您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 芥川 竜之介 >> 正文
妖婆(ようば)


 こう云う事情がありましたから、お島婆さんの所へ行くと云っても、新蔵のほろよいの腹の底には、どこか真剣な所があったのでしょう。一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い竪川たてかわ河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間にはさまって、竹格子たけごうしの窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それがあの神下しの婆の家だと聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりそうな、無気味な心もちが先に立って、さっきの酒の酔なぞは、すっかりもう醒めてしまったそうです。また実際そのお島婆さんの家と云うのが、見たばかりでも気が滅入めいりそうな、ひさしの低い平家建で、この頃の天気に色の出た雨落ちの石の青苔あおごけからも、きのこぐらいは生えるかと思うぐらい、妙にじめじめしていました。その上隣の荒物屋との境にある、一抱あまりの葉柳が、窓も蔽うほど枝垂れていますから、瓦にさえ暗い影が落ちて、障子しょうじ一重ひとえ隔てた向うには、さもただならない秘密が潜んでいそうな、陰森いんしんとしたけはいがあったと云います。
 が、泰さんは一向無頓着に、その竹格子の窓の前へ立止ると、新蔵の方を振返って、「じゃいよいよ鬼婆に見参と出かけるかな。だが驚いちゃいけないぜ。」と、今更らしいおどしを云うのです。新蔵は勿論嘲笑あざわらって、「子供じゃあるまいし。誰が婆さんくらいに恐れるものか。」と、うっちゃるように答えましたが、泰さんは反ってその返事に人の悪るそうな眼つきを返しながら、「何さ。婆さんを見たんじゃ驚くまいが、ここには君なんぞ思いもよらない、別嬪べっぴんが一人いるからね。それで御忠告に及んだんだよ。」と、こう云う内にもう格子へ手をかけて、「御免。」と、勢の好い声を出しました。するとすぐに「はい。」と云う、含み声の答があって、そっと障子を開けながら、入口のしきみに膝をついたのは、しおらしい十七八の娘です。成程これじゃ、泰さんが、「驚くな」と云ったのも、さらに不思議はありません。色の白い、鼻筋の透った、生際はえぎわの美しい細面で、殊に眼が水々しい。――が、どこかその顔立ちにも、痛々しいやつれが見えて、撫子なでしこを散らしためりんすの帯さえ、派手はでな紺絣の単衣の胸をせめそうな気がしたそうです。泰さんは娘の顔を見ると、麦藁帽子を脱ぎながら、「阿母おっかさんは?」と尋ねました。すると娘は術なさそうな顔をして、「生憎あいにく出まして留守でございますが。」と、さも自分が悪い事でもしたように、※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたを染めて答えましたが、ふと涼しい眼を格子戸の外へやると、急に顔の色が変って、「あら。」と、かすかに叫びながら、飛び立とうとしたじゃありませんか。泰さんは場所が場所だけに、さては通り魔でもしたのかと思ったそうですが、慌てて後を振返ると、今まで夕日の中に立っていた新蔵の姿が見えません。と、二度びっくりする暇もなく、泰さんの袂にすがったのは、その神下しの婆の娘で、それが息をはずませながら、一生懸命な声で云うのを聞くと、「あなた。今の御連れ様にどうかそう仰有おっしゃって下さいまし。二度とこの近所へ御立寄りなすっちゃいけません。さもないと、あの方の御命にも関るような事が起りますから。」と、こう切れ切れに云うのだそうです。泰さんは何が何やら、まるで煙に捲かれた体で、しばらくはただ呆気あっけにとられていましたが、とにかく、言伝ことづてを頼まれた体なので、「よろしい。確かに頼まれました。」と云ったきり、よくよく狼狽ろうばいしたのでしょう。麦藁帽子もぶら下げたまま、いきなり外へ飛び出すと、新蔵の後を追いかけて、半町ばかり駈け出しました。
 その半町ばかり離れた所が、ちょうど寂しい石河岸の前で、上の方だけ西日に染まった、電柱のほかに何もない――そこに新蔵はしょんぼりと、夏外套の袖を合せて、足元を眺めながら、たたずんでいました。が、やっと駈けつけた泰さんが、まだ胸が躍っていると云う調子で、「冗談じゃないぜ。驚くなと云った僕の方が、どのくらい君に驚かされたか知れやしない。一体君はあの別嬪べっぴんを――」と云いかけると、新蔵はもう一つ目橋の方へ落着かない歩みを運びながら、「知っているとも。あれが君、おとしなんだ。」と、興奮した声で答えたそうです。泰さんは三度びっくりした――びっくりした筈でしょう。何しろこれからその行方を見て貰おうと云う当の女が、人もあろうにお島婆さんの娘だと云う騒ぎなのですから。と云って泰さんもその娘に頼まれた、容易ならない言伝ての手前、驚いてばかりもいられますまい。そこで麦藁帽子をかぶるが早いか、二度とこの界隈へは近づくなと云うお敏の言葉を、声色同様に饒舌しゃべって聞かせました。新蔵はその言葉を静に聞いていましたが、やがて眉をしかめると、迂散うさんらしい眼つきをして、「来てくれるなと云うのはわかるけれど、来れば命にかかわると云うのは不思議じゃないか。不思議よりゃむしろ乱暴だね。」と、腹を立てたような声を出すのです。が、泰さんもただ言伝てを聞いただけで、どうしたわけとも問いたださずに、お島婆さんの家を駈け出したのですから、いくら相手を慰めたくも、好い加減な御座なりを並べるほかは、慰めようがありません。すると新蔵はなおさらの事、別人のように黙りこんで、さっさと歩みを早めたそうですが、その内にまた与兵衛鮨の旗の出ている下へ来ると、急に泰さんの方をふり向いて、「僕はお敏に逢ってくりゃ好かった。」と、残念らしい口吻を洩しました。その時泰さんが何気なく、「じゃもう一度逢いに行くさ。」と、調戯からかうようにこう云った――それが後になって考えると、新蔵の心に燃えている、焔のような逢いたさへ、油をかける事になったのでしょう。ほどなく泰さんに別れると、すぐ新蔵が取って返したのは、回向院えこういん前の坊主軍鶏ぼうずしゃもで、あたりが暗くなるのを待ちながら、銚子も二三本空にしました。そうして日がとっぷり暮れると同時に、またそこを飛び出して、酒臭い息を吐きながら、夏外套の袖を後へねて、押しかけたのはお敏の所――あの神下しの婆の家です。
 それが星一つ見えない、暗の夜で、悪く地息じいきが蒸れる癖に、時々ひやりと風が流れる、梅雨中にありがちな天気でした。新蔵は勿論中っ腹で、お敏の本心を聞かない内は、ただじゃ帰らないくらいな気組でしたから、墨を流した空に柳が聳えて、その下に竹格子の窓が灯をともした、底気味悪い家の容子ようすにも頓着せず、いきなり格子戸をがらりとやると、狭い土間に突立って、「今晩は。」と一つ怒鳴ったそうです。その声を聞いたばかりでも、誰だろうくらいな推量はすぐについたからでしょう。あの優しい含み声の返事も、その時は震えていたようですが、やがて静に障子が開くと、しきみ越しに手をついた、やつやつしいお敏の姿が、次の間からさす電燈の光を浴びて、今でも泣いているかと思うほど、悄々とそこへ現れました。が、こちらは元より酒の上で、麦藁帽子を阿弥陀あみだにかぶったまま、邪慳じゃけんにお敏を見下しながら、「ええ、阿母おっかさんは御在宅ですか。手前少々見て頂きたい事があって、上ったんですが、――御覧下さいますか、いかがなもんでしょう。御取次。」と、白々しくずっきり云った。――それがどのくらいつらかったのでしょう、お敏はやはり手をついたまま、消え入りたそうに肩を落して、「はい。」と云ったぎりしばらくは涙を呑んだようでしたが、もう一度新蔵が虹のような酒気を吐いて、「御取次。」と云おうとすると、ふすまを隔てた次の間から、まるでがまつぶやくように、「どなたやらん、そこな人。遠慮のうこちへ通らっしゃれ。」と、力のない、鼻へ抜けた、お島婆さんの声が聞えました。そこな人も凄じい。お敏を隠した発頭人。まずこいつをとっちめて、――と云う権幕でしたから、新蔵はずいと上りざまに、夏外套を脱ぎ捨てると、思わず止めようとしたお敏の手へ、麦藁帽子を残したなり、昂然と次の間へ通りました。が、可哀そうなのは後に残ったお敏で、これは境の襖の襖側にぴったりと身を寄せたまま、夏外套や麦藁帽子の始末をしようと云う方角もなく、涙ぐんだ涼しい眼に、じっと天井を仰ぎながら、華奢きゃしゃな両手を胸へ組んで、しきりに何か祈念でも凝らしているように見えたそうです。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页  尾页

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

发表评论】【加入收藏】【告诉好友】【打印此文】【关闭窗口

相关文章

私の好きなロマンス中の女性(わたしのすきなロマンスちゅうのじょせい)
露訳短篇集の序(ろやくたんぺんしゅうのじょ)
LOS CAPRICHOS(ロス カプリチョス)
路上(ろじょう)
六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)
老年(ろうねん)
恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ(れんあいとめおとあいとをこんどうしてはならぬ)
るしへる(るしへる)
竜(りゅう)
羅生門の後に(らしょうもんのあとに)
羅生門(らしょうもん)
世之助の話(よのすけのはなし)
横須賀小景(よこすかしょうけい)
百合(ゆり)
夢(ゆめ)
誘惑(ゆうわく)
悠々荘(ゆうゆうそう)
槍が岳に登った記(やりがたけにのぼったき)
槍ヶ岳紀行(やりがたけきこう)
山鴫(やましぎ)
藪の中(やぶのなか)
保吉の手帳から(やすきちのてちょうから)
文部省の仮名遣改定案について(もんぶしょうのかなづかいかいていあんについて)
桃太郎(ももたろう)
Mensura Zoili(メンスラ ゾイリ)