三
「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」 と火鉢の縁に軽く肱を凭たせて、謙造は微笑みながら、 「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお世辞に云う事だったね。誰かに肖ていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと反対だったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。 そうです、確にそう云った事を覚えているよ。」 お君は敷けと云って差出された座蒲団より膝薄う、その傍へ片手をついたなりでいたのである。が、薄化粧に、口紅濃く、目のぱっちりした顔を上げて、 「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は極が悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」 謙造は親しげに打頷き、 「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」 「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな手巾を、袂の中で引靡けて、 「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……伺いました上で、それにつきまして少々お尋ねしたいと存じまして。」と俯目になった、睫毛が濃い。 「聞きましょうとも。その肖たという事の次第を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分眩しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張って、威張って。」 「いいえ、どういたしまして、それでは……」 しかし眩ゆかったろう、下掻を引いて座をずらした、壁の中央に柱が許、肩に浴びた日を避けて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。 「実はもうちっと間があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程んだからそうしてはいられない。」 「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前と存じまして、お宿へ、飛だお邪魔をいたしましてございますの。」 「宿へお出は構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。 そうかと云って昨夜のような、杯盤狼藉という場所も困るんだよ。 実は墓参詣の事だから、」 と云いかけて、だんだん火鉢を手許へ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ圧して、 「お前さん、煙草は?」 黙って莞爾する。 「喫むだろう。」 「生意気でございますわ。」 「遠慮なしにお喫り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」 「いいえ、持っておりますよ。」 と帯の処へ手を当てる。 「そこでと、湯も沸いてるから、茶を飲みたければ飲むと……羊羹がある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお撮みと……今に何ぞご馳走しようが、まあ、お尋の件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」 独りで云って、独りで極めて、 「さて、その事だが、」 「はあ、」 とまた片手をついた。胸へ気が籠ったか、乳のあたりがふっくりとなる。 「余り気を入れると他愛がないよ。ちっとこう更っては取留めのない事なんだから。いいかい、」 ともの優しく念を入れて、 「私は小児の時だったから、唾をつけて、こう引返すと、台なしに汚すと云って厭がったっけ。死んだ阿母が大事にしていた、絵も、歌の文字も、対の歌留多が別にあってね、極彩色の口絵の八九枚入った、綺麗な本の小倉百人一首というのが一冊あった。 その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。
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