4
暗闇の中で伝書鳩がけたたましい羽搏きをし続けた。 彼はじいっと眠られない夜を、シイカの事を考え明すのだった。彼はシイカとそれから二三人の男が交って、いっしょにポオカアをやった晩の事を考えていた。自分の手札をかくし、お互いに他人の手札に探りを入れるようなこの骨牌のゲームには、絶対に無表情な、仮面のような、平気で嘘をつける顔つきが必要だった。この特別の顔つきを Poker-face と言っていた。――シイカがこんな巧みなポオカア・フェスを作れるとは、彼は実際びっくりしてしまったのだった。 お互いに信じ合い、恋し合っている男女が、一遍このポオカアのゲームをしてみるがいい。忍びこんだメフィストの笑いのように、暗い疑惑の戦慄が、男の全身に沁みて行くであろうから。 あの仮面の下の彼女。何んと巧みな白々しい彼女のポオカア・フェス!――橋の向うの彼女を知ろうとする激しい欲望が、嵐のように彼を襲ってきたのは、あの晩からであった。もちろん彼女は大勝ちで、マクラメの手提袋の中へ無雑作に紙幣束をおし込むと、晴やかに微笑みながら、白い腕をなよなよと彼の首に捲きつけたのだったが、彼は石のように無言のまま、彼女と別れてきたのだった。橋の所まで送って行く気力もなく、川岸へ出る露路の角で別れてしまった。 シイカはちょっと振り返ると、訴えるような暗い眼差しを、ちらっと彼に投げかけたきり、くるりと向うを向いて、だらだらと下った露路の坂を、風に吹かれた秋の落葉のように下りて行った。…… 彼はそっと起き上って蝋燭をつけた。真直ぐに立上っていく焔を凝視ているうちに、彼の眼の前に、大きな部屋が現れた。氷ったようなその部屋の中に、シイカと夫と彼らの子とが、何年も何年も口一つきかずに、おのおの憂鬱な眼差しを投げ合って坐っていた。――そうだ、ことによると彼女はもう結婚しているのではないかしら? すると、今度は暗い露路に面した劇場の楽屋口が、その部屋の情景にかぶさってダブってきた。――そこをこっそり出てくるシイカの姿が現れた。ぐでんぐでんに酔払った紳士が、彼女を抱えるようにして自動車に乗せる。車はそのままいずれへともなく暗の中に消えて行く。…… 彼の頭がだんだんいらだってきた。ちょうど仮装舞踏会のように、自分と踊っている女が、その無表情な仮面の下で、何を考えているのか。もしそっとその仮面を、いきなり外してみたならば、女の顔の上に、どんな淫蕩な多情が、章魚の肢のように揺れていることか。あるいはまた、どんな純情が、夢を見た赤子の唇のようにも無邪気に、蒼白く浮んでいることか。シイカが橋を渡るまでけっして外したことのない仮面が、仄の明りの中で、薄気味悪い無表情を示して、ほんのりと浮び上っていた。 彼は絶間ない幻聴に襲われた。幻聴の中では、彼の誠意を嗤うシイカの蝙蝠のような笑声を聞いた。かと思うと、何か悶々として彼に訴える、清らかな哀音を耳にした。 蝋涙が彼の心の影を浮べて、この部屋のたった一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝って、音もなく流れて行った。彼の空想が唇のように乾いてしまったころ、嗚咽がかすかに彼の咽喉につまってきた。
5
――私は、ただお金持ちの家に生れたというだけの事で、そりゃ不当な侮蔑を受けているのよ。私たちが生活の事を考えるのは、もっと貧しい人たちが贅沢の事を考えるのと同じように空想で、必然性がないことなのよ。それに、家名だとか、エチケットだとか、そういう無意義な重荷を打ち壊す、強い意志を育ててくれる、何らの機会も環境も、私たちには与えられていなかったの。私たちが、持て余した一日を退屈と戦いながら、刺繍の針を動かしていることが、どんな消極的な罪悪であるかということを、誰も教えてくれる人なんかありはしない。私たちは自分でさえ迷惑に思っている歪められた幸運のために、あらゆる他から同情を遮られているの。私、別に同情なんかされたくはないけど、ただ不当に憎まれたり、蔑まれたりしたくはないわ。 ――君の家はそんなにお金持なの? ――ええ、そりゃお金持なのよ。銀行が取付けになるたびに、お父さまの心臓はトラックに積まれた荷物のように飛び上るの。 ――ほう。 ――この間、いっしょに女学校を出たお友だちに会ったのよ。その方は学校を出るとすぐ、ある社会問題の雑誌にお入りになって、その方で活動してらっしゃるの。私がやっぱりこの話を持ちだしたら、笑いながらこう言うの。自分たちはキリストと違って、すべての人類を救おうとは思っていない。共通な悩みに悩んでいる同志を救うんだ、って。あなた方はあなた方同志で救い合ったらどう? って。だから、私がそう言ったの。私たちには自分だけを救う力さえありゃしない。そんなら亡んでしまうがいい、ってそう言うのよ、その女は。それが自然の法則だ。自分たちは自分たちだけで血みどろだ、って。だから、私が共通な悩みっていえば、人間は、ちょうど地球自身と同じように、この世の中は、階級という大きな公転を続けながら、その中に、父子、兄弟、夫婦、朋友、その他あらゆる無数の私転関係の悩みが悩まれつつ動いて行くのじゃないの、って言うと、そんな小っぽけな悩みなんか踏み越えて行ってしまうんだ。自分たちは小ブルジョア階級のあげる悲鳴なんかに対して、断然感傷的になってはいられない。だけど、あなたにはお友だち甲斐によいことを教えてあげるわ。――恋をしなさい。あなた方が恋をすれば、それこそ、あらゆる倦怠と閑暇を利用して、清らかに恋し合えるじゃないの。あらゆる悩みなんか、皆んなその中に熔かしこんでしまうようにね。そこへ行くと自分たちは主義の仕事が精力の九割を割いている。後の一割でしか恋愛に力を別たれない。だから、自分たちは一人の恋人なんかを守り続けてはいられない。それに一人の恋人を守るということは、一つの偶像を作ることだ。一つの概念を作ることだ。それは主義の最大の敵だ。だから、……そんなことを言うのよ。私、何んだか、心のありかが解らないような、頼りない気がしてきて、…… ――君はそんなに悩み事があるの? ――私は母が違うの。ほんとのお母さんは私が二つの時に死んでしまったの。 ――え? ――私は何んとも思っていないのに、今のお継母さんは、私がまだ三つか四つのころ、まだ意識がやっと牛乳の罎から離れたころから、もう、自分を見る眼つきの中に、限りない憎悪の光が宿っているって、そう言っては父を困らしたんですって。お継母さんはこう言うのよ。つまり私を生んだ母親が、生前、自分の夫が愛情を感ずるあらゆる女性に対して懐いていた憎悪の感情が、私の身体の中に、蒼白い潜在意識となって潜んでいて、それがまだあどけない私の瞳の底に、無意識的に、暗の中の黒猫の眼のように光っているんだ、ってそう言うのよ。私が何かにつけて、物事を僻んでいやしないかと、しょっちゅうそれを向うで僻んでいるの。父は継母に気兼ねして、私の事は何んにも口に出して言わないの。継母は早く私を不幸な結婚に追いやってしまおうとしているの。そしてどんな男が私を一番不幸にするか、それはよく知っているのよ。継母は自分を苦しめた私を、私はちょっともお継母さんを苦しめたことなんかありはしないのに、私が自分より幸福になることをひどく嫌がっているらしいの。そんなにまで人間は人間を憎しめるものかしら。……中で、私を一番不幸にしそうなのは、ある銀行家の息子なの。ヴァイオリンが上手で、困ったことに私を愛しているのよ。この間、仲人の人がぜひその男のヴァイオリンを聞けと言って、私に電話口で聞かせるのよ。お継母さんがどうしても聞けって言うんですもの。後でお継母さんが出て、大変けっこうですね、今、娘が大変喜んでおりました、なんて言うの。私その次に会った時、この間の軍隊行進曲はずいぶんよかったわね、ってそ言ってやったわ。ほんとはマスネエの逝く春を惜しむ悲歌を弾いたんだったけど。皮肉っていや、そりゃ皮肉なのよ、その人は。いつだったかいっしょに芝居へ行こうと思ったら、髭も剃っていないの。そう言ってやったら、すました顔をして、いや一遍剃ったんですが、あなたのお化粧を待っているうちに、また伸びてしまったんですよ。どうも近代の男は、女が他の男のために化粧しているのを、ぽかんとして待っていなければならない義務があるんですからね、まったく、……って、こうなのよ。女を軽蔑することが自慢なんでしょう。軽蔑病にかかっているのよ。何んでも他のものを軽蔑しさえすれば、それで自分が偉くなったような気がするのね。近代の一番悪い世紀病にとっつかれているんだわ。今度会ったら紹介してあげるわね。 ――君は、その人と結婚するつもり? シイカは突然黙ってしまった。 ――君は、その男が好きなんじゃないの? シイカはじっと下唇を噛んでいた。一歩ごとに振動が唇に痛く響いて行った。 ――え? 彼が追っかけるように訊いた。 ――ええ、好きかもしれないわ。あなたは私たちの結婚式に何を送ってくださること? 突然彼女がポロポロと涙を零した。 彼の突き詰めた空想の糸が、そこでぽつりと切れてしまい、彼女の姿はまた、橋の向うの靄の中に消えてしまった。彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮と情熱が、まるでコクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28-上段-1]ークのように攪き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張りだした。 川沿いの並木道が長く続いていた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでいた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。 ――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。 ――女優? ――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優じゃないわ。女が瞬間に考えついたすばらしい無邪気な空想を、いちいちほんとに頭に刻みこんでいたら、あなたは今に狂人になってしまってよ。 ――僕はもう狂人です。こら、このとおり。 彼はそう言いながら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに駈けだして行ってしまった。 シイカはそれをしばらく見送ってから、深い溜息をして、無表情な顔を懶げに立てなおすと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のように、とぼとぼと橋の方へ向って歩きだした。 彼女の唇をかすかに漏れてくる吐息とともに、落葉を踏む跫音のように、……
君は幸あふれ、 われは、なみだあふる。
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