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六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)



       四

 男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻のうからと、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日粟津あはづに滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男はひなにゐる間も、二三度京の妻のもとへ、ねんごろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦一層ひとしほだつた。男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。
 六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足よつあしの門も、檜皮葺ひはだぶきの寝殿やたいも、ことごとく今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土ついぢだけだつた。男は草の中にたたずんだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱なぎが少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉をむらがらせてゐた。
 男は政所まんどころおぼしいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。男は闇をかしながら、そつとその人影に声をかけた。すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。
 尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。
「御見忘れでもございませうが、手前は御内みうちに仕へて居つた、はしたの母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りました。が、その内に夫と共々、但馬たじまへ下る事になりましたから、手前もその節娘と一しよに、御暇おいとまを頂いたのでございます。所がこの頃姫君の事が、何かと心にかかりますので、手前一人京へ上つて見ますと、御覧の通り御屋形も何もなくなつて居るのでごさいませんか? 姫君も何処へいらつしやつた事やら、――実は手前もさき頃から、途方に暮れて居るのでございます。殿は御存知もございますまいが、娘が御奉公申して居つた間も、姫君のお暮しのおいたはしさは、申しやうもない位でございました。……」
 男は一部始終を聞いた後、この腰の曲つた尼に、下の衣を一枚脱いで渡した。それから頭を垂れた儘、黙然と草の中を歩み去つた。

       五

 男は翌日から姫君を探しに、洛中らくちゆうを方々歩きまはつた。が、何処へどうしたのか、容易にがたはわからなかつた。
 すると何日か後の夕ぐれ、男はむらさめを避ける為に、朱雀門すざくもんの前にある、西の曲殿きよくでんの軒下に立つた。其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。雨は丹塗にぬりの門の空に、寂しい音を立て続けた。男は法師を尻目にしながら、苛立いらだたしい思ひをまぎらせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子れんじの中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男はほとんど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。
 窓の中には尼が一人、破れたむしろをまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程れてゐるらしかつた。しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。男は声をかけようとした。が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌をんだ。
「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」
 男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。姫君はさすがに枕を起した。が、男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、又筵の上に俯伏うつぶしてしまつた。尼は、――あの忠実な乳母は、其処へ飛びこんだ男と一しよに、あわてて姫君を抱き起した。しかし抱き起した顔を見ると、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。
 乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を読誦どくじゆする代りに、姫君へかう言葉をかけた。
「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名みなをお唱へなされ。」
 姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名ぶつみやうを唱へ出した。と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。
「あれ、あそこに火の燃える車が。……」
「そのやうな物にお恐れなさるな。御仏みほとけさへ念ずればよろしうござる。」
 法師はやや声を励ました。すると姫君は少時しばらくの後、又夢うつつのやうにつぶやき出した。
金色こんじき蓮華れんげが見えまする。天蓋てんがいのやうに大きい蓮華が。……」
 法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。
「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」
「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ?」
 法師は殆ど叱るやうに云つた。が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。
「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」
 男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏をたすけてゐた。さう云ふ声の雨にまじる中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……

       六

 それから何日か後の月夜、姫君に念仏をすすめた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、ごろもの膝を抱へてゐた。すると其処へさむらひが一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路おほぢを歩いて来た。侍は法師の姿を見ると、草履ざうりの足をめたなり、さりげないやうに声をかけた。
「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」
 法師は石畳みにうづくまつた儘、たつた一言返事をした。
「お聞きなされ。」
 侍はちよつと耳を澄ませた。が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。侍は口を動かさうとした。しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。
 侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。
「御仏を念じておやりなされ。――」
 法師は月光に顔をもたげた。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ふがひない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
 しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。
内記ないき上人しやうにんではございませんか? どうして又このやうな所に――」
 在俗の名は慶滋よししげ保胤やすたね、世に内記の上人と云ふのは、空也くうや上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門しやもんだつた。

(大正十一年七月)




 



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:林めぐみ
1998年12月2日公開
2004年3月16日修正
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