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二つの道(ふたつのみち)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-21 11:28:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 惜しみなく愛は奪う
出版社: 角川文庫、角川書店
初版発行日: 1969(昭和44)年1月30日改版初版
入力に使用: 1979(昭和54)年4月30日発行改版14版

 

 一

 二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。すべての人がいろいろの仕方でその上を歩いている。ある者は赤い方をまっしぐらに走っているし、ある者は青い方をおもむろに進んで行くし、またある者は二つの道に両股をかけて欲張った歩き方をしているし、さらにある者は一つの道の分かれ目に立って、凝然として行く手を見守っている。揺籃(ようらん)の前で道は二つに分かれ、それが松葉つなぎのように入れ違って、しまいに墓場で絶えている。

   二

 人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業(わざ)である、人は一生のうちにいつかこのことに気がついて、驚いてその道を一つにすべき術(すべ)を考えた。哲学者と言うな、すべての人がそのことを考えたのだ。みずから得たとして他を笑った喜劇も、己(おの)れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕(あら)われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。

   三

 松葉つなぎの松葉は、一つなぎずつに大きなものになっていく。最初の分岐点から最初の交叉(こうさ)点までの二つの道は離れ合いかたも近く、程も短い。その次のはやや長い。それがだんだんと先に行くに従って道と道とは相失うほどの間隔となり、分岐点に立って見渡すとも、交叉点のありやなしやが危まれる遠さとなる。初めのうちは青い道を行ってもすぐ赤い道に衝当(つきあ)たるし、赤い道を辿(たど)っても青い道に出遇(であ)うし、欲張って踏み跨(また)がって二つの道を行くこともできる。しかしながら行けども行けども他の道に出遇いかねる淋しさや、己れの道のいずれであるべきかを定めあぐむ悲しさが、おいおいと増してきて、軌道の発見せられていない彗星(すいせい)の行方(ゆくえ)のような己れの行路に慟哭(どうこく)する迷いの深みに落ちていくのである。

   四

 二つの道は人の歩むに任せてある。右を行くも左を行くもともに人の心のままである。ままであるならば人は右のみを歩いて満足してはいない。また左のみを辿って平然としていることはできない。この二つの道を行き尽くしてこそ充実した人生は味わわれるのではないか。ところがこの二つの道に踏み跨がって、その終わるところまで行き尽くした人がはたしてあるだろうか。

   五

 人は相対界に彷徨(ほうこう)する動物である。絶対の境界は失われた楽園である。
 人が一事を思うその瞬時にアンチセシスが起こる。
 それでどうして二つの道を一条に歩んで行くことができようぞ。
 ある者は中庸ということを言った。多くの人はこれをもって二つの道を一つの道になしえた努力だと思っている。おめでたいことであるが、誠はそうではない。中庸というものは二つの道以下のものであるかもしれないが、少なくとも二つの道以上のものではない。詭弁(きべん)である、虚偽である、夢想である。世を済(すく)う術数である。
 人を救う道ではない。
 中庸の徳が説かれる所には、その背後に必ず一つの低級な目的が隠されている。それは群集の平和ということである。二つの道をいかにすべきかを究(きわ)めあぐんだ時、人はたまりかねて解決以外の解決に走る。なんでもいいから気の落ち付く方法を作りたい。人と人とが互いに不安の眼を張って顔を合わせたくない。長閑(のどか)な日和(ひより)だと祝し合いたい。そこで一つの迷信に満足せねばならなくなる。それは、人生には確かに二つの道はあるが、しようによってはその二つをこね合わせて一つにすることができるという迷信である。
 すべての迷信は信仰以上に執着性を有するものであるとおり、この迷信も群集心理の機微に触れている。すべての時代を通じて、人はこの迷信によってわずかに二つの道というディレンマを忘れることができた。そして人の世は無事泰平で今日までも続き来たった。
 しかし迷信はどこまでも迷信の暗黒面を腰にさげている。中庸というものが群集の全部に行き渡るやいなや、人の努力は影を潜めて、行く手に輝く希望の光は鈍ってくる。そして鉛色の野の果てからは、腐肥をあさる卑しい鳥の羽音が聞こえてくる。この時人が精力を搾(しぼ)って忘れようと勉(つと)めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。

   六

 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと呼んだ人もある。ヘレニズム、ヘブライズムと呼んだ人もある。Hard-headed, Tender-hearted と呼んだ人もある。霊、肉と呼んだ人もある。趣味、主義と呼んだ人もある。理想、現実と呼んだ人もある。空、色と呼んだ人もある。このごときを数え上げることの愚かさは、針頭の立ちうる天使の数を数えんとした愚かさにも勝(まさ)った愚かさであろう。いかなるよき名を用いるとも、この二つの道の内容を言い尽くすことはできまい。二つの道は二つの道である。人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現われた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、深奥な残酷な実在である。

   七

 我らはしばしば悲壮な努力に眼を張って驚嘆する。それは二つの道のうち一つだけを選み取って、傍目(わきめ)もふらず進み行く人の努力である。かの赤き道を胸張りひろげて走る人、またかの青き道をたじろぎもせず歩む人。それをながめている人の心は、勇ましい者に障(さわ)られた時のごとく、堅く厳しく引きしめられて、感激の涙が涙堂に溢れてくる。
 いわゆる中庸という迷信に付随しているような沈滞は、このごとき人の行く手にはさらに起こらない。その人が死んで倒れるまで、その前には炎々として焔が燃えている。心の奥底には一つの声が歌となるまでに漲(みなぎ)り流れている。すべての疲れたる者はその人を見て再びその弱い足の上に立ち上がる。

   八

 さりながらその人がちょっとでも他の道を顧みる時、その人はロトの妻のごとく塩の柱となってしまう。

   九

 さりながらまたその人がどこまでも一つの道を進む時、その人は人でなくなる。釈迦(しゃか)は如来(にょらい)になられた。清姫は蛇になった。

   一〇

 一つの道を行く人が他の道に出遇うことがある。無数にある交叉点の一つにぶつかることがある。その時そこに安住の地を求めて、前にも後ろにも動くまいと身構える向きもあるようだ。その向きの人は自分の努力に何の価値をも認めていぬ人と言わねばならぬ。余力があってそれを用いぬのは努力ではないからである。その人の過去はその人が足を停めた時に消えてなくなる。

   一一

 このディレンマを破らんがために、野に叫ぶ人の声が現われた。一つの声は道のみを残して人は滅びよと言った。あまりに意地悪き二つの道に対する面当(つらあ)てである。一つの声は二つの道を踏み破ってさらに他の知らざる道に入れと言った。一種の夢想である。一つの声は一つの道を行くも、他の道を行くも、その到達点にして同一であらばかまわぬではないかと言った。短い一生の中にもすべてを知り、すべてたらんとする人間の欲念を、全然無視した叫びである。一つの声は二つの道のうち一つの道は悪であって、人の踏むべき道ではない、悪魔の踏むべき道だと言った。これは力ある声である。が一つの道のみを歩む人がついに人でなくなることは前にも言ったとおりである。

   一二

 今でもハムレットが深厚な同情をもって読まれるのは、ハムレットがこのディレンマの上に立って迷いぬいたからである。人生に対して最も聡明(そうめい)な誠実な態度をとったからである。雲のごとき智者と賢者と聖者と神人とを産み出した歴史のまっただ中に、従容(しょうよう)として動くことなきハムレットを仰ぐ時、人生の崇高と悲壮とは、深く胸にしみ渡るではないか。昔キリストは姦淫(かんいん)を犯せる少女を石にて搏(う)たんとしたパリサイ人に対し、汝らのうち罪なき者まず彼女を石にて搏つべしと言ったことがある。汝らのうち、心尤(とが)めされぬ者まずハムレットを石にて搏つべしと言ったらばはたして誰が石を取って手を挙(あ)げうるであろう。一つの道を踏みかけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶(もだ)え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目(びもく)の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子と面を会わせて、空恐ろしいなつかしさを感ずるではないか。
 いかなる人がいかに言うとも、悲劇が人の同情を牽(ひ)くかぎり、二つの道は解決を見いだされずに残っているといわねばならぬ。
 その思想と伎倆(ぎりょう)の最も円熟した時、後代に捧ぐべき代表的傑作として、ハムレットを捕えたシェクスピアは、人の心の裏表(うらおもて)を見知る詩人としての資格を立派に成就した人である。

   一三

 ハムレットには理智を通じて二つの道に対する迷いが現われている。未だ人全体すなわちテムペラメントその者が動いてはいない。この点においてヘダ・ガブラーは確かに非常な興味をもって迎えられるべき者であろう。

   一四

 ハムレットであるうちはいい。ヘダになるのは実に厭(いや)だ。厭でもしかたがない。智慧(ちえ)の実を味わい終わった人であってみれば、人として最上の到達はヘダのほかにはないようだ。

   一五

 長々とこんなことを言うのもおかしなものだ。自分も相対界の飯を喰(く)っている人間であるから、この議論にはすぐアンチセシスが起こってくることであろう。



底本:「惜しみなく愛は奪う」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年1月30日改版初版
   1979(昭和54)年4月30日発行改版14版
初出:「白樺」明治43年5月
入力:鈴木厚司
ファイル作成:鈴木厚司
1999年2月13日公開
1999年8月19日修正
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