『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な
『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
けれども若者はそんな
『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
こんな
『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに
『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
窓は月のあかりでまるで
『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し
『おや、変な火が見えるぞ。
この時電燈がまたすつとつきボーイは又
『紅茶はいかがですか』と云ひながら
これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。
×
夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。
『どうしたんだらう。まだベーリングに着く
そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは
先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ
『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の
二番目の黒と白の
三番目のが云ひました。
『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網をテルマの岸に張らせやがつたやつは。連れてかう』
『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て』
紳士は引つたてられて泣きました。ドアがあけてあるので
二番目がしつかりタイチをつかまへて引つぱつて行かうとしますと三番目のはまだ立つたまゝきよろきよろ車中を見まはしました。
『
『ちがふちがふ』赤ひげはせはしく手を振つて云ひました。『ちがふよ。あれはほんとの毛皮ぢやない絹糸でこさへたんだ』
『さうか』
ゆふべのその外套をほんとのモロツコ
『よし、さあでは引きあげ、おい
その連中はぢりぢりとあと
そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されてもう
ズドン。ピストルが鳴りました。落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年は
赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。
『おい、
『わかつたよ。すぐ動かすよ』外で熊どもが叫びました。
『レールを横の方へ敷いたんだな』誰かが云ひました。
氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。
『さあけがをしないやうに降りるんだ』船乗りが云ひました。赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。
『そら、ピストル』船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。
『あの赤ひげは
氷山の
底本:「新修宮沢賢治全集 第十三巻」筑摩書房
1980(昭和55)年3月15日初版第1刷発行
初出:「岩手毎日新聞」
1923(大正12)年4月15日
※「ウヱスキー」と「ウヰスキー」、「眠る」と「睡る」の混在は底本通りにしました。
入力:マイマイマイ
校正:小林繁雄
2005年2月22日作成
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