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路上(ろじょう)



        二十五

 新田にったはまず三人の客を病院の応接室へ案内した。そこはこの種の建物には珍しく、窓掛、絨氈じゅうたん、ピアノ、油絵などで、甚しい不調和もなく装飾されていた。しかもそのピアノの上には、季節にはまだ早すぎる薔薇ばらの花が、無造作むぞうさに手頃な青銅の壺へしてあった。新田は三人に椅子をすすめると、俊助しゅんすけの問に応じて、これは病院の温室で咲かせた薔薇だと返答した。
 それから新田は、初子はつこ辰子たつことの方へ向いて、あらかじめ俊助が依頼して置いた通り、精神病学に関する一般的智識とでも云うべきものを、歯切れのい口調で説明した。彼は俊助の先輩として、同じ高等学校にいた時分から、畠違はたけちがいの文学に興味を持っている男だった。だからその説明の中にも、種々の精神病者の実例として、ニイチェ、モオパッサン、ボオドレエルなどと云う名前が、一再ならず引き出されて来た。
 初子は熱心にその説明を聞いていた。辰子も――これは始終伏眼ふしめがちだったが、やはり相当な興味だけは感じているらしく思われた。俊助は心の底の方で、二人の注意をきつけている説明者の新田が羨しかった。が、二人に対する新田の態度はほとんど事務的とも形容すべき、甚だ冷静なものだった。同時にまた縞の背広に地味な襟飾ネクタイをした彼の服装も、世紀末せいきまつの芸術家の名前を列挙するのが、不思議なほど、素朴に出来上っていた。
「何だか私、御話を伺っている内に、自分も気が違っているような気がして参りました。」
 説明が一段落ついた所で、初子はことさら真面目な顔をしながら、ため息をつくようにこう云った。
「いや、実際厳密な意味では、普通正気しょうきで通っている人間と精神病患者との境界線が、存外はっきりしていないのです。いわんやかの天才と称する連中れんじゅうになると、まず精神病者との間に、全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通りロムブロゾオの功績です。」
「僕は差別のある点も指摘して貰いたかった。」
 こう俊助が横合よこあいから、冗談じょうだんのように異議を申し立てると、新田は冷かな眼をこちらへ向けて、
「あれば勿論指摘したろう。が、なかったのだから、やむを得ない。」
「しかし天才は天才だが、気違いはやはり気違いだろう。」
「そう云う差別なら、誇大妄想狂こだいもうぞうきょう被害ひがい妄想狂との間にもある。」
「それとこれと一しょにするのは乱暴だよ。」
「いや、一しょにすべきものだ。成程天才は有為エフィシエントだろう。狂人は有為エフィシエントじゃないに違いない。が、その差別は人間が彼等の所行しょぎょうに与えた価値の差別だ。自然に存している差別じゃない。」
 新田の持論を知っている俊助は、二人の女と微笑を交換して、それぎり口をつぐんでしまった。と、新田もさすがに本気すぎた彼自身を嘲るごとく、薄笑の唇をゆがめて見せたが、すぐに真面目な表情に返ると、三人の顔を見渡して、
「じゃ一通り、御案内しましょう。」と、気軽く椅子いすから立ち上った。

        二十六

 三人が初めて案内された病室には、束髪そくはつに結った令嬢が、熱心にオルガンをいていた。オルガンの前には鉄格子てつごうしの窓があって、その窓から洩れて来る光が、冷やかに令嬢の細面ほそおもてを照らしていた。俊助しゅんすけはこの病室の戸口に立って、窓の外をふさいでいる白椿しろつばきの花を眺めた時、何となく西洋の尼寺あまでらへでも行ったような心もちがした。
「これは長野のある資産家の御嬢さんですが、何でも縁談が調わなかったので、発狂したのだとか云う事です。」
御可哀おかわいそうね。」
 辰子たつこは細い声で、ささやくようにこう云った。が、初子はつこは同情と云うよりも、むしろ好奇心に満ちた眼を輝かせて、じっと令嬢の横顔を見つめていた。
「オルガンだけは忘れないと見えるね。」
「オルガンばかりじゃない。この患者は画も描く。裁縫もする。字なんぞは殊にたくみだ。」
 新田にったは俊助にこう云ってから、三人を戸口に残して置いて、静にオルガンの側へ歩み寄った。が、令嬢はまるでそれに気がつかないかのごとく、依然として鍵盤けんばんに指を走らせ続けていた。
今日こんにちは。御気分はいかがです?」
 新田は二三度繰返して問いかけたが、令嬢はやはり窓の外の白椿と向い合ったまま、振返る気色けしきさえ見せなかった。のみならず、新田が軽く肩へ手をかけると、恐ろしい勢いでふり払いながら、それでも指だけは間違いなく、この病室の空気にふさわしい、陰鬱な曲をきやめなかった。
 三人は一種の無気味ぶきみさを感じて無言のまま、部屋を外へ退しりぞいた。
「今日は御機嫌ごきげんが悪いようです。あれでも気が向くと、思いのほか愛嬌あいきょうのある女なんですが。」
 新田は令嬢の病室の戸をしめると、多少失望したらしい声を出したが、今度はそのすぐ前の部屋の戸を開けて、
「御覧なさい。」と、三人の客をさしまねいた。
 はいって見ると、そこは湯殿のようにゆかたたきにした部屋だった。その部屋のまん中には、つぼけたような穴が三つあって、そのまた穴の上には、水道栓が蛇口じゃぐちを三つ揃えていた。しかもその穴の一つには、坊主頭ぼうずあたまの若い男が、カアキイ色の袋から首だけ出して、棒を立てたように入れてあった。
「これは患者の頭をひやす所ですがね、ただじゃあばれるおそれがあるので、ああ云う風に袋へ入れて置くんです。」
 成程その男のはいっている穴では蛇口じゃぐちの水が細い滝になって、絶えず坊主頭の上へ流れ落ちていた。が、その男の青ざめた顔には、ただ空間を見つめている、どんよりした眼があるだけで、何の表情も浮んではいなかった。俊助は無気味を通り越して、不快な心もちにおびやかされ出した。
「これは残酷ざんこくだ。監獄の役人と癲狂院てんきょういんの医者とにゃ、なるもんじゃない。」
「君のような理想家が、昔は人体解剖かいぼうを人道にもとると云って攻撃したんだ。」
「あれで苦しくは無いんでしょうか。」
「無論、苦しいも苦しくないもないんです。」
 初子は眉一つ動かさずに、冷然と穴の中の男を見下みおろしていた。辰子は――ふと気がついた俊助が初子から眼を転じた時、もうその部屋の中にはいつの間にか、辰子の姿が見えなくなっていた。

        二十七

 俊助しゅんすけは不快になっていた矢先だから、初子はつこ新田にったとを後に残して、うす暗い廊下ろうかへ退却した。と、そこには辰子たつこが、途方とほうに暮れたように、白い壁を背負ってたたずんでいた。
「どうしたのです。気味が悪いんですか。」
 辰子は水々しい眼を挙げて、訴えるように俊助の顔を見た。
「いいえ、可哀かわいそうなの。」
 俊助は思わず微笑した。
「僕は不愉快です。」
「可哀そうだとは御思いにならなくって?」
「可哀そうかどうかわからないが――とにかくああ云う人間が、ああしているのを見たくないんです。」
「あの人の事は御考えにならないの。」
「それよりも先に、自分の事を考えるんです。」
 辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。
「薄情な方ね。」
「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら――」
「御親切?」
 そこへ新田と初子とが出て来た。
「今度は――と、あちらの病室へ行って見ますか。」
 新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃いまゆをひそめて、
「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」
「そう。少し頭痛ずつうがするの。」
 辰子は低い声でこう答えながら、ちょいとてのひらを額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、
「行きましょう。何でもないわ。」
 三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。
 やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、うしろの三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似てまねをした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様にねずみの棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓てんまどの光のもとに、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生よみがえって来るのを意識した。
「皆仲良くしているわね。」
 初子は家畜かちくを見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静にうなずいただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。
「どうです。中へはいって見ますか。」
 新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。
「僕はぴらだ。」
「私も、もう沢山。」
 辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。
「あなたは?」
 初子は生々した血の気をほおに漲らせて、びるようにじっと新田の顔を見た。
「私は見せて頂きますわ。」

        二十八

 俊助しゅんすけ辰子たつことは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、ななめ窓硝子まどガラスを射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇ばらの花も、前よりは一層重苦しく、甘い※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを放っていた。最後にあの令嬢のくオルガンが、まるでこの癲狂院てんきょういんの建物のつく吐息といきのように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子ながいすへ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のようにつぶやいた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
わたし? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋しろたびの上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口きんぐちくわえたまま、しばらくはただ黙然もくねんと辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」
 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
 俊助は冗談のように云った言葉が、案外真面目まじめな調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へうしろを向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇ばら※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤けんばんを打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑けいべつする感傷主義センティメンタリズムが、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険をまぬかれたと云う、満足らしいものはさらになかった。
 しばらくして初子はつこ新田にったと一しょに、応接室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、
「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。
「ええ、御蔭様で。」
 初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌あいきょうをふりきながら、
「ほんとうにわたしためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃればいのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹おなかに子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄こもりうたばかり歌っているの。」

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