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三つの挿話(みっつのそうわ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 16:22:22  点击:  切换到繁體中文

    墓畔の家

 これは私が小学三四年のころの話である。
 私の家からその小学校へ通う道筋にあたって、常泉寺じょうせんじ(註一)という、かなり大きな、古い寺があった。非常に奥ゆきの深い寺で、その正門から奥の門まで約三四町ほどの間、石甃いしだたみが長々と続いていた。そしてその石甃の両側には、それに沿うて、かなり広い空地が、往来から茨垣いばらがきに仕切られながら、細長くよこたわっていた。その空地は子供たちの好い遊び場になっていた。そしてその空地で遊んでいる分には、誰にもしかられなかったが、若し私たちがその奥の門から更に寺の境内に侵入して、其処そこのいつも箒目ほうきめの見えるほど綺麗きれいに掃除されている松の木のまわりや、鐘楼の中、墓地の間などを荒し廻っているところを寺のじいやにでも見つかろうものなら、私たちはたちまち追い出されてしまうのだった。疳癖かんぺきらしかった爺の一人なんぞは、手にしていた竹箒を私たちに投げつけることさえあった。だが、そうなると一層その寺の境内や墓地を荒すことが面白いことのように思われ、私たちは爺に見つかるのを恐れながら、それでも決してその中へ侵入することをめなかった。その寺には爺が二人いた。一人は正門の横で線香やしきみなどを売っており、もう一人はよく竹箒を手にして境内や墓地の中を掃除していた。私たちは彼を顔色から「赤鬼」「青鬼」と呼んでいた。
 たしか秋の学期のはじまった最初の日だったと思う。学校の帰りみち、五六人でその夏の思い出話などをしながら一しょに来ると、そのうちの一人が数日前に常泉寺の裏を抜ける、まだ誰も知らなかった抜け道をみつけたといって得意そうに話した。そこで私たちはすぐそのまま、一人の異議もなく、その抜け道を通ってみることにした。
 そのころ常泉寺の裏手にあたって、小さな尼寺があった。円通庵えんつうあんとか云った。丁度その尼寺の筋向うに、ちょっと通り抜けられそうもない路地があったが、その中へ私たちの小案内者が、ずんずん得意そうに入って行くので、私たちもさも面白いことでもするようにそのきたない路地の中へ入って行った。最初のうちは何んだかゴミゴミした汚らしい小家の台所の前などを右へ折れたり左へ折れたりしていたが、そのうち半ばこわれかかった一つの柴折戸しおりどのあるのを先頭のものがそっと押して中へはいって行った。と、いままで何か言いあっていたものたちが、そのとき急にばったりと話しやめた。不意に意外な場所に出たものと見える。やっと自分の番になって、その中へはいって見ると、私たちの目の前には、いまにもくずれそうな小さなみぞを隔てて、目のあらい竹垣の向うに、まだ見たこともないような怪奇な庭がよこたわっていた。そこには無気味に感じられる恰好かっこうの巌石がそば立ち、緑青ろくしょういろをした古い池があり、その池の端には松の木ばかりが何本も煙のようにいまわっていた。そしてそれが常泉寺の奥の院の庭であるのを知った時、私たちは一層驚かずにはいられなかった。……それから私たちは急にひっそりとなって、その崩れ落ちそうな溝づたいに一列にならんで歩き出したが、その道のもう一方の側はどうなっていたのか今はっきり思い出せない。そこまで来てしまうと、どっちを向いてももうほとんどさっきの人家らしいものが目に入らなかったようだが、ことによると私たちのまわりには私たちよりも丈高たけたかく雑草がい茂っていたのか知れぬ。そう云えばそこいらが一面のすすきだったような気もする。
 私たちは何時いつの間にかとんでもない場所へ来てしまったような不安な気持になって、お互に無言のまま、おっかなびっくりそんな場所を歩き続けて行ったが、そのうち再び驚かされたのは、そんな寺の裏なんぞの、恐らく四方から墓ばかりに取り囲まれているであろうようなところに、一軒ぽつんと小さな家が見え始めたことだった。さっきの雑草もその小家のあたりだけは綺麗に取除かれ、その代りそこら一面に、その小家を殆んど埋めるくらいにして、黄や白だのの見知らぬ花が美しく咲きみだれていた。その見なれない小家の前を私たちがこっそり通り抜けようとしたとき、その家のなかの様子は少しも見えなかったけれど、私はふとその閉め切った障子の奥に誰かが居るような気配を感じ、その瞬間私にはその人が何んだか私の母をもうすこし若くしたくらいの年恰好の美しい婦人であるように思われてならないのだった。(が、今考えてみると、そういうようなすべては、その小家を埋めるようにしていた、それらの黄だの白だのの見知らぬ花々の微妙な影響に過ぎなかったのかも知れない。……)
 その小家のあたりから、道は両側とも竹垣にはさまれながら、真直まっすぐに寺の庫裡くりの方に通じているらしかった。その竹垣の一方はまださっきから見え隠れしている庭の続きであったが、もう一方はいつのまにか大小さまざまな墓の立ち並んだ墓地になっていた。私たちはその墓地の方へ抜け出ようとして、その竹垣を乗り越すのにいろいろな苦心をした。
 私たちがそんな寺の裏の、いかにも秘密にちたような抜け道(?)をたった一遍きりしか通ったことのないのは、その時まだその竹垣をみんなで乗り越してしまわないうちに、寺の爺たちに見つかって、散々な目にったからだ。その時くらい爺たちが私たちに向って腹を立てたことは今までにもなかった。爺たちは二人がかりで、何処までも私たちを追いかけて来た。――そのときは私たちも何んだか興奮こうふんして、墓と墓の間をまるで栗鼠りすのように逃げ廻りながら、口々に叫んでいた。
「赤鬼やあい……青鬼やあい……」


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     昼顔

 その小さな路地の奥には、ただ、四軒ばかり、小ぢんまりした家があるきりなのである。ちょうど水戸みと様の下屋敷の裏になっていて、いたって物静かなところである。
 その路地をはいって右側には、彫金師の一家が住んでいる。そのお向うは二軒長屋になっていて、その一方には七十ぐらいの老人が一人で住んでいる。五六年前に老妻をくなしてから、そのままたった一人きりでさびしいやもめ暮らしをしているのである。その隣りには、お向うの彫金師の細君のいもうと夫婦が住んでいる。亭主は、河向うの鋳物いもの工場へ勤めているので、大抵毎日その細君は一人で留守居をしている。その路地の突きあたりの家は、そこ一軒だけが二階建になっていて、主人はやはり河向うの麦酒ビール会社に勤めている。あとにはその老母とまだ若い細君が静かに留守居をしているきりである。そんな寂しいくらいの路地のなかに、いつも生気を与えているように見えるのは、彫金師の一家だけである。ずっと奥の、別棟になった細工場からは、数人の職人がいつもこつこつと金物を彫っている仕事の音が絶え間なしに聞えて来るのであった。……
 その年の春頃から、その彫金師の、それまでは家人だけの出入り口になっていた、つたなどのからんだくぐり戸に「古流生花教授」という看板がかかるようになった。その数カ月前から立派な白髯はくぜんの老人がいつも大きな花束をかかえて※(二の字点、1-2-22)しばしばその家に出はいりしていたが、そんなことを好きな一面のあるこの家の夫婦をおだてて、そこをとうとう自分の出張所にしたのである。それからやがて木曜日ごとに、町内の娘たちが五六人それを習いに来るようになった。そうしてその午後になると、その路地には、いままでに聞いたことのない、花やかな、若い娘たちの笑い声が起るようになった。……
 その日だけは、息子むすこの弘は、中学校から帰ってくると、自分の勉強間にしている奥座敷が娘たちに占領されているので、いつもお向うの、おばさんの家へ追いやられてしまう。おばさんの家は狭かったが、格子戸こうしどを開けて入ったすぐ横の三畳が茶の間になっていて、そこの長火鉢ながひばちの前でおばさんはいつも手内職をしているきりなので、弘は奥の八畳の間を一人で占領して、茶ぶ台を机の代りにして、その上で夢中になって帳面に何やら円だの線だのばかりを描いている。……

        ※(アステリズム、1-12-94)

 その日は、二三日うちに牛島神社のお祭りが始ろうとする日のことである。九月も半ばに近かった。
 弘はさっきからおばさんの家の八畳の間で、しきりに勉強をやっている。相変らず帳面に円だの線だのを引張っているのである。その日はおばさんが、中洲なかすの待合の女中をしているその姉のところに頼まれてあった縫物を持って出かけていったので、一人で留守番をさせられている。自分の家からは、職人たちの金物を彫っている metallique な音にじって、ときおり若い娘たちの笑い声が聞えてくる。今度のお祭りには、弘の父のきもいりで、町内に屋台をこしらえて、そこに娘たちの生花を並べようというので、さっきから白髯の師匠や代稽古格だいげいこかくの弘の母などに見てもらいながら、娘たちは大騒ぎをして花をけているのである。――弘はときどき足を投げ出して、仰向けに寝ころんでは、娘たちの笑い声にじっと耳をすます。そうしてその五六人の笑い声の中から或る一つの笑い声だけを聞き分けようとしている。やっとそれがかすかに他から区別されて聞えることがある。するとその笑い声だけが急に一瞬間高くなって、他の声が見る見る低くなっていくような気がする。そうしてその笑いは、少年の目の前に、晴れやかに笑っている、一つの可愛らしい娘の顔の image を喚起させる。が、その笑いは再び他の笑いに消されがちになっていって、それと一緒にその可愛らしい image もだんだんぼやけていく。少年はそれだけでも満足して、再び起き上って、茶ぶ台に向うのであった。……
 すると路地のうちに小きざみな足音がして、格子ががらりと開いたので、もうおばさんが帰ってきたのかしらと思って、弘がふりむいてみると、おばさんではない。半分開いた格子戸に手をかけたまま、派手な銀杏いちょうがえしに結った若い娘が、大きな目をして、彼の方を見つめている。
「なあんだ、照ちゃんか。おばさんかと思ったら……」弘はちらっとそっちを見たきり、いそいで目を伏せながら、そうつぶやいた。
「母さんは?」
「中洲のおばさんのところへ行っているんだ。」
 お照という娘は、そのままちょっと格子に手をかけて、どうしようかと言ったように突立っていたが、とうとう中へはいってきた。
「構わずに上ってよ。……勉強のお邪魔にはならなくて?」
「うん……」いいんだか、悪いんだか分らないような返事をしたきりである。
 そんな従弟いとこの方をお照はとりつくしまがなさそうに見ながら、茶の間へは上ったものの、何処どこへ坐ったらいいかと躊躇ちゅうちょしているようだったが、とうとう三畳の長火鉢の、いつもおばさんの坐っている場所へ、そうっと坐った。弘もまた弘で、自分の背後にそういうお照を意識し出してからは、茶ぶ台には向っていても、もう帳面の上に円や線を描くことは中止して、ぼんやりと頬杖ほおづえをしているきりである。しかし、お照の方へは目をやろうとも、声をかけようともしない。この頃向島むこうじまから芸妓げいぎに出るようになったお照がまたときどきこのおばさん(――お照にとっても実の叔母なのだが、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「かあさん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口をくのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなりはげしく動いている。
 しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
 遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「おひる頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとうたまらなくなったように、欠伸あくびをわざと大きくしながら、足を投げ出した。そうしてくるりと横になった。と、その途端に、さっきからちっとも娘たちの騒ぎが聞えて来ないでいることに弘ははじめて気がついた。なんだかひっそりしている。何をしているんだろう、と弘はしばらくお照を忘れて、そっちの方へ気をとられていた。……
「お茶でもれましょうか?」ひざの上で何やら本を読み出していたお照が、ふいとその本から目を上げて、弘に言った。
「こっちへいらっしゃらない?」
「うん。」
 弘はやっと渋々と起き上って、長火鉢のそばへ行った。そしてお照の反対の側にどかりと坐りながら、うしろの障子に背中をもたらせながら、立膝をしたまま、お照の顔をまぶしそうに見つめた。
「そんな風に人の顔を見るものじゃなくってよ。」
「だって、ずいぶん変な顔だもの。」
 少年は、精いっぱいの皮肉を言ったつもりでいるらしい。そう言って、さもあざけるように笑っている。事実、顔の浅黒い娘がくびにだけ真白にお白粉しろいをつけているのが変てこだと思っているのである。
「まあ、ご挨拶あいさつね、……弘ちゃんにはかなわないわ。」
 娘は目を伏せたまま、いままで膝にのせていた洋綴ようとじの本を下に置いた。そうしてその表紙を無意味に見ている。
「何を読んでいるんだい? 小説?」それを少年はのぞき込むようにして見た。
「ええ、弘ちゃんも小説読むの?」
「僕だって小説ぐらいは読むさあ……それは何んの小説だい?」
「モオパスサンよ……でも、こんなのは弘ちゃんは読まない方がいいわ……」
「そんなのは知らないや……僕は探偵小説の方がいい。」
 少年だってモオパスサンがどんな外国の作家だぐらいはこっそり聞きかじっている。しかし、わざと娘にそんな返事をしてやった。だから、少年は大した皮肉を言ってやったつもりでいる。そうして、ふと、昔、自分が十ぐらいで、この娘がまだ十三四でこの家に養女分でいた時分、ただもうこの年上の娘をいじめるのが面白くっていじめたりしていた時のような、子供らしい残酷な心もちが、現在の自分の心のうちにもよみがえって来るように感ずる。なんでもないことに腹を立てて、この年上の娘をなぐったり、足蹴あしげにしたりしたが、娘の方では一度も自分にはむかって来ようとはしない。ただ、少年にされるがままになっている。そこに他の者が居合わせても別に留めようともしない。少年はしまいには、ただ面白ずくでそんな風に娘をいじめるようになっていた。……ところが、一度、どうしたのか娘は顔を真青にして、いきなり少年にむしゃぶりついてきた。少年はびっくりして、それっきりもう娘に手出しをしなくなった。……娘がそのおばさんの家を最初に飛び出したのは、それから間もないことであった。……
 そんな風にやっと二人が打ち解けて話し合いだした時分に、がらりと格子のあく音がした。二人がふりむいて見ると、それは弘の母であった。
「おや、照ちゃんもいたのかい?」
 少年は自分の母を見ると、長火鉢からすこし居退いざるようにして、障子に出来るだけぴったりと体を押しつけるようにしている。お照とこんな風に差し向いで話をしているところを母に見つかって、いかにも気まりが悪そうである。
「こんちは。……そこの髪結さんまで来たんでちょっと寄ってみたの。……なんだかすこし根がつまりすぎて……」そんなことをお照はしゃあしゃあと答えながら、それが気になるように結い立ての銀杏がえしへ手をやっている。
 弘の母はそっちをちらっと見て、
「よく結えたよ」と愛想よく言って、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所おみきしょまでいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
 それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
 それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢のそばに取り残された。
 お照は、それからしばらくぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方をながめていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古けいこをしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家だった、その清ちゃんの不幸な身の上を考えるともなく考えている。……若い時から落語家の円三さんの弟子になっていたが、中途でぐれ出して、旅廻りの浪花節なにわぶし語りにまで身をおとしていたが、そのうち再び落語家の小かつさんに拾われ、それからは心をいれかえて一しょう懸命に高座を勤めていたので、小かつさんにも可愛がられ、真打しんうちになったら自分の名をがせてやろうとまで言われるようになったのに、若いとき身を持ち崩したたたりで、悪い病気がとうとう脳にきて、その頃同棲どうせいしていた、下座げざの三味線きのお玉さんの根岸の家で死んだのは、つい一咋年のことだったが、なんだか随分昔のような気もする。その間に、あんまり私も苦労をしすぎたせいかも知れない。そう云や、清ちゃんと私とは同じような性分なのかも知れないな。……と、そんなことやら、あそこで壁を向いてひとり稽古に夢中になっている清ちゃんの後姿を見ながら聞いていると、可笑おかしな落語もちっとも可笑しくなかったことやらを、思い浮べて、お照は何気なしにふとさびしい微笑を誘われていた。……
 弘はあれっきりまだ帰って来ないのである。親ゆずりでお祭りなんぞも好きな性分だから、父と一しょになって、神輿みこしの世話を手つだいだしているのかも知れない。そうして、そんな弘よりも先きに、中洲へ出かけていたおばさんの方がかえって来てしまったのである。
「誰かと思ったらお照だったのかい?……弘ちゃんは……」
「いましがたお向うのおばさんがいらっしって、お使いにやられたわ。」
 おばさんは長火鉢の向うの、さっきまで弘の坐っていた場所へ、
「ああ草臥くたびれたこと。」と言いながら、どっかと坐った。
「あたし、そこまで髪を結いにきたの。……ちょっと寄ったら留守番をおおせつかっちゃった。……でも、もうこうしちゃいられないわ。また、来ますわ。」
「まあお茶でも飲んでおいでよ。」
「お茶なら、ほんとにあたし、もう沢山。……なんだかきょうの髪、すこし根がつまりすぎて……」お照はさっきと同じようなことを言って、まだ気になってしようがないように自分の髪へちょっと手をやっていたが、そのとき急に、向うの家のなかからどっと若い娘たちの笑いくずれる声が起った。――「お向うは大へんね。……」
「姉さんも、この頃はお花にばかり夢中でね。……それでも、五六人、どうやらお弟子でしが出来たのさ。」
「そうだそうですね。」
「でも、おかしいんだよ。……そのお師匠さんがさ、お弟子のことを一々私に話すんだがね。……どうもこの娘は器量はいいがすこしお転婆てんばのようだとか。……性質はよさそうだけれど、すこし器量がよくなくってとか。……何のことはない、まるで弘ちゃんのお嫁さん捜しをしているようなもんだからね。」
「ふ、ふ、今からそんな心配をされてた日にゃ、弘ちゃんもやりきれないわね。」
「姉さんたら、本当にそんな心配ばかりしているんだよ。……面白いったらありぁしない。……あんなにおとなしい子だから、女にでもだまされて、清ちゃんみたいになりぁしないかってさ……」
「まさか。」
 お照は笑いながら何ということなしにちらりと顔をあからめた。
「でもね、弘ちゃんがあそこで、ああして勉強している後姿を見ているとね、なんだか清ちゃんのことが思い出されてならないんだよ。……おもうつりがするんだろうね。……だけど、そんなことを姉さんに言おうものなら、気にしそうだから、あたしゃ黙っているのさ。」
「あら、あたしもさっきそんな気がしたわ。……やっぱり血筋なのね。……」そう言いかけながら、お照は急に気がついたかのように、「ああ、こうしちゃいられないわ。……また、来ますわ。……じゃ、左様なら。」と言って、性急そうに立ち上ると、すこし蓮葉はすはに下駄を突っかけながら、がらりと格子を開けて出ていった。――

「あら、何か忘れものをしていったよ。……何て、まあ、そそっかしやさんなんだろう。……」おばさんはそう口のうちでつぶやきながら、長火鉢の傍に置き忘れられてある黄いろい表紙の本を取り上げた。字のよく読めないおばさんには、モオパスサンという片仮名だけはわかったが、それがどんな題の、どんなことを書いた本だかは、すこしもわからないのである。……


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