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南京の基督(なんきんのキリスト)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 14:39:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       二

 数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀こほろぎの声が、寝台を洩れる二人の寝息に、寂しい秋意を加へてゐた。しかしその間に金花の夢は、ほこりじみた寝台のとばりから、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高々と昇つて行つた。
        *      *      *
 ――金花は紫檀したんの椅子に坐つて、卓の上に並んでゐる、さまざまな料理にはしをつけてゐた。燕の巣、さめひれした卵、いぶした鯉、豚の丸煮、海参なまこあつもの、――料理はいくら数へても、到底数へ尽されなかつた。しかもその食器がことごとく、べた一面に青い蓮華れんげや金の鳳凰ほうわうを描き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。
 彼女の椅子の後には、絳紗かうしやとばりを垂れた窓があつて、その又窓の外には川があるのか、静な水の音やかいの音が、絶えず此処まで聞えて来た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れてゐる、秦淮しんわいらしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確に天国の町にある、基督の家に違ひなかつた。
 金花は時々箸を止めて、テエブルの周囲を眺めまはした。が、広い部屋の中には、竜の彫刻のある柱だの、大輪の菊の鉢植ゑだのが、料理の湯気に仄めいてゐる外は、一人も人影は見えなかつた。
 それにも関らず卓の上には、食器が一つからになると、たちまち何処からか新しい料理が、暖な香気をみなぎらせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。と思ふと又箸をつけない内に、丸焼きのきじなぞが羽搏はばたきをして紹興酒せうこうしゆの瓶を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。
 その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後へ、歩み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後を振り返つて見た。すると其処にはどう云ふ訳か、あると思つた窓がなくて、緞子どんすの蒲団を敷いた紫檀したんの椅子に、見慣れない一人の外国人が、真鍮の水煙管みづぎせるくはへながら、悠々と腰を下してゐた。
 金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに来た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯気の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然うまさうな料理を運んで来た。彼女はすぐに箸を挙げて、皿の中の珍味をはさまうとしたが、ふと彼女の後にゐる外国人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、
「あなたも此処へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい声をかけた。
「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」
 円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
「ではあなたは召上らないのでございますか。」
「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶蘇基督ヤソキリストはまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。」
 南京の基督はかう云つたと思ふと、おもむろに紫檀の椅子を離れて、呆気あつけにとられた金花の頬へ、後から優しい接吻を与へた。
        *      *      *
 天国の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狭い部屋中にうすら寒く拡がり出した頃であつた。が、埃臭ほこりくさとばりを垂れた、小舸せうかのやうな寝台の中には、さすがにまだ生暖い仄かな闇が残つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向いた金花の顔は、色もわからない古毛布に、円いくくあごを隠した儘、いまだに眠い眼を開かなかつた。しかし血色の悪い頬には、昨夜の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髪が乱れて、心もち明いた唇の隙にも、糯米もちごめのやうに細い歯が、かすかに白々と覗いてゐた。
 金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉の丸焼きや、耶蘇基督や、その外いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寝台の中が、だんだんあかるくなつて来ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人な現実が、昨夜不思議な外国人と一しよに、この籐の寝台へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで来た。
「もしあの人に病気でも移したら、――」
 金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝はふたたび彼の顔を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に焼けた顔を何時までも見ずにゐる事は、猶更なほさら彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後、彼女はづ怯づ眼を開いて、今はもう明くなつた寝台の中を見まはした。しかし其処には思ひもよらず、毛布に蔽はれた彼女の外は、十字架の耶蘇に似た彼は勿論、人の影さへも見えなかつた。
「ではあれも夢だつたかしら。」
 あかじみた毛布をねのけるが早いか、金花は寝台の上に起き直つた。さうして両手に眼をこすつてから、重さうに下つた帷を掲げて、まだ渋い視線を部屋の中へ投げた。
 部屋は冷かな朝の空気に、残酷な位歴々ありありと、あらゆる物の輪廓を描いてゐた。古びたテエブル、火の消えたランプ、それから一脚は床に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子、――すべてが昨夜ゆうべの儘であつた。そればかりか現に卓の上には、西瓜の種が散らばつた中に、小さな真鍮の十字架さへ、鈍い光を放つてゐた。金花はまばゆい眼をしばたたいて、茫然ばうぜんとあたりを見まはしながら、暫くは取り乱した寝台の上に、寒さうな横坐りを改めなかつた。
「やつぱり夢ではなかつたのだ。」
 金花はかうつぶやきながら、さまざまにあの外国人の不可解な行く方を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる暇に、そつと部屋を抜け出して、帰つたかも知れないと云ふ気はあつた。しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言も別れを惜まずに、行つてしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、むしろ信じるに忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外国人から、まだ約束の十弗の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。
「それとも本当に帰つたのかしら。」
 彼女は重い胸を抱きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顔には見る見る内に、生き生きした血の色が拡がり始めた。それはペンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外国人の足音でも聞えた為であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移り香が、偶然恥しい昨夜の記憶をびさました為であらうか。いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起つた奇蹟が、一夜の中に跡方もなく、悪性を極めた楊梅瘡やうばいさういやした事に気づいたのであつた。
「ではあの人が基督様だつたのだ。」
 彼女は思はず襯衣したぎの儘、ころぶやうに寝台を這ひ下りると、冷たい敷き石の上にひざまづいて、再生の主と言葉を交した、美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈祷を捧げ出した。……

       三

 翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家はふたたびうす暗いランプの下に、彼女とテエブルを挾んでゐた。
「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」
 その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に真面目になつて、一夜南京にくだつた基督が、彼女の病を癒したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。
 その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――
「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加アメリカ人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透ロイテル電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の私窩子しくわしを一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼ぶらいな混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙をひらいてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」
 金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸マツチを擦つて、匂の高い葉巻をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。
「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度もわづらはないかい。」
「ええ、一度も。」
 金花は西瓜の種をかじりながら、暗れ晴れと顔を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。

本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮しんわいの一夜」に負ふ所すくなからず。附記して感謝の意を表す。
(大正九年六月)




 



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:柳沢成雄
1998年11月12日公開
2004年3月13日修正
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