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鏡心灯語 抄(きょうしんとうご しょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:09:54  点击:  切换到繁體中文


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 私は政治が最早官僚の政治でも党人の政治でもなくお互日本人の政治であることをしみじみ感じ、そしてこの度の総選挙に出会ってはしなくも英仏その他文明国の急進派婦人が、「選挙権を与えよ」と衷心から叫んでいる事実に理解と同感とを持つことが出来た。個性の自由と生活とを要望する国民にあっては、婦人もまた選挙権を求めるまで真剣にならねばならないはずである。
 英仏の聡明な婦人はともかく、日本の婦人の実力がまだまだ選挙権を要求する程度に達していないのはいうまでもないが、さりとて私は日本の教育ある中年以下の婦人たちが全く政治上に注意を向けていないとは思わない。一般婦人はなお男子に対して一種の奴隷たるに甘んじているほど無智無感覚であるにしても、教育ある婦人で殊に選挙権ある男子の家庭にある婦人たちは時節柄その見聞に由っても政治上の興味をそそられることがないとは限らない。まして世間に婦人の自覚が叫ばれて以来四、五年を経ているから、鈍感な私と違って、くに政治の改造までに個性の自由を延長して考え、政界の腐敗に対して公憤をとどめかねている真成の新しい女たちが其処此処そこここの家庭に人知れず分布されているであろうとも想像されるのである。(私は或階級の自堕落な女が昔から行っている乱行に類似したような放蕩ほうとうあえてして、個性の権威を自覚した女、新生活を建てた女と自負する一部の婦人たちに、英仏の優秀な急進派婦人の光栄である「新しい女」の称を下した批評家の悪戯を不快に思っている。)

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 私はそういう日本の政治その他の近状に公憤をいだいているほどの尊敬すべき婦人たちが多少にかかわらず選挙権ある男子の家庭に現存するものと考えて、その婦人たちに次の希望を寄せたい。
 あなたがたに選挙権はない、しかしあなたがたが古くから日本の婦人に許された「内助」の特権を善用する時が来た。
 あなたがたは党人の間に情実にも悪習にも染んでいない。あなたがたは恋人の心を直感するように敏捷びんしょうに、幼児おさなごを愛するように誠実に、時代の優良な新人物を選択することが出来るはずである。
 あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。
 あなたがたの推薦する新候補者が政治家として全くの素人しろうとであることは少しもかまわない。現代の政治が国民の生活を内に充実させると共に世界的に発展させることを目的とする以上、断えず進化する国民の文明と世界の大勢とを透感することに鋭敏であって、国民の生活を自由と誠実との中に改造する切実な意見を持っている優良の士を我々日本人の代表者として議会に送ることを選挙人に激励することが必要である。
 私は候補者の家庭にある婦人たちが選挙運動に花々しく活動する現象を喜ぶものであるけれども、かの婦人たちは自然「わが仏尊し」の偏愛を免れかねて選良の精神にもとる恐れがある。それに比べると選挙人の家庭にあって候補者の優劣を批判しつつ選挙人の権利を擁護する婦人たちはあくまでも公平の見識を保つことが出来る訳である。私はあなたがたが「内助」の特権を巧みに運用して、合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心を示されることをひたすら熱望する。

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 日本における婦人団体で最も多数の婦人を包容しているものに愛国婦人会がある。愛国婦人の名は美くしくかつ堂々としている。しかしその多数の会員がどれだけ愛国の意義を自覚していられるかは疑わしい。もし官僚に指揮せられて軍国の際にばかり器械的に公事に動作するに過ぎないようであるなら時代遅れの婦人団体であり、愛国の実が余りに貧弱である。今日において愛国の精神ある婦人は民本主義の上に立って男子の政治道徳を監視するほどの意気と、男子の企てる政界の改造を激励するまでの公憤と実行が伴わねばならぬ。それでなくて愛国をいうのは畢竟ひっきょう大人の女の飯事ままごとではないか。

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 私は選挙人の家庭にある婦人たちになお一つの希望がある。それは代議士候補者としていわゆる優良な新人才の資格を選ぶ一カ条に是非とも婦人に対する素行の端正であることを加えて欲しい。明治維新の元勲と称せられる政治家がことごとくこの点に欠けていた。そして次にきたった代議士という政治家の階級がまた明治元勲の悪風に感化せられて今日に及んだ。東京初めその他の都市において芸妓げいぎという売笑婦の営業が今日のように繁昌はんじょうを極めるに到った根源は彼ら政治家の堕落に由来するのである。重要な政治問題が売笑婦の出入する家で下相談を開かれるというような奇怪な事象を過去四十余年来しばしば繰返して恥じなかった。地方から来る代議士が議会の開期間東京でしょうかかえるというような事は今は何人なんぴとも見て怪まないほどになった。そういう素行の堕落はやがて彼ら旧式政治家の性格の不誠実不謹慎を自白しているものである。そして彼らの素行の堕落がどれだけ世の子女の風儀に悪影響を及ぼしているかは「代議士は芸妓げいしゃを買うものです」と答えた小学生のあるのに由っても想像せられる。私たちは子女のために高く清い教育を施そうとする直接の実際問題から考えても、素行の不潔な男子に一国の政治を託することは危険であると思う。

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 私は高い処から物をいわないつもりである。私は何時いつでも我身の分を知って低級な心境から発言しているつもりである。楽堂の片隅に身をせばめながら自分相応の小さな楽器を執って有名無名の多数の楽手が人生をかなでる大管絃楽の複音律シンフォニイかすかな一音を添えようとするのが私のこころざしである。
 けれどそれは私の意識している私自身の志であって、私の個性から無意識に放射している私の自我には、他から見て柄にない自負や虚栄心が醜く現われているかも知れない。私は常にそれを恐れて反省せねばならぬと思い、また出来るだけ反省につとめている。
 私は私の自我を堅実にしたい、新しくしたい、増大したいという希望と、その希望を次第に遂行しつつあるという自信と歓喜とを持っているが、私の現在の内生については何ほどの自負をも持っていない。私に断えず附きまとっているものは自負の反対に立つ不足不備の意識と謙抑羞恥の感情とである。

       *

 しかし私も時として思い掛けない自負を他から激発せられて意識することがある。それは私を理解しない人、もしくは私に反感を持っている人が、私自身に謙抑している以下に私の価値を引下げて私を是非した時のことである。そういう時に私は単純な本能的の怒を覚えると共に私にも私だけのたのむべき価値を備えていることをその人に対して誇りたいような気持になるのである。けれどその気持と怒とは大抵瞬時の後に、よしや長く持続しても一両日の後に煙の如く消えてしまう。そして私の自覚は、私の怒が私の生活に必要なために発する公憤でなくて他人の不誠実と不聡明とに反応する私憤であり、私の自負が私の平生へいぜいに希望している内生の満足を意味するのでなくて、他人に私の微弱な自我をわざと誇張し、見せびらかそうとする痩我慢であるのを深くひそかにじている。

(『太陽』一九一五年一―二月)





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「雑記帳」金尾文淵堂
   1915(大正4)年5月初版発行
初出:「太陽」
   1915(大正4)年1月、2月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2005年1月16日作成
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