十四
強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタリと櫃を押遣って、立てていた踵を下へ、直ぐに出て来た。 「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」 今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻口を指したまま、鱗でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮か、冴か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹を潰した渋柿に似てころりと飛んだ。 僧はハアと息が長い。 余の事に熟と視て、我を忘れた女房、 「何をするんですよ。」 一足退きつつ、 「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」 と屹といったが、腹立つ下に心弱く、 「御坊さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。 それでは御膳にしてあげましょうか。 そうしましょうかね。 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児に世話が焼けますのに、入相で忙しいもんですから。……あの、茄子のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」 薄暗がりに頷いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、 「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。 これにギョッとして立淀んだけれども、さるにても婦人一人。 ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間ももどかしく、良人の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜かったけれども、目を瞑って、やがて嬰児を襟に包んだ胸を膨らかに、膳を据えた。 「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可ません、ようござんすか。」 と茶碗に堆く装ったのである。 その時、間の四隅を籠めて、真中処に、のッしりと大胡坐でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆った。 「あれえ、」 と驚いて女房は腰を浮かして遁げさまに、裾を乱して、ハタと手を支き、 「何ですねえ。」 僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中にも袖で庇った、女房の胸をじりりとさしつつ、 (児を呉れい。) と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。 その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴が号外、悲しげに浦を駈け廻って、蒼海の浪ぞ荒かりける。
明治三十九年(一九〇六)年一月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 尾页
|