの人人が、おそらくはまた死の床で、靜かに過去を懷想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の爲すべきすべてを盡した。」と。そして安らかに微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。
 それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我我の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、もつと惱み深く言ひ換へられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

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