| 底本: | 現代日本紀行文学全集 中部日本編 |
| 出版社: | ほるぷ出版 |
| 初版発行日: | 1976(昭和51)年8月1日 |
| 入力に使用: | 1976(昭和51)年8月1日 |
一
二階の縁側の日除けには、日の光が強く残つてゐた。そのせゐか畳も襖も、残酷な程むさくるしく見えた。夏服を浴衣に着換へた私は、
日がかげるとさつきの婢が、塗りの剥げた高盆に[#「高盆に」は底本では「高盆の」]湯札を一枚のせて来た。さうして湯屋は向う側にあるから、一風呂浴びて来てくれと云つた。
それから繩の緒の下駄をはいて、石高な路の向うにある小さな銭湯へはひりに行つた。湯屋は着物を脱ぐ所が、やつと二畳ばかりしかなかつた。
客は私一人ぎりであつた。もう薄暗い湯壺に浸つてゐると、ぽたりと何かが湯の上へ落ちた。手に掬つて、流しの明りに見たら、
湯屋から帰つて、晩飯の膳に向つた時、私は婢に槍ヶ嶽の案内者を一人頼んでくれと云つた。婢は早速承知して、竹の台のランプに火をともしてから、一人の男を二階に呼び上げた。それは先刻上り口で、青竹の笛を吹いてゐた男であつた。
「槍ヶ嶽の事なら、この人は縁の下の
婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。
私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、
「旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」
私は苦笑[#「苦笑」は底本では「苦突」]した。
「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」
男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを運んで来た。
やがて婢が戸をしめに来た。戸の走る度に山の上の星月夜が、私の眼界から消えて行つた。間もなく私の寝てゐるまはりは、古蚊帳に四方を遮られた、
二
――山の
「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」
案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの
橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。
私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が
「おい、行かう。」
私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快であつた。
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、
「これが
案内者は私を顧みて云つた。
私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などを
三十分の後、とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた。うす日に蒸された峠の空気は、無気味な静寂を孕んでゐた。馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と
と思ふと鈍い翅音がして、青黒い一匹の馬蠅が、ぺたりと私の手の甲に止まつた。さうして其処を鋭く刺した。私は半ば
私は痛む手を抱へながら、無理やりに足を早め出した。……
三
その日の午後、私たちは水の冷たい
川を埋め残した森林の上には、飛騨信濃境の山々が、――殊にうす雲つた穂高山が、
対岸には大きな
程なく一軒の板葺の小屋が、熊笹の中から現れて来た。これが
案内者は小屋の戸を開けると、背負つてゐた荷物を其処へ下した。小屋の中には大きな囲爐裡が、寂しい灰の色を拡げてゐた。案内者はその天井に懸けてあつた、長い釣竿を取り下してから、私一人を後に残して、夕飯の肴に供すべく、梓川の
私は蓙や雑嚢を捨てて暫く小屋の前をぶらついてゐた。すると熊笹の中から、大きな黒斑らの牛が一匹、のそのそ側へやつて来た。私は稍不安になつて小屋の戸口へ退却した。牛は
曇天の夕焼が消えかかつた時、私たちは囲爐裡の火を囲んで、竹串に
白樺の火と
四
――雑木の重なり合つたのを押し開いて、もう一度天日の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、
「此処が
私は鳥打帽を
私の前に横はるものは、立体の数を尽した大石であつた。それが狭い峡谷の急な斜面を満たしながら、空を劃つた峯々の向うへ、目のとどく限り連つてゐた。もし形容の言葉を着ければ、正に小さな私たち二人は、遠い
私たちはこの大石に溢れた谷を、――「
暫く苦しい歩みを続けた後、案内者は突然杖を挙げて、私たちの
「御覧なさい。あすこに
私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。すると荒削りの山の肌が、頂に近く
やがてその日も暮れかかる頃、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなつて来た。それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃ひ松の群も見え始めた。
私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を
その内に寒い霧の一団が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて来た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に
「何だい、あの鳥は。」
「
小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、相不変無愛想にかう答へた。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日発行
初出:「改造」改造社
1920(大正9)年7月
※巻末に1920(大正9)年6月記と記載有り。
※疑問箇所の確認と訂正にあたっては、「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店、1996(平成8)年4月8日発行を参照した。
※「それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。」は、「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店、1996(平成8)年4月8日発行(以下同)では、「それにも関らず峠へかかると、彼と私との間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。」とされており、「彼と私の間」ではなく、「彼と私との間」となっている。
※「馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と
※「牛は
※「私たちの
※「小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、相不変無愛想にかう答へた。」は、「小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、不相変無愛想にかう答へた。」とされており、「相不変」ではなく、「不相変」となっている。
入力:林 幸雄
校正:砂場清隆
2003年3月8日作成
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「山+賛」 145-上-13