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明日をつくる力(あすをつくるちから)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-2 10:37:12  点击:  切换到繁體中文


 学校でも共学をはじめた。そういう大学がいくつかある。その学生たちと話してみると、やはりそこでもまだ男女は十分共学されていない。大学などでは一種のアカデミックな社交性というようなもので綺麗ごとに共学されていて、たとえばアメリカの大学の社会科の女子学生と男子学生とが、夏期休暇中の共同研究として、浮浪者の生活調査をやるとか、女子の失業と売淫生活に堕ちてゆく過程の調査だとか、そういう現実の共同作業をするところまではいっていない。会合で討論して、代表を選出し、共同研究会をもつくらいまでのところしかいっていない。ほんとうにむき出しに自分たちを示すような勉強も調査もスポーツもされない窮屈さがのこっている。
 昨日あたりから上野の美術館で婦人画家ばかりの展覧会が催おされている。芸術の世界で、婦人ばかりの絵画、あるいは婦人ばかりの文学というものはないものだと思う。それだのに婦人画家だけ集まった展覧会が婦人画家たちからもたれているということは、日本の画壇のどういう実際を語っているのだろうか。それは日本ではすべての組合や政党に婦人部というものがあって、それがまだ社会の事情から独特の必要をもっているのと似かよった理由があると思う。つまり今日の資本主義社会の個人的な経済競争の中で、中小工業者が苦しいとおり、婦人画家の経済上、芸術上独立的な生活というものは非常に困難になってきている。画家の生活全体が困難になって、ごく少数の大家――その人の絵をもっていれば、やがて値が出て金になるという、家屋敷を買うような意味で買われる大家を除いては、新進画家の生活はまったく苦しい、それは出版事情の最悪な今の文学にも、また音楽にもいえる。婦人画家が画家としてはたしてどれだけの力量をもっているかということはあらためて考えられなければならないけれども、かりに、その点でマイナスがあるとして、それというのもこれまで婦人全体の生活があまり差別的で、官立の美術学校でさえも女子の学生は入れなかったというような条件からもたらされていることである。それを克服するためには、いまこそ婦人画家その他の能力が発揮されるように、男子の芸術家が協力してゆくべきである。けれどもそれが行われないから婦人画家たちだけの集りや催しがもたれて行くことになる。そして日本の社会としての弱点は大変のろいテンポでしか克服されない。
 婦人の実力がまだ低いから、社会的に経済的に、また政治的に平等であることは早すぎるという考え方は、ごく若い婦人の中にさえもある。私はそういう意見をもっている専門学校の女生徒に会ったことがある。これは考え深いことばのようであるけれども、実際は日本の社会全体の遅れをそのまま肯定し、女の人が才能をひしがれて一生を送らなければならない社会機構そのものを肯定したことではないだろうか。憲法と民法とが条文の上で男女平等といっているその実際の条件をこの社会の中につくり出してゆくことこそ、新しい意味での男女の平等な協力の中心眼目であろうと思う。
 民法の改正は明治三十二年頃福沢諭吉が婦人のために力説した議論であった。当時日本の資本主義は小規模ながら興隆期にさしかかっていて、日本の中産階級が経済能力を増してきていた頃、福沢諭吉がいうとおり、今日のブルジョア民法としての民法改正が行われ封建差別がとりはらわれたのならば、たしかに今のままの条文を適用されるような親の財産も、夫の財産も、娘たち、子供たち自身の財産もあり得たであろう。けれども今日金の値打が百分の一になり、まさに千分の一になろうとしているとき、どんな空想家が五人の子に一生の安定のために分けられる財産があると思っていよう。分ける財産に頼られないならば、自分のからだについた財産である社会的な勤労能力というものこそ保障されなければならない。憲法は、すべての人民が働くことができるといっている。それは半分飢え、絞られながら、働らかされる権利があり、失業させられてよいという意味ではないはずだ。すべての人は教育をうけることができるといわれている。これも人間である以上、二十四時間のうち十時間を労働に縛りつけられることはあり得ないということを意味している。人間は労働、休養、教育に二十四時間をわけてつかうのだから。
 学生と職場の人たちとは、生活の違いがひどいように自分たちでも思っている。けれども、今日学生の何割がほんとうに学校に行っているだろう。行けない学生は何のために学校にゆけないかを考えてみれば、職場の人のおかれている衣食住の困難、そこからおこる人間性の歪み、それと闘ってゆく人間らしい健気けなげさでは、学生も職場の人もまったく同じ条件のうえにおかれている。そしてそこには男と女の勤労者があり、男と女の学生がある。お互同士が自分たちの事情がどんなに似ているか、全く等しいかということを理解したとき、学生は人生的な社会的な感情で勤労者の生活を自分のものとして感じることができるし、勤労する人々もいわゆるインテリに反撥する心、あるいは逆に買いかぶってインテリぶるみじめさから免かれる。そういうことをお互いに真からよく知り合った男と女が、職場にも学校にも家庭の中にもだんだんできかかっているということ、そこに私たちの明日の希望がある。これらの人々は旧い習慣や生活感情に対して、ある程度までそれを傷つけないような方法を考えながら、しかし決して根本的には譲歩しないで、自分たちの働く者としての立場、その立場に立った夫婦としての生活、その立場に立った親子としての生活を建設しようとしている。
 男女の協力ということを、社会的な生活態度としてとりあげるようになったのは、むしろおそすぎた。そのくせ目新しくもある。その矛盾から男女というと、何となく特別な儀礼的な方法や気分が予想される。外国映画などで目から入ることの外見だけの模倣が現われる。そういうエティケット風な外国の模倣が続くのは特に日本では四十にならないまでのことである。家庭をもって生活してゆけば、遊びのような「協力ごっこ」は立ちゆかない。もし協力というものを遊びごっこのような、恋愛遊戯の一つのエティケットのように扱うならば、結婚と一緒にそれは幻滅するであろう。――最も深い意味で、最も永続的な意味で、最も責任のある意味で協力が必要とされてきている時期に……。
 協力ということの幅は非常に広いと思う。深さも深い、それはとりもなおさずわたしたちが女として生きる一生の歴史そのものではないだろうか。ほんとうに協力すべきものとして、男と女が互に理解し、その理解のうえに立って愛し合い、そして生涯を生きてゆくならば、協力の場面の多さと、協力の意味の多様さとその変化の多さにびっくりしないではいられないと思う。協力はいつでも前掛けをかけているとはきまっていない。協力は時に全く前掛けのあることと、竈のあることと、借金のあることを忘れることにあらわれる。そうかと思えば、猛烈にその借金を返すことに努力し、自分たちの生活破壊から自分たちをまもるために協力が発揮されることもある。協力は笑う、協力は最も清潔に憤ることも知っている。協力は愛のひとつの作業だから、結局のところ相手が自分に協力してくれるその心にだけ立って自分の協力も発揮させられてゆくという受身な関係では、決して千変万化の人間らしい協力の花を咲かせることはできない。愛されるから愛すのではなくて、愛すから愛すのだということを今日のすべての婦人は知りはじめている。自分がほんとうに新しい社会をつくるために、自分たちの女であるという喜びと誇りと充実した人生を希望するなら、そういう人間の希望を理解する男の人に協力して生きることがうれしいことであると思う。働いて生きてゆかなければならないということを理解する人民の女性としてのその心から自主的な協力が生れるし、自主的な協力の理解をもった女性のところへこそ、はじめて浮気でない、いわゆるエティケットでない協力ということをまじめに理解した男性が見出されてくるのであろう。
 思えば戦争は何という生活破壊を行ったろう。今日日本の人々は七千万といわれるうちに、婦人の人口比率は三百万多くなっている。戦争によって未亡人になった婦人はいたるところにいる。この婦人たちの生活こそ、男女の新しい意味での社会的な協力ということについて深刻な問題を提出していると思う。社会が封建的であればあるほど妻の境遇も苦しいが、また未亡人の立場は切なく、生きにくい。良人がいる生活の中では、男手一つにしろ何とかなるものが、女世帯となってますます男手がいるとき、そういう協力は自然にへってしまう。それは何と情けないことだろう。未亡人の生活になげられたのは、明朗な社会的な協力というよりも、親族的な配慮であり、さもなければうけるのも苦しいというような異性の好意である場合が多い。若いしっかりした良人を失った女性たちは、こういう経験をとおしてだけでも、どんなに仕事の上での又生活の上でのさっぱりとしてたよりになるほんとの男女の協力を願っているかもしれないと思う。
 家庭の重荷ということばは、いつも婦人の側から激しくいわれる。けれども、今日の日本でどうして男の人もそう感じていないといえるだろう。まったく個人的にまもられ、まったく個人の努力で営まれているわれわれの一つ一つの家庭、しかも戦争の間暴力的な権利でそれをちりぢりばらばらに壊されてしまっていた家庭、それを今日インフレーションの中で再建してゆく努力は、男も女も互にくらべてみれば、決してまさり劣りはないと思う。女の才能がこの社会と家庭生活の事情の中で伸ばされていないことは、男の天質も決して人間らしく伸ばされてはいないことを語っている。才能も殺されている。それに対して女が遺憾に思う気持と、男が遺憾に思っている気持とを互に知りあい信じあうこと、そして遺憾のない人間の生き方が、一つでも殖える可能のある社会条件を自分たちの一生のうちにつくってゆこうとする協力、人間は歴史的な存在であるから、私たちの協力も歴史の課題から抜け出ることはない。世界が連合国憲章をつくって、真から戦争とファシズムに反対し、一つの民族によって隷属させられる条件を否定している現代の歴史の中で、男と女は互の隷属から解放され、人間の仲間としての両性として生きられるように協力しようとしている。男と女を人民という名にくるめてこれまで抑圧してきた歴史を、根柢から新しく喜ばしいものに変えてゆこうとするために人民として協力してゆくのだと思う。

〔一九四七年九月〕





底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「新女苑」
   1947(昭和22)年9月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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