三十
最近の農業は、農業の商業化と云ったような大勢になって居る。
昔は金肥は殆どつかわず、機械力も極めて単純なもののみであったが、今日はそれとは全く違って居る。
即ち成る
ところでこれを以前の農業の農業でやって行けないものかどうか、昔の農家は今の農家のように、金肥をつかわなかった、金を出して肥料を買うという事は甚だすくなかった、それでも兎に角、農業はやって行けたのである、そうして相当着実でもあり余裕もある中堅農家が相当に存在し得たのである、一体農業というものにだけは、すべてが自給自足出来るようになって居るのが特長では無いか、廃物というものは一つもなく、
弥之助はこの新百姓に取り懸かる時、この事を一農者に尋ねて見るとその人は、言下にこれを
「それは駄目です、今時の百姓はうんと肥料に金を懸けて、うんと収穫をあげるようにしなければ、やって行けないです」
「でも昔の農業は、そう金を懸けずとも立派にやって行けたではないか」
「そりゃあ昔と今では違います、昔はせいぜい一反歩二石も取れれば上々だったのが、今は五石取り十石取りなどという事になって居るです、昔とはてんであがりが違います」
「でも同じ土地で同じ人間の力で、昔は金をかけないでやって行けたのだから、今もそれで、やればやれない筈はないではないか」
「肥料をやらなければ、第一土地が
「肥料をやらないで野育ちにという訳では無い、
「そうですね、それは無い事もないです、肥料を多く使わず土地を痩せかさないで、相当の収穫を見て行こうというには、それはなる可く土地を休養させるという方法をとる外はないでしょう」
「そこです、その土地を酷使せず適度の休養を与えて、そのかわり金肥を節約して、農業がやって行けないものかどうか、昔の農業はそれであったのでしょう」
「そうすれば、士地と肥料の調節は出来るとして、問題はその土地ですね、今の農家は適度の休養をさせる程、土地の余裕を持ちません、その点は昔のように、人口が少く比較的に土地が豊富であった時代とは違いますからね」
弥之助は心
三十一
百姓弥之助はうどんを作る事も、そばを打つ事も心得て居る。
うどん粉というものは、以前は小麦を水車にやって
手打うどんを作る段取りは、小麦粉を若干すくい取って、こね鉢の中に入れ適当にこね上げて、それを三尺四方程ののし板の上にのせ、めん棒でのし広げて、畳んで切って熱湯の中へ入れて、ゆで上げれば、それでうどんは出来上ったのであるが、これをざるに取って別に汁をこしらえて、盛りを食べるようにして食べるのが普通の方法である。それからこの地方ではもう一つ俗に「のし込み」というのがある、これはうどんをのして畳んで切って、熱湯の鍋の中へ入れる迄は、前と同じ事だが、それを揚げて取らないで、そのまま野菜を入れ醤油を入れて、煮込みにしてしまうのである。この「のし込み」というのは云わば
三十二
一体
そんな様な意味を食物の上に押しつめて行くと、木当のうまいものを食べ様と思えば手料理に限るのである。
弥之助は三十年来も自炊生活をして居るが、これは特種の性癖であって、決してうまい物を食べ度い贅沢から来て居るのでは無いけれども、その性癖の結果、弥之助独特の美味求真術を悟ったという次第である。
一体物それ自身の美味は、
そこで料理法というものが登場して来るのだが、これは人間の技巧でその巧拙には際限がない、料理に依って物それの味わいを活殺する事もまた人の知るところである、如何に材料が新鮮優良でも料理の手一つで活かしも殺しもすればこそ
弥之助は東京の有名な料理店の、相当多数を味わった事もあるが、その店独得の品物や腕前は別として、野菜類などに至ると、どんな腕前を見せた料理でも、弥之助自身が畑から取って来て荒らかに、手鍋の中にぶち込んだ風味に及ぶものはない、それは海岸に於ける魚類に於ても云える事で、ピチピチと網にはねる魚をつかまえて来て直に鍋に入れるという風味は、都会のどんな料理店でもやれない。今日都会の料理店に来る材料は、来る前にもう死んで居るのである、如何に名人上手の庖丁でも死んだものを活かす訳には行かぬ。
昔江戸時代の料理が、非常に贅沢で高価であって、八百膳などでも
また別に
果物についても同じ様な事が云える。近来の果物は出来た果物では無く、こしらえた果物である。スポーツでこしらえた肉体のように豊かには見えるが、引き締まった味というものが無い。弥之助の青年時代には林檎などは高級の果物の方で、書生でこれを食うのは
底本:「中里介山全集第十九巻」筑摩書房
1972(昭和47)年1月30日発行
底本の親本:「百姓弥之助の話 第一冊 植民地の巻」隣人之友社
1938(昭和13)年4月発行
※「漏れ承る所によると 天皇陛下に」および「この人は毎年麦を 天皇陛下に」の空白は底本のままです。
※「殖民地」と「植民地」、「碾割」と「引割」、「独占」と「独専」の混在は底本通りにしました。
入力:遠藤勇一(隣人館)
校正:多羅尾伴内
2005年1月7日作成
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