一甲源一刀流の巻、二鈴鹿山の巻、三壬生と島原の巻、四三輪の神杉の巻、五竜神の巻、六間の山の巻、七東海道の巻、八白根山の巻、九女子と小人の巻、十市中騒動の巻、十一駒井能登守の巻、十二伯耆 安綱の巻、十三如法闇夜の巻、十四お銀様の巻、十五慢心和尚の巻、十六道庵と鰡八の巻、十七黒業白業の巻、十八安房の国の巻、十九小名路の巻、二〇禹門三級の巻。
この巻々の名は書物にする時につけたので、新聞に掲げている時はそうしているうちに、例の大震災で東京は殆んど全滅的の光景を現出した、市中の書物は
その事が終ってから、こんどは大毎、東日へ誘われて続きを書くことになったのである、そこでまた宣伝力が大いに拡大して来た、両紙へ書き出したのが「無明の巻」で、こんどは最初から巻の名をつけることにした、それをまた、この両紙へ執筆したのが七〇〇回ばかりに及んで、それを次々にまとめて、五冊、六冊、七冊の三冊各定価三円位ずつ Ocean の巻までを出した、引続き前のと共に盛んに売れたものである、しかし、大毎東日との関係はそこで絶たれてしまって第八冊の「
円本時代というのは改造社の創案で日本の出版界に大洪水を起さしめたものである、大菩薩峠もその潮流に乗じて大いに売り出した、出版者としての神田君も素晴らしい活躍をした、そこで印税としても
然しこの円本時代というものは出版者及び文学者に大きな投機心と成金とを与えたけれども、その功過というものはまだ解決しきれない問題として今日に残されている。
然し、円本時代が去ったとはいえ大菩薩峠の威力はなかなか衰えなかった、他の出版物は下火になってもこれのみは衰えないのである、そうして春秋社と著者との関係も時々何か小さなこだわりはあったけれども、大体に於て順調であって最近まで来たのであるが、遺憾ながら最近に至って非常に不本意なる事態を
その原因は出版社としての春秋社が営業不振に陥ったということが原因で、春秋社の営業不振は一つはまた一般出版界の不振の為で、その出版界の不振というのも
とは云え、この悲壮なる我々の健闘が決して悲愴なる結果をのみ生むものでは無く、前人の未だ
中里生曰 く
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったり誣 いたりすることは決してない、その辺を御承知の上で御一読を願いたい。(後略)
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったり
大菩薩峠新聞掲載史
時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
大菩薩峠の
当時余は都新聞の一社員であった、都新聞へ入社したのは当時の主筆田川大吉郎氏に拾われたので、新聞の持主は楠本正敏
田川氏が余輩を拾ったのは、小説家として採用するつもりではなく、
そうして偶然にも予想外の小説の方面に進出し、まあ、相当の成功を見るようになったのは、社中の誰も彼もが皆んな一奇とするところであったが、その辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作の著手といえばもっと古いのだが発表は右の通り、余が二十九歳の時である、当時余は都新聞の一記者として働いていて傍ら小説を書いたのである、小説を書くと多少の特別の手当があり、小説の著作権から来るところの興行の収入、それから
絵木版付で地方新聞へ転載掲載料等の別収入もあったものである、併し余は演劇映画の上演はその頃から絶対謝絶していたから小説を書いたからといって特にその書き出しの間もない頃に、伊原青々園君の紹介で、或る本屋から一回一円ずつで買いたいがという交渉があったことを覚えている、当時としては一回一円は
併し余は別に考うるところがあったから、興行物も絶対に謝絶し版権も売るようなことをせず、またみだりに出版を
そうしているうちに百回前後で一きりに切り上げるのを例とした、最初の時に与八がお浜の遺髪を携えて故郷へ帰るあたりで切った時分には読者から愛惜の声が耳に響くほど聞えたようである、しかし新聞は自分の持ちものではなし、いろいろ後を書く人の兼合も考えなければならないから、或る適度で止めるのが賢こい仕方であったのである、そうしているうちにまた次の小説が出たり引込んだりする合間を見ては続稿の筆を執ったのだが、あんまりすんなりとは行かなかった、社中でも奨励するものもあり、内心嫌がっているものもあり、どうもそれは
当時の
絵は第一回から通じて井川洗
君の筆であった、甚だ稀に数える程洗
君が入営するとか、病気とかいう時に門下の人が筆を執ることもあった、洗
君も社員の一員として専ら小説の
絵を担当し、第一回三回とも毎日二つ描いていた、当時新聞の小説は都でなければならないように思われ、また新聞の
絵は洗
でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗
君の絵に引立てられたものだ、追々洗
君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ
絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗
君と終始して少しも問題は起らなかった。それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに
この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと云われたものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の新聞の羨望の的であった、その新聞を楠本男が急に手離すようになったのは、年漸く老い社務も
松岡君は今は山形県選出の政友会の代議士となっているが都へ入社したのは余と同時であった、当時余は二十二歳、松岡君は二十八歳小生はくすぶった小学校教員上り、松岡君は紅顔の美男子であった、そのうち松岡君は市政方面から政治界へ進出する機会を作ったが、小生は
松岡君はそういう才物であったし、それに男っぷりがいいものだから、先輩に可愛がられる特徴をもっていて、随分金を融通することに妙を得ていた、その松岡君が周旋して都新聞を足利の実業家福田英助氏に買わせた。
そうして福田君を社長にして自分が先輩を乗り越えて副社長の地位に坐り込んで、その勢で選挙に出馬して首尾よく代議士の議席を
そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したことになった、その前後に福岡日日新聞で是非あれの続稿を欲しいという交渉が同社の営業部主任たる原田徳次郎君からあったのである、福岡日日へはその前後二三の連載小説を書いたことがあった、そこで原田君の懇望があった時に我輩も考えた、福岡日日新聞という新聞は地方新聞ではあるがなかなか立派な新聞である、新聞格に於ては当時の東京の一流新聞に比べても劣らない、新聞格としては都新聞などよりも上だといってもよろしい、その位の新聞だから、新聞に不足はないけれども、どうも都下の読者でまた後を読みたいという読者が多分にあるのである、どうか東京の読者に読ませるようにしたいものだと思わないことはなかったし、その当時東京朝日新聞などは大いに我輩に目星をつけていたのであるが、妙なことから行き違いになってしまった(この顛末はあとで委しく書く)、しかし、福日が向うからそういう懇望であって見ると、こちらも漸く決心して遂に原田君と約束だけはしてしまって一回の原稿料その時分は八円(これもその当時としてはなかなかいい値であった)ということまで先方の申出で決まってしまったと覚えている。
そうしているうちに、どういう処から聞きつけたのか、どうして知れたのか、その事は今記憶に無い、或いは小生から出所進退を明かにする為に一応その旨を通告したのかとも考えられるが、兎に角それが松岡君の耳に入ると、松岡君が小生の処へ飛んで来た、ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
「大菩薩峠が他新聞に連載されるとのことだが、これは以ての外のことだ、第一あれほどの作物をあちらこちらへ移動させることは作物に対する礼儀ではないし、色々の事情は兎も角も、発祥地としての都新聞が存在している、殊に友人としての自分が、新聞経営の責任ある地位に
というようなわけであった、松岡君も斯ういう処はなかなかいい肌合があるので、我輩もその意気には泣かされるものがあった、しかし福日との契約が最早や厳として成立しているのである、それを飜すことは出来ない、いや、それは何とでも、
それは今の何の巻のどの辺からであったか記憶しないが、相当に続けて行く、松岡君も自分の責任上福日と同一条件で無限に続けてもよろしい、という意気組であったのだが、
そこで余輩は云った、それは松岡君との約束もあるが、小生はそんな約束を楯にとって、ゴテようとは思わないが、何しろプツリと切ることは読んでいてくれる人の為に不忠実である、何でもたしか年の暮まで僅かの一月以内かの日数であったと思うが、ではそれまで書きましょう、そうして中止するにしても相当のくくりをつけて読者にうっちゃりを食わせるような行き方でないように仕末をつけて止めようではないかもう二三十回の処でたしかその年が終える、一月早々別の小説を載せるということは都新聞で幾らも例のあったことであるから、そうしたらどうかという提案を持ち出したが、山本君は、それはどうも困る、自分の立場としては今直ぐに止めて貰いたいという云い分であった、山本君も決して分らない人ではないが、詰り社中の空気が如何に大菩薩峠連載に好感を持っていなかったかという、その力に余儀なくされたものであろうと思う。
そこで余輩は直ちに答えた、そういうわけならば決して私は要求しません、即時に止めましょう、斯ういう話合で山本君は帰ったのだが、その時に帰り間際に山本君も、しかしまた他の新聞から交渉でもあった時は、都新聞の方へ知らせて貰いたいという希望を一言云われたが、その時小生は、それはお約束は出来ますまい、と云った。
右のような次第で、こんどは本当に都新聞と絶縁をしてしまったのだ、その時までは都新聞の方でも絶えず新聞も送っていてくれたが、それが済むと新聞の寄贈も無くなり、こちらも辞退した、つまり松岡君との交渉を山本君が代って清算してくれたのだ、小生としては松岡君の
さてそれから幾程を経て、東京日日と大阪毎日新聞との交渉になるのである。
底本:「中里介山全集第二十巻」筑摩書房
1972(昭和47)年7月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年6月15日作成
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